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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第十一章 澄み渡る月光
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Ⅺー1 無視と溺愛

■愛された子

 月光が室内に射し込む。

 ゆったりしたソファに身を沈め、ラウ伯爵は弟レオンのことを思い出していた。


――わたしは祖父から爵位を、祖母から商才を、母から美貌を受け継いだ。そしてその三人すべてから相当の財産を受け継いだ。父から受け継いだものはほとんどない。


 父は心が弱い人だった。高貴な身分を目当てに近寄ってくる人の本音を見極めることなく、金を与えたり、ものを与えたり。口先だけでも感謝や称賛をうけることが生きがいだったのかもしれない。

 由緒あるラウ伯爵家のたった一人の子として生まれ、大きな期待を受けながら、親の期待に応えられなかったことが負い目になっていたのだろう。


 父は体も弱く、華奢で繊細な美男子だった。利発な子だったが、無理をすると寝込んでしまうため、過保護に育てられたという。祖父は冷静な決断力のある政治家で、祖母はビジネスで成功したが、父の関心は政治にもビジネスにも向かず、芸術に向かった。絵を描くのを好み、亡くなった時には多くの絵が残されていた。しかし、わたしから見れば、どの絵も凡作だ。


 祖父の威光と祖母の財力、そして父の弱さに目をつける者は多かったようだ。父はあちこちに出かけては厚遇され、ときには娘を紹介されたこともあったらしい。

 父は「断る」ことが苦手で、結局、わたしには三人の腹違いの弟妹が生まれた。


 父の情報は逐一祖父母に伝えられており、激怒した祖父は最初の愛人とその息子を相応の持参金をつけて遠縁に縁付かせた。次の愛人も娘もろとも遠方の地方貴族に嫁がされた。

 わたしはその二人の異母弟妹には会ったこともない。祖父は周到にかれらが伯爵家の関係者と名乗り出ないよう手をまわした。それだけでなく、父自身には伯爵家に関わる財産を持たさず、万が一、相続でもめたときにも困らないようにしていた。


 三人目の弟だけは違った。二人の愛人への仕打ちに懲りたのか、父は生まれて初めて祖父に強い抵抗の意思を示した。父は放浪の画家と名乗って、足しげく愛人のもとに通い、子が生まれた。それがレオンだ。その女性は父が初めて自分で選んだ恋人で、地位も財産も学歴もない女性だった。


 母は三人目の愛人の存在を知り、激怒した。一人目、二人目までは、父と相手の女性を軽蔑するだけだった。しかし、三人目は違った。父が本気で彼女を愛したからだ。母は父に見切りをつけた。わたしが十歳の時だ。母は実家に戻った。


 母は、伯爵家よりはるかに格上の侯爵家の令嬢だ。父に期待する必要などもともとなかった。父のはかなげな美貌に恋心を抱き、母のほうから父に嫁ぎたいと申し出たらしい。しかし、母のプライドを父はズタズタにした。むしろ母の存在が重荷だったのだろう。

 母は、王太子妃候補となるべく育てられ、家柄・美貌・教養すべてに秀でた女性だ。それらをすべてなげうって、格下の父に嫁いだのだ。


――わたしは、父よりも母に似ている。

 よくそう言われた。このため、母方の祖父母からも溺愛された。両親が離婚したあとも、わたしはしばしば母方の侯爵家に呼ばれて、歓迎された。


 実家に戻った母は、口さがないミン王国で暮らすことを拒み、アカデメイアの館を一つもらい、優雅に独り暮らしを楽しんで、理事長としてアカデメイアの再建に尽力した。アカデメイアにおけるわたしの副理事長としての地位は、母あればこそだ。

 母からは結婚の無意味さをさんざん聞かされた。わたしが結婚に興味を持たなくなったのはそのせいかもしれない。


 父は母に捨てられてから、愛人の女性を妻に迎えようとした。しかし、祖父がこれを決して許さなかった。家格が違い、教養が違い、礼儀が違い、何もかもが違う。わたしが十三歳の時、ひそかに弟が生まれたが、その存在は隠された。そして、十五歳の時、父が亡くなり、後を追うように祖父も逝った。


 祖父とは違って、祖母は最後の孫を見捨てなかった。祖父には内緒で伯爵家の遠縁として生活に苦労しないように十分な支援をし、高額な学費を負担して学ばせていたのだ。いつかわたしの右腕となるように期待したらしい。その子の母が無欲で、父を心から慕い、足りないものの多い息子を大切に思ってくれていることに祖母はひそかに感謝していた。


■弟

――弟の名はレオンといった。

 わたしが初めて弟に会ったとき、わたしは十五歳、弟は二歳になっていた。母親の愛情を一身に受けて育っている弟は人懐っこく、素直でかわいらしかった。

 わたしは親戚のお兄ちゃんとして紹介された。カトマール内戦を受けて乳母パドアが仕事をやめ、家に戻ることになった。彼女を送るという名目で、その途中、わたしは弟のところに立ち寄ったのだ。伯爵家の総帥となった祖母の意向だった。


 弟とその母が暮らす家は、ミン王国のはずれにあり、古くからのラウ伯爵家直轄領にあった。伯爵家に忠実な老人が管理人として広大な農地と森と湖を管理していたが、その管理人にも村人にも弟一家は伯爵家の遠縁として紹介されていた。

 祖父の命令に従って、父の身分は隠され、弟一家は村人とまったく交流せず、ひっそりと暮らした。管理人の死後、弟一家が名目上の管理人となった。


 村から遠く離れ、ポツンと一軒家のその家はさほど大きくなく、家の中も質素だった。だが、父のアトリエがあり、父の絵があちこちに飾られていた。ほとんどのモデルは弟とその母だった。


 わたしはなぜか苦い思いを感じた。

 わたしは父に抱かれた記憶もなければ、母に子守唄をうたってもらった記憶もない。父はわたしもわたしの母も描かなかった。なのに、弟にはそのすべてがあった。


 たまらずわたしは森に向けて走った。弟が追いかけてきた。弟の小さな足ではいくらも走れない。すぐに泣き声が聞こえてきた。

 ギョッとして振り向くと、弟は腹ばいになって大声をあげていた。木の切り株に躓いたようだ。一瞬も躊躇せずに戻ったのは、わたしが無意識に弟を愛しいと思っていたからだろう。


 だが、わたしが助け起こすより先に、見ず知らずの少女が弟を助け起こしていた。


「大丈夫?」

 そう問いかけながら、その少女は、膝を擦りむいた弟の足のどろを払い落とし、持っていたハンカチで弟の血をぬぐった。弟は、グスングスンと言いながら、されるままになっている。


 小雨が降り始めた。

「ありがとう」とわたしが言うと、少女はわたしをちらっと見て、「いいえ」とだけ言った。


 弟の家から駆けてきたわたしの護衛の姿を見るや、少女はさっと姿を翻し、森の奥へと駆けていった。森の精のように思えた。それほどきれいで透明感のある少女だった。


 弟の母はわたしに心から感謝して、温かいスープをふるまってくれた。家族だけの食事などしたことがなかった。じわっと涙が出てきた。わたしが絶対に手に入れることができないものを弟は持っている。

 昼過ぎ、家を辞そうとすると、幼い弟がわたしの服を引っ張った。行くなと言っているのだ。なんだかうれしかった。わたしには血がつながった弟がここにいる。


 車でパドアの村に向かう途中、少女が男に殴られていた。さきほどの森で出会った少女だった。

 わたしは車を止めさせ、護衛に少女を助けるよう命じた。屈強な護衛に驚いた男は走り去り、少女はくずおれた。ほほが赤くはれている。だが、彼女は護衛からも、わたしからも逃げようとした。急いでパドアが出て行った。彼女は、パドアだけは拒まず、そのままパドアの胸に倒れこんだ。


 車の後部座席に運び込むと、パドアの膝の上に頭をもたげて少女は苦しそうに呻いた。パドアが言った。

「この子の足はひどく腫れています。熱も高いですね」

 車の速度を上げて、パドアの村に向かった。村に行けば、医者がいる。


 その間、少女はわたしとは顔を合わせようとしなかった。パドアにも、少女は何も語らなかったようだ。まだ十二、三歳の少女だ。顔立ちは上品で、ふるまいも言葉遣いもしつけが行き届いている。着ているものは粗末ではない。それなりの家柄の娘だと思われたが、何も語らない。


 パドアは、しばらく自分が預かると申し出た。少女が落ち着いたらまた別の手立てもあるだろうと。夫と乳児を事故で失って、伯爵家に迎えられた乳母パドアは一人暮らし。少女が一人増えたとて生活に困るわけでもない。だが、その後、その子の話をパドアから聞いたことはない。彼女もわたしには何も告げなかった。いつの間にか、わたしはその少女のことを忘れていた。


 それから五年後、二十歳になったわたしは、祖母から伯爵家当主の座を譲られた。二十五歳で祖母を喪い、わたしにはたった一人の弟が残された。祖母は、学齢期を迎えた弟を寄宿舎のある遠方の学校に入れたが、いずれは弟がアカデメイアで学ぶことを期待し、その旨を遺言に記していた。すぐにアカデメイアに入れなかったのは、わたしの母への気兼ねからだろう。


 祖母の遺言に従い、わたしは、弟が十八歳になったときにアカデメイアに入学できるよう手配した。その母もろとも迎えることにしたのだ。やっと息子と一緒に暮らせるようになった彼女はとても喜んだ。だが、ここに来る途中で事故が起こった。


 弟を守った母親は即死し、弟は瀕死だった。

 ラウ財団病院の特別室に運び込み、治療を受けさせたが、脳に相当の損傷を受けたらしく、顔は赤黒く腫れていた。彼の意識はなかなか戻らなかった。悲しいと思うには関わりがなさすぎ、無視するには祖母の思いが重すぎた。


 瀕死でベッドに横たわる弟を見て、わたしは唐突にあの少女のことを思い出した。当主になったときに、ミン王国に戻っていた乳母をわたしは再びそばに呼び寄せていたが、あの少女の行方を乳母に尋ねたことはない。

 少女を思い出したのは、彼女が恋しかったからではない。切り株に躓いて泣く弟にすぐに振り返った自分を思い出し、自分に代わって少女が弟を助け起こしたときのあの光景がよみがえったからだ。あれはまさしく、血を分けた弟への愛情を感じた瞬間だった。


 いま、そのたった一人の弟の命の火が消えようとしている。父に愛された弟はまだわずか十八歳。


――わたしは弟の手を取った。

 しだいにその手が冷たくなっていく。わたしの目から涙があふれた。この弟をわたしのそばに置き、いつかは、わたしの後継にしようと考えていたのに……。

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