Ⅰー4 エピローグ――三人の「父」たち
■櫻館
二百もの島からなる蓬莱群島の中心、蓬莱本島の西南部に位置するアカデメイア自治国。総合教育・研究機関として世界トップレベルを誇るアカデメイア学園にほど近い場所に佇む小さなガーデンホテル――いまは、天才音楽家九鬼彪吾の私邸だ。「櫻館」を名乗る。
ホテルだった利点を活かして、この夏から二十人近い者が櫻館に集って生活を共にしている。目的は、九鬼彪吾が手がけるルナ・ミュージカルの支援だ。
アカデメイア学園と、アカデメイアに拠点を置く世界的企業ラウ財団が後援し、来年開催される予定のルナ大祭典――九鬼彪吾がオリジナルで企画し、世界的ベストセラー作家游空人が協力するとして話題のルナ・ミュージカルは、ルナ大祭典の幕開けを飾る最大の呼び物として期待が高い。
だが、櫻館合宿の真の目的は、大祭典ではない。ルナ神話とルナ神殿にまつわる秘密を解き明かし、十五歳の子どもたちの異能をコントロールすることにある。
異能の発揮は心身を蝕む。天月仙門の至高者〈銀麗月〉カイや、雲龍九孤族宗主たるばあちゃんのように、長い時間をかけ、厳しい修行を経てきた異能者ならば、異能を十分にコントロールできる。
だが、十五歳の異能者たちは、自分が異能者であることにほとんど気づいていない。自分が発揮する異能のレベルの高さ――その怖さ――も知らない。
櫻館には、さらに高度な異能を持つ者がいる――ラウ財団の筆頭秘書レオンと雲龍九孤族リトだ。いずれも自分の異能を知らずに過ごしてきた。レオンは、処刑されたはずのカトマール皇子らしく、天月で過ごした幼い時に香華族の異能を発揮したようだ。「九孤の落ちこぼれ」と思い込んでいるリトは、天月初代〈銀麗月〉が封じ込めた強大な異能者「弦月」の血を引くらしい。このままでは、リトは自身の異能に食い潰される。宗主は、カイにリトをともに守ってくれるよう頼んだ。
櫻館は、カイにより強力な結界が張られ、異能の〈気〉が外に漏れないよう守られている。
■三人の「父」たち
秋の月夜。アラフィフ世代の三人の男たちが集まって、ほろ酔い酒を楽しんでいた。新しく櫻館にやってきた碧海恭介を歓迎しようと、キュロスがマロに声がけしたのだ。
恭介にとって、櫻館でのリクの姿は意外でもあり、楽しみでもあった。
恭介は、大学卒業後、出身校の大学病院に勤め、脳外科医としての評価を勝ち得たものの、人間関係は最悪だった。他人に媚びへつらうタイプではない。主任教授と衝突した。教授が恭介の名声に嫉妬したのだ。病院では、個人のささいな悪意は、患者の生命に直結する。
恭介は潔く病院をやめ、叔父に倣って「国境なき医師団」に入った。そこで三年間を過ごした。これは想像以上にハードだった。場所と状況によっては、器具も設備も乏しいところで、命に向き合うのだから。紛争に巻き込まれて命を落とした仲間もいた。だが、やりがいはあった。そんなある日、カトマールとバルジャの国境に近い紛争地帯で一人の女性を拾った。彼女を助けるために、恭介は医師団をやめて日本に戻った。そして、無医村地区で小さな診療所を開いた。
やがて、その女性は恭介の妻となり、女の子を産んだ。妻によく似たきれいな玉のような女の子だった。恭介はうれしくて、一日に何度もその子をあやしにいった。おむつも替え、下着や寝具を洗濯した。恭介はかいがいしく子と妻の世話に励み、父になったことを楽しんだ。恭介は娘を凛空と名付けた。だが、幸せは続かなかった。もともと病弱だった妻が体調を悪化させたのだ。
「リクが一歳になるかならないかの頃でした。妻が亡くなったのです。……満月の夜でした」
キュロスもマロも言葉を飲み込んだ。愛する人を失った絶望感と空虚感は、キュロスもマロも経験している。
甥の妻の訃報を受けて、虚空も旅先から駆け付けた。二人は、残されたかわいらしい赤ん坊を二人で育てることにした。二人ともその子に夢中だった。
「リクの成長だけがわたしの生きがいだったんですよ。ですが、五歳の頃、リクは大病を患いましてね。生きるか死ぬかの瀬戸際を何日もさまよった。……虚空叔父と必死で手立てを講じたんですが、なかなかよくならなくてね。一週間ほどたってようやく目を覚ましてくれたんですが、リクは感情と表情をなくしてしまいました。それ以来、笑顔のリクをみることはなかったんです。なのに、この櫻館ではリクはほんのわずかだが微笑みをみせることがある。風子くんやアイリくんのおかげでしょう。だから、わたしはここに来た。リクのためなら、わたしは何でもします」
キュロスは深く頷いて共感を示した。
「シュウさまもこの櫻館では伸び伸びと過ごされています。あれほど朗らかなシュウさまを今までに見たことがありません。お友だちを得たからでしょう。わたしにとって、恐れながら、シュウさまは子どもも同然。――シュウさまのためならわたしも命を懸けます」
マロもまた言った。
「オロも同じですよ。学校になじめなかったオロには、ほとんど友だちがいなかった。だが、櫻館では生き生きとしている。ここでは、みなさんが、ありのままのオロをきちんと受け止めてくださる。わたしにとってオロは何より大事な存在。――妻が遺してくれた宝物。オロが楽しく過ごすのなら、わたしはそれ以外何も求めません」
恭介は、娘リクが「癒やしの異能」を持ち、幼い頃から無意識に異能を発揮して、生命の危機に陥ったことを知っている。諸国を放浪してきた叔父の虚空によれば、「癒やしの異能」は香華族の異能とか。叔父と二人で必死でリクの異能を封じ込めてきた。だが、それも限界に近づきつつある。だから、この櫻館にやってきた。リクを守るために。
マロは、息子オロの身体にミグル族が禁忌とする龍のアザがあることを知っている。オロは、幼い時から、「時を止める異能」を発揮してきた。龍族の異能だ。オロを守るため、ただそれだけのために、マロはミグル族最高の教導師としての地位を捨て、義妹スラとともに一族を捨てた。
キュロスは、タン国傭兵。もとシャンラ王太子ロアンの親衛隊長を務めたが、王太子は二十歳ではかない命を散らした。舎村若君のシュウは、ロアンによく似た美しい子で、幼いながらに一生懸命キュロスを舎村長の祖母から守ろうとしてくれた。シュウの脳には、生まれながら原因不明の腫瘍がある。二十歳まで生きられないと言われている。決して、王太子の二の舞をさせるまい。キュロスは献身的にシュウに仕え、シュウを守ってきた。
三人の「父」たちは、互いに共感しあいながら、酒を酌み交わした。
だが、子への愛を存分に語り合いながら、だれも妻のことも愛した女性のこともほとんど口にしない。子への愛はそれを通した子の母への愛のはず。なのに、その愛を語らない。
それぞれが重い秘密を抱えていることを互いに感じ取った。
月は高々と天を巡り行く。三人の「父」たちは、しばし月を眺めた。その目に映るのは、それぞれが愛した女性の姿だ。子のために決して口にしないが、三人とも、愛した女性の手に触れることすらできなかった。
切ない想いは、痛みを抱えた者同士、口にせずともわかり合える。三人の「父」たちは、ゆっくりと更けゆく夜の闇に、それぞれの子と過ごしてきた愛しい日々を分かち合った。