Ⅷー2 名を失った少年
■名を失った少年
第一副大統領府からの帰途、ディーンは、旧大統領府を見上げた。ルキアに残るカトマール皇帝家の皇宮のなかでもひときわ立派な宮殿が大統領府とされた。いまは多くのものが略奪されて、廃墟同然になっている。
――まるで自分みたいだ。ボクは名まえすら失った。
元大統領の娘と孫――その地位は、軍事政権下では尊重されたが、体制が変わった今では何の価値もない。むしろ邪魔だ。最も庇護された幼児期を過ごし、父に棄てられ、他人に監視される子ども時代を送り、母を喪い、十歳の時の体制転換ですべてを失った少年は、名を変え、経歴を消して、再出発を誓った。
だが、たかだか十歳の子にできることは限られる。まずは保護者を探した。亡母の友人であった女性に助けを求めた。エリムだ。
新しい政権の中で主導権を握ろうと野望に燃えていたエリムは、最初は少年を歓迎しなかった。軍事政権を樹立した大統領の孫など、邪魔でしかない。しかし、相手は十歳の子どもだ。利用できるかもしれない。元大統領のたった一人の孫を見殺しにはできないという温情よりも打算が優った。元大統領を慕う勢力も残っている。それらを懐柔するための切り札として、いつか使えるだろう。
エリムは、少年に「ディーン・タルコフ」という名を与えた。かつての名「レイモン・ラトエフ」という名は忘れろと命じた。少年は素直に命令に従った。エリムはいくつかの問いを発した。答えるディーンからは才気がほとばしっていた。
――この子は使える!
直感した。自分の部下にこれほど優秀な者はいない。この子は、その出自からしても、新しい政権でトップに立つことは叶うまい。つまり、自分より上にいくことはない。しかも、多くの秘密を抱えた存在だ。自分に逆らった時点ですべてを失うことは十分に理解しているだろう。
「軍事政権下で親を失った孤児ディーン」は、孤児支援プログラムの下で、非常に優秀な成績で学校を終え、国費留学生に選ばれ、アカデメイアに留学した。エリムは決して表に出なかった。ディーンとの関係を隠し、秘かにアカデメイアの情勢を探らせた。「青年局長」は、エリムがディーンに与えたコードネームだ。側近秘書ですら、「青年局長」の素性も本名も知らない。
アカデメイアには、ライバルたるシャオ・レンの親友で新政権の強力な支援者でもあるラウ伯爵がいる。ラウはカトマール国費留学生の支援者でもある。ディーンはエリムの期待に見事応えた。
ディーンはラウのお気に入りの学生となり、レンとライアの信頼も得た。ルナ大祭典のさい、アカデメイア大学が提供する展示物の学生部門の企画はカトマール国費留学生を中心に組まれ、ディーンは強い発言権をもつ。
■母と父
副大統領エリムは、しばしばわざと父母のことを話題にする。ディーンの一番触れられたくない箇所を抉り、忠誠を確かめているかのようだ。最初は深く傷ついた。だが、慣れた。
――このようなコントロール方法を使う人間には仕える価値がない。徹底的に利用すればよい。
そう思ったときに霧が晴れた気がした。エリムなどにこだわらず、もっと上を目指せばよい。自分にはそれができる。
エリムに届ける情報は選んでいる。有能な密偵であれば調べがつく情報をいち早く届けているにすぎない。野心家だが、単純なエリムは、そのレベルで十分に満足している。
むしろやっかいなのは、文化大臣ライアの方だ。彼女は炯眼だ。ちょっとしたことを手掛かりに大きな問題に気づく。だが、一番やっかいