Ⅸー2 外宮での決意
■外宮の老女
この三十年、ずっと考え続けてきた。なぜ、親友ルンとの道が違ってしまったのか?
ルンは貧困家庭に育った。優秀だったルンは、奨学金で軍事大学校に進学し、ヤオと同期になった。二人は気脈相通じ、無二の親友となった。ルンが首席、ヤオは次席として卒業し、そろって親衛隊に入ったが、ルンはしばらくして隊をやめた。
その理由をルンはヤオには告げなかった。ある日突然、ふいにヤオの前から姿を消したのだ。
一年後、ルンは、貧困労働者層の支持が厚い極右政党に入ったとのうわさを聞いた。ヤオは信じなかった。ルンは、その政党の指導者は、信念がなく、目立ちたがり屋でうさんくさい人物だと評していたからだ。だが、ヤオは彼がその指導者の護衛をしている現場を目撃した。ルンに声をかけることもできず、ヤオは足早に立ち去るしかなかった。
逃亡の果て、ミン国の森でルンが率いる集団に出会ったとき、ルンの目は血走っていた。
目指す獲物――ヤオとその連れ――を軍政府に突き出せば、ルンの地位は特昇でかなり上がるはず。だが、結局、ルンはすべての部下を失い、自らの命を落とした。
カトマールを捨てたヤオにはわからないことが多かった。
ルンの本心、ルンの家族のその後、軍事政権内部の勢力図……。
ヤオはもう一度最初から洗い直すことにした。
日雇いで蓄えた金が多少ある。しばらく旅に出る。留守の間はケイに任せる――。仲間たちにそう言い残して、深夜バスでヤオはカトマール・ルキアに向かった。
ルキアは蘇りつつあった。ただ、皇宮はまだ荒れ果てたままだった。
ルナ大神殿の遺跡整備とルナ大祭典の成功を優先し、皇宮の再建はその後になるという。いまは封鎖されており、建物は見えるが、中には入ることができない。かつて皇女たちを連れ出した外宮に向かった。ここは私人に払い下げられたとかで、それなりに手入れされており、一人の老女が住んでいるようであった。
夜、裏口に忍び込んだ。ここから逃亡が始まったのだ。ふと感慨が胸を締め付けた。逃亡を命じた皇帝の最後の姿が胸に迫る。
「だれじゃ?」
しわがれた声がした。遠い昔に見たことがある老女だった。
「かつてこの外宮に縁があった者です。黙って入り込み、申し訳ございません」
ヤオは丁寧に非礼を詫びた。
「この裏口を知っておるとは、皇宮に仕えた者かの?」
「さようです」
「ほうか。よければ寄っていくか? いまはわしが屋敷の一部屋を借りて住んでおるだけじゃ」
「よろしいのですか?」
ヤオは驚いた。見ず知らずの者を招き入れるとは……。
「かまわん。何も取られるものはないし、この年では命もさして惜しくはない」
ヤオは正確に裏口の前に立ち、ドアが開くのを待った。この裏口には仕掛けがあり、一見すると壁にしか見えず、一般にはまったく知られていない。
館の隅にある部屋に招き入れられた。
「ほう……。まるで世捨て人の風采じゃな。わしも人のことは言えんがの。あの裏口の存在は、特別な者にしか教えられん。あんたは皇帝家に仕えた者、それも相当信任篤い者と見えるが、どうじゃ?」
「たしかに皇宮に仕えましたが、不忠者です」
「不忠者にしては礼儀作法もなっておるの。して、この部屋を知っておるか?」
「はい。ファウン皇帝に長くお仕えになった女官長セイどののお部屋と聞いております」
「ふむ……」
老女は、浮浪者風の中年男をジロジロと見定めた。
「なにゆえ、あの裏口の前に立っておった?」
「それはお答えするわけにはいきません」
「ふむ……。では、あんたは何者だ?」
「かつて皇宮に仕えた不忠者、というだけではご満足いただけませんか?」
「ほう……。では質問を変えよう。皇宮に仕えた不忠者と言ったな? 皇室一家をはじめ、皇宮に仕えた者で忠義に篤い者は、ことごとく殺された。あんたは生き残った。皇宮を自ら捨てた者が、三十年もたってこの外宮を見に来るものかのう?」
「……」
「まあよい。言ってはならんことを守り通すのも忠義じゃゆえ」
「わたしのほうからお伺いしてもよろしいですか?」
「なんじゃ?」
「この館を知り、元女官長のお部屋だとご存知のあなたさまはいったい何者であられますのか?」
「すでに敬語ではないか。わしのことに気づいたからであろう」
ヤオは敬礼した。
「やはり、女官長セイどのであられましたか」
「その敬礼の作法は、元親衛隊士じゃな」
「はっ。親衛隊士であります。ヤオと申します」
「ファウン皇帝の親衛隊長を務めた者にヤオという名の息子がおった。それがあんたか?」
「さようです」
「隊長は忠義の者であった。香華族の中でファウン皇帝が最も信頼した者の一人じゃ。その息子が不忠者とは思えんがの」
「……」
「まあよい。して、なぜ、今ここにやってきた?」
「……」
「言いにくかろうの。では、わしから言おう。わしはファウン皇帝崩御のあと、ある谷に四十年以上も引きこもっておった。じゃが、ある者に頼まれてここに来た。ラウ伯爵の筆頭秘書レオンじゃ。知っておるか?」
ヤオの目が一瞬見開かれた。
「お目にかかったことはございませんが、お噂は耳にしております。たいそう有能な美青年だと……」
