Ⅷー3 エピローグ――トロイカ体制のほころび
秋風が大統領府の木々の梢を行き渡る。
軍事政権との決別を印象づけるため、新政府の大統領府は、元カトマール皇宮の貴賓館を使っている。外観も美しく、豪華な内装だ。ただ、皇宮本館を利用していた旧大統領府に比べると、やや規模が小さい。
カトマール大統領クインは、第一副大統領エリムを前に思案をめぐらせていた。
十年前に軍事独裁を倒して成立したカトマール共和国政府は、大統領と二人の副大統領によるトロイカ体制をとる。内政・財務を担う第一副大統領エリムと、文化・教育・外交を担う第二副大統領シャオ・レンは、行政に関わる実務権限を分け合い、大統領クインを支えてきた。
だが、いま、このトロイカ体制にほころびが出始めている。
シャオ・レンの発言力がクインの地位を脅かすようになったのだ。きっかけは、ルナ大祭典。ルナ大祭典の準備が進むほど、担当責任者シャオ・レンの政治的・経済的影響力は強まり、国民的人気も沸騰している。大統領は、シャオ・レンの影に霞んでしまって、何をしても、何を言っても、注目されない。
憲法に定める大統領任期は二期十年。来年夏に切れる。ルナ大祭典の開催は秋。つまり、ルナ大祭典をとりしきる大統領は次代大統領となる。
就任以来、多くのことを成し遂げた。だが、まだなお多くのことが手つかずだ。任期満了で去るのはいかにも心残りだ。だが、次期も大統領に居座ろうとすると憲法改正が必要になる。まだ六十歳。政治家として脂がのりきった時期を迎える。引退するには若すぎる――。側近の多くが引き留める。
ここでも、最大の難関はシャオ・レンだ。四十五歳と若く、軍事政権への抵抗軍に身を投じてやり遂げたことへの評価も高い。次の大統領として国民の期待値が非常に高い。大統領は国民投票によって選ばれる。現時点で、レンに勝てる者はいない。
レンは、大統領の任期延長にも任期制限の撤廃にも絶対反対を明言している。歴史が示す通り、それは独裁への道だと強く警戒している。レンは自分が大統領になりたいと思っているわけではなさそうだ。年齢・実績からしても、政府の位置づけからしても、自分より五歳上で女性の副大統領エリムが大統領になるのがふさわしいと公言してきた。
ところが、ここにきて、レンはエリム支持を微妙に変えたようだ。原因は、ルナ遺跡公開をめぐる意見の相違だ。エリムはルナ大祭典限定の一般公開を主張し、シャオ・レンはルナ大祭典後の恒常的な一般公開を主張している。
ルナ大祭典に合わせて、ルナ劇場やルナ博物館が新設される。そこへのアクセスも整備されつつある。なのに、最大の目玉であるルナ大神殿遺跡を非公開にすれば、観光客の足は鈍る。ルナ大祭典をカトマールの経済復興の足がかりにするという当初の計画が大きく狂う――レンはそう主張する。
世論はレンを支持している。レンによれば、カトマール大神殿は十分な保護策を講じれば、一般公開によって損傷を受けることはない。古の栄光を留める壮大な遺跡――人類共通の文化遺産は適切に公開すべきというのが、レンの主張だった。
レンの主張の背景には、ラウ財団の利害が透けて見える。ルナ大祭典のためにラウ財団が投資したものは大祭典後すべてカトマール政府に寄贈される。そこまでして貢献したのは、ルナ大祭典自体の経済効果とその後の利益を見込んでのことだ。大神殿が非公開になれば、ラウ伯爵のもくろみは根底から崩れる。
大統領自身は、大神殿の公開・非公開自体にはさほど関心がない。むしろ、公開の方が国の利益になると考えている。しかし、大事な手駒のエリムを手放すわけにはいかない。エリムも当初は大神殿公開に反対はしていなかった。ところが、夏にレオンたちがもう一つの神殿調査を始めたころから、態度を変えた。エリムは天志教団の動きを警戒している。
大統領としては、ルナ大祭典を成功させないとメンツに関わるけれども、それをレンの手柄にはしたくない――これが本音だ。
直近に行われたいくつかの地方選挙の結果を見ながら、エリムが言った。
「シャオ・レン率いる民進党の勢力がどの地域でも急速に伸びています。懸念していたとおり、ルナ大祭典が格好の宣伝材料になっているようです」
「そうだな。六年前に彼がルナ大祭典の企画を持ってきたときに、キミが懸念していた通りの展開になっている」
「しかたありません。ルナ大祭典の開催は、新生カトマールにとっても国際的地位を上げる絶好の機会です。それを拒否することはできませんでした。問題は、ラウ財団の全面的支援を得て、ルナ大祭典が予想以上に大がかりになっていることです。国民の期待が高まっているのは良いのですが、それはシャオ・レンの支持が盤石になっていることの現れでもあります。シャオ・レンを追い落とそうにも、彼にはまったく隙がなく、打つ手がありません」
「贈賄スキャンダル、セックススキャンダル、不正スキャンダル……そのどれとも、シャオ・レンは無縁だ」
「はい。シャオ・レンはもともと名家出身で、アカデメイアで学んだ秀才。頭が切れて、弁舌さわやかですし、見た目もいい。なによりも、あの内戦で親兄弟をすべて失って無一文になりながら、今の地位を得た立志伝中の人物として国民の人気が高い……」
「うむ」
「シャオ・レンの国民的人気を支えているのは、妻のアユです。彼女は、新政府樹立前の数年間、反政府軍の先頭にたって指揮した人物です。いまは、文化支援の篤志家として有名です。堅物レンは、妻を尊敬し、溺愛していると公言していますし、妻の財力に頼っていることも隠していません。国民からは理想的な夫婦とみなされています。おまけに、二人が並ぶと絵に描いたような美男美女です」
大統領はグッと詰まった。面前で、政敵をここまで褒められていい気はしない。だが、レンの妻アユが絶世の美女であることは認めざるを得ない。
「妻の方に、何か弱点はないのか? 彼女は、カトマール東南部の地方貴族の娘だったそうだが……」
「残念ながら、見当たりません。父方の実家は単なる地方貴族で、香華族ではなく、中央から遠く離れていたため、領地も資産も内戦で傷つかなかったようです。母親はアカデメイア出身であり、カトマールの不穏を避けるためにアユは幼い頃からアカデメイアに送られて過ごしたとか。やがて両親が亡くなって唯一の相続人になったとのことです。資産管理の才があったようで、アカデメイアの不動産女王ク・ヘジンの協力を得て、巨万の富を得たとのうわさです。その富を反政府運動に提供し、いまは文化事業に使っています。国民の人気は、シャオ・レンを上回るでしょう」
「だが、政治には関わろうとしないんだろ?」
「そのようです。夫が政治家をしている限りは、自分が政治に出ることはないと公言しています」
「言い換えれば、シャオ・レンを追い落とせば、自分が出るということだな」
「そうです。アユは、シャオ・レン以上の強敵です。これまでほとんど表に出ませんでしたが、あの美貌で、行動力と決断力を備えています」
「それに……」とエリムは付け加えた。
「ルナ大祭典の準備が本格化したからか、アユ夫人は方針を変えたようです。最近、文化支援者として積極的に姿を現すようになってきました。このままだと、国民は、彼女に熱狂するでしょう」




