Ⅸー3 逃亡の道
■逃亡の道
カトマールからミン国へ抜ける山道はいまも整備されていなかった。
猟師が歩む獣道だ。ほとんど知られていない道だった。かつて食糧を得た木の場所もほぼ覚えている。進む道の目印にもなっていたからだ。
あの時は逃げるのに精一杯で、他のことは何も考えなかった。だが、今改めて道を見ながら、ふと気になった。……いったいだれがこの道を見つけ、逃亡者が道に迷わぬよう、そして飢えることがないよう手配したのか?
皇室と香華族に仕える密偵「鷹」とは思えない。彼らは特別訓練を受けた者であるとはいえ、主に都市部や外国に潜入し、情報を集めることが任務だ。ひとがほとんど住んでいない山道を切り拓くのに長けているとは言えない。
数日歩くと、見晴らしがきく丘に出た。当時は見つからぬよう木陰を駆け抜けた。
だがいま、晴天の下で見渡すと、広大な平野と河、そして深い森が見える。あの深い森はルナ神殿遺跡がある神域。森の入り口に近いところには、懐かしい離宮が見える。
アリア皇帝はあの離宮がお気に入りで、家族でよく過ごしていた。いま、あの離宮に副大統領夫人アユが住んでいるという。
いまさらながら、ヤオは思い出した。この山道の麓には、ファウン皇帝の夫君シュンが生まれ育った村があるはず。皇帝はこの離宮に来たときに夫君と出会ったのだから。ヤオはいったん山道を降りて、村に向かった。
開発の波は村にも及んでいた。村人の多くが、建設中のルナ大劇場工事に雇用されていた。
だが、村の自然は残されていた。田畑も里山も、昔ながらの農家も。自然と農業を損なわないよう、政府から補助金が出ているとか。豊かになった村の資産は、学校に充てられた。地元の木材を使い、地域の職人の手で作られた木造の学校だった。内戦時代に学校に通えなかった大人たちのために、成人学校も整備されている。
フラリと村に入ってきた貧しい風体の痩せた大男を、村人は警戒した。こうした目にはヤオは慣れている。そして、警戒の目の奥に潜む好奇心にも。女性や子どもに近づくと、追い払われる。
ヤオは、野良仕事を終えたばかりの同年配の男に声をかけた。もちろん、酒を持って。
最初こそビビっていた男は、酒を飲むと調子よくしゃべり始めた。
――劇場建設?
ああ。村の男たちも女たちもほとんどが駆り出されているさ。そこそこいい報酬だし、完成したら、劇場のプレートか何かにこの村の名前が書かれるんだとさ。そら、やる気になるわな。
――いつ頃からはじまったかって?
なにやら事前調査であちこち掘り返したから、そのときから数えるともうかれこれ五年かな。今も追加で調査が入ってさ。隣の村からも人が駆り出されてるそうだ。
――どんな調査かって?
よく知らねえな。でもさ、妙にきれいな青年が責任者らしくてさ。丁寧に掘れと命じて、毎日のように見に来てたよ。
――まだ続いてるのかって?
いや、オレたちの仕事はいったん終わったよ。なんだかすげえお宝もんの遺跡がでてきたんだってさ。すると、なんとかいう大学の調査団とやらが飛んできて、いま調査しているらしいよ。村の若いもんも何人かは雇われてる。だが、オレたちは農作業優先だ。
――あの離宮?
昔の皇帝さまのお城だな。村のもんはだれも入ったこともない。内戦の時は、政府の軍隊がおったな。悪さをする軍隊でな。村のもんはみんな軍隊を嫌うておった。十年前に政府軍が抵抗軍に蹴散らされたときには、村一同で拍手喝采さ。
――抵抗軍に協力していたのかって?
そうだよ。今だから言えるがの。当時は命がけだった。政府軍は、強盗・強姦・殺人などやりたい放題でな。わしらが大事にしておる田畑も荒らすんじゃ。文句を言うとすぐ捕まって拷問にかけられて、濡れ衣を着せられる始末。おまけに緊急事態とかで、村の若者がこぞって徴兵された。男も女もじゃ。わしも徴兵されたぞ。
行ってみてびっくり。男は職業軍人の下でパワハラされ放題だし、女は軍人や兵士の性の相手までさせられた。いったい今どきこんな無法が通るのかとあきれ返ったが、権力というのは何でも正当化するんだな。学校で習ったナチスさながらの人権蹂躙が二十年間も続いたのだからな。
みんな、ホトホト、イヤになっておったのう。このあたりの村はほとんどが秘かに抵抗軍に協力したぞ。
――ファウン皇帝の夫君がこの村の出でないかって?
はて? はじめて聞いたな。ファウン皇帝という名は聞いたことがあるが、そのダンナのことなど、村のだれも知らねえさ。もし、そんなエラモンが村から出てたら、この村ももっともっと立派になっていたろうよ。
ヤオは理解した。
夫君シュンは、こうした村人たちの素朴な願いを断ち切るために、一家もろとも秘かに村を出たのだろう。自分につながる特定の村や人びとに便宜をはかることは、公平を旨とする皇帝の名誉を汚すことになる。それでは、夫君やその一家はどこに行ったのか。当時、皇宮でも夫君一家の話はまったく耳にしなかった。
カトマール軍事政権は、クーデター弾圧を口実に「緊急事態宣言」を出し、憲法と議会を停止した。本来、緊急事態は期限付きだが、事実上無条件に更新され続けた。二十年間、カトマール軍事政権が国民を国際社会から分離してきたことは、歴史の暗黒面として最近ようやく語られるようになった。
この近隣の村を含め、多くの人びとが抵抗軍に協力して、新しい歴史を拓こうとした。皇女リリアは、自らの身分を明かすことなく、抵抗軍の事実上のリーダーをつとめたようだ。彼女は、村人たちの協力を忘れず、正当な恩返しをしているのだろう。
農夫が言った。
「夫君なんぞはおらんけどよ。親衛隊に入った秀才はおるぞ」
「親衛隊ですって?」
「おうよ。村はずれに住む猟師の息子でな。ずいぶん前に行方不明になったんだが、村でも有名な秀才だった。わしの幼なじみでもある」
「その者の名は?」
「ルンだ」
ルン……! ルンはこの村の出身だったのか? しかも猟師の息子だと?
「その者の話を詳しく聞かせてもらえませんか? ルキアにいたときに知り合った者がルンという名なのです」
「おまえさんもルンを探しておるんか?」
「そうです。わたしの友でした」
■若き日のルン
トランと名乗った男は、ヤオを自宅に招き、昔話を聞かせてくれた。トランには家族はおらず、一人暮らしだった。
ルンは、父一人子一人の家庭でな。父親のルピンは、村一番の猟師じゃった。じゃが、酒におぼれてのう……一家は貧しかった。ルンを産んでまもなく母親は離婚して村を去っていった。男を作って出ていったとも言われておってな。村ではルンの母親の話はタブーだった。
ルンは、抜きん出て賢い子だった。村の学校の先生は、ルンの能力を惜しんでの。ルキアの学校に行かせようとした。難しい奨学金を得て、ルンは軍事大学校に進んだ。父親は最後まで反対した。身の程を超えてはならん。命を縮めるとな……。
ルキアに行ったルンは、年に一度はこの村に戻ってきた。村祭りの頃だ。戻ってくるたび、ルンは垢抜け、たくましくなっていった。村中の娘たちがルンに夢中になったほどだ。
だが、ルンは娘たちの誘いには乗らず、村に居るときには、かならず父親の後をついて猟師の仕事を覚えようとしておった。いつかは村に戻ってきたいと考えておったのかのう?
ルンが最後に村に来たとき、ルンの様子が少しおかしかった。妙に塞ぎ込んでな。父親が病気だったからかもしれん。ルンは父親を町の医者に診せたかったようだが、父親は村を離れたくないと言い張った。
数年後、父親は亡くなり、ルンがこの村に来ることもなくなった。
ルンの家は残っておるぞ。取り壊すにも金がかかる。わしがときどき見に行って、手入れしてきた。いつでもルンが戻ってこられるようにな。
翌日、トランの案内で、ヤオはルンの家を訪ねた。二間しかない小さな小屋だった。ヤオは、決して豊かではなかったが、下位とはいえ香華族の貴族出身だ。橋の下の生活になるまで、こうした小屋暮らしとはまったく縁がなかった。
ルンは貧困から抜け出そうと必死で勉強し、努力したのだろう。家財道具らしきものは何もなかった。ただ、櫃の中にいくつかの古びた地図とノートと一冊の書物が残されていた。ノートはルンのものだろう。なつかしい字体だった。書物はルンが一番大切にしていたセイの薬草書だった。
地図はカトマール帝国東部の地図だった。森、河、平野などの自然情報と、町や城などの文化情報がともに記されている。ヤオは目をみはった。山沿いにうっすらと線が引かれ、いくつかの赤い小さな点が打たれている。
――逃亡の道!
では、あの逃亡の道を用意したのは、ルンだったのか? この村の猟師の子であれば、ルンは山道の情報に長けていただろう。
ならば、なぜ、ルンはカトマールからヤオたちを逃がしながら、ミン国でヤオたちを襲ったのか?
カトマール最後の目印の木に辿り着いたとき、ヤオはその木にほとんど目を向けなかった。ミン国ならば、多少の土地勘がある。母がミン国出身だったからだ。慢心だった。結局、その後、図られたように襲われたのだから。
――一つの可能性にたどり着き、ヤオは身を震わせた。
■親友のメッセージ
最後の木――。
その木は残っていた。
ヤオは根元を掘り返した。小さな箱が埋められていた。保存食とは言え、食べ物はすべて腐っていたが、一枚の手紙が入っていた。ヤオとルンの二人だけで交わされる暗号だった。
「まっすぐ進むな。山側に回り込め」
ルンの字だった。
思わずヤオは膝を付いた。ルンはヤオに警告していたのだ。あの逃亡の道を整えたのはルン。そのルンはミン国での襲撃を予告していた。手紙をつかんで、ヤオは慟哭した。その親友を殺してしまい、皇帝の密命を果たせず、皇女と皇子を手放してしまったのは自分だ。
放心したまま、木にもたれかかり、木の葉の間からこぼれ落ちる月の光に身を委ねた。
なぜ、ルンはヤオの前から姿を消したのか……。彼もまた密命を帯びていたのだ。危険な集団に潜入し、情報を集めるとともに、逃亡の手配をするという密命。ヤオに何も告げなかったのは、徹底して密命を果たすためだったのだろう。
最後に闘ったとき、ルンの表情は覚悟と諦めに満ちていた。何も言わず、彼は討たれた。
十分相打ちができたはずなのに、最後に手加減して、ヤオを生かした。連れをすべて失い、一人生き残っても処刑を免れまい。逃げれば、ただ一人の肉親である父が殺されるだろう。ルンには他の道はなかったに違いない。
愚かな自分は、そんなルンの境遇にも覚悟にもまったく気づかなかった。最後の警告にすら気づかず、捨て置いてしまった。どれほど悔いても、時間を戻すことはできない。ルンは蘇らない。
――自分には何ができるのだろう……。
皇女と皇子は生き延びていたようだ。だが、皇子に皇帝の遺言をまだ伝えられていない。女官長セイは皇女に会ったにもかかわらず、皇子のことは話さなかったようだ。ラウ伯爵家のレオンは、皇子レオンなのか、そうでないのか? レオンのことを調べる必要がある。
さらに、ルンが潜入した極右政党の実態は何か? 当時から、正体不明の新興宗教勢力とのつながりも噂されていた。軍事政権でその政党は一党独裁をはかったが、宗教色は表に出していない。新政権成立とともに幹部は裁判にかけられ、有罪判決が出されて収監中だ。だが、背後にいたと思しき宗教勢力にはなんらメスが入っていない。
そういえば、〈蓮華〉の教員マイに夢中になっていたケイが言っていた。マイは宗教集団「天志教団」に殺されたんじゃないかと。その上には〈天明会〉という秘密結社があるらしい。
――〈天明会〉?
ヤオはルンが残したノートを見直した。多くは伏せ字で、まったく意味がわからない。だが、ヤオにはわかった。かつて軍事大学校で教官の目を盗んで二人の間でやりとりした手紙のルールが使われていた。
ヤオは戦慄した。
――そこには、〈天明会〉の秘密に迫ることが書き記されていた。