「そうじゃ。そして、その者の導きで会ったのが、副大統領夫人アユどのじゃ」
「副大統領夫人……」
「知っておるのか?」
「いいえ。一度お写真を拝見しましたが、それ以上のことはまったく存じ上げません」
セイの目が光った。
「ほう……写真とな。では、レオンの写真も見たことがあるか?」
「はい、ございます」
「あの二人の写真は公開されておらんぞ。どこかで私的に撮られた写真だな?」
ヤオは覚悟を決めた。この老女には下手な隠し事は通用しない。
「ご明察通りでございます。知り合いがたまたまお二人にお会いする機会があり、そこで撮った写真を先日見たばかりです」
「知り合い?」
「わたしは、いまアカデメイアのとある橋の下に住む浮浪者です。浮浪者には浮浪者の強みがあります。この浮浪者の力を見込んで何かと仕事を頼んでくる者がおり、その者がレオンどのと懇意なのです」
「ほう……。あのレオンが懇意にするとはよほどの人物だろうの」
「一人はたいした人物です。もう一人はレオンどのには嫌われておりますが、それをものともせず、長年にわたってレオンどのを追いかけておるようです」
「その二人については、聞いてもええかの?」
ヤオは、サキとジェシンについて説明した。そして、橋の下の仲間であるケイが、彼らとともにこのルキアに来たことも。祭りを楽しんだこと、ルナ大神殿を見学したこと、副大統領夫人の館に招かれ、集合写真を撮ったことまで。
「わしも久方ぶりに祭りに行ってみた。レオンのそばに、えらく気が強そうな女人がいたが、それがサキという者かの? たしかドラキュラに扮したヘンなヤツもおったな。それがジェシンとかいう者か? 眼光鋭い大男となにやらゴニョゴニョしゃべっとったが……」
「大男はキュロスという者で、タン国傭兵。もとシャンラ王太子の親衛隊長です。いまは舎村の若君の護衛をしています」
「ほう……。タン国傭兵か。そういえば、シャンラ王家はタン国とつながりが深かったの。じゃが、舎村若君らしい子は見かけなかったぞ。なにやらド派手な服装の子どもたちが集団でおったがな」
「その子たちの一人です。その日は女装していたそうですので」
「なんとまあ……。あのかわいらしい集団の一人じゃったか? では、彼らのそばにいた美男子が天月修士どのかの? 妙な帽子をかぶって、サングラスをかけておったが、美形は隠しようがなかったぞ」
「その通りです。ほかにも雲龍九孤族の宗主やその孫もそばにいたそうです」
「なんと! 雲龍九孤族宗主とな?」
「ご存知でしたか?」
「いや……昔、その一族に属する者がカトマール大学で学んでおっての、まあ、なかなかたいへんなこともあったもんでな。それにしても、天月修士、九孤族宗主、舎村若君とは……。名だたる異能集団の揃い踏みではないか」
「さようです。いずれもルナ大祭典に向けて、ルナ大神殿のことを調べているそうです。特にルナ石板の解読を目指しているとか……」
「ルナ石板の解読じゃと? ふうむ……」
セイは黙り込んでしまった。ヤオは部屋を見回した。簡素で無駄のない部屋だった。セイの人柄を反映しているのだろう。
窓の向こうに、何やら白いものが見えた。小さなカエルだった。
「どうした?」
「いえ……。あれは、ファウン皇帝と夫君を結びつけた伝説の白カエルではありませんか?」
「そうじゃ。よく知っておったの?」
「皇帝陛下から伺ったことがございます」
「ふむ。やはりの……。あんたはアリア皇帝の側近だったんじゃな。白カエルのことはごく一部の秘密じゃからな。めずらしい白カエルを守るためじゃ」
「……」
「あんたは皇帝からよほど大事な任務を与えられたと見える。それを果たしきれなかったことで己を責めておるんじゃろう。まあええ。それ以上は互いに聞かんほうがええだろう」
ヤオは頭を下げた。セイはすでに気づいているのだ。
セイを呼んだ時点で、皇女はパドアとともに身分を明かしたことだろう。隠していてもセイにはわかるからだ。だが、皇女とレオンはまだ互いの関係に気づいていない。セイもそれはあえて教えていないようだ。
なぜか? セイにもまだ確信がもてないのか? それとも、それ以外の理由があるのか?
「で、あんたはこれからどうする?」
「気ままな旅をするつもりです。かつて仕えたこの皇宮から始めて、いま暮らすアカデメイアまで、己の人生を振り返ってみたいのです」
セイはヤオをじっと見た。
「そうか……。それもええの。何かあればわしを頼るがええ。たいしたことはでけんがの。まず、今晩はここに泊まれ。ベッドはないが、ソファがある。そこで寝ればええ」
「ありがとうございます」
翌朝、ヤオは丁寧な感謝の置き手紙を残して、まだ夜が明けぬうちに館を発った。
――おそらく、あの男は、皇女たちを逃がしたルートをふたたび辿るつもりなのだろう。そのルートできっと何か異変が起こり、彼は皇女たちを守ろうとして、守り切れなかった自分を責めているに違いない。彼がこだわることには、カトマール内戦に関わる重大な秘密が隠されておるかもしれんのう。




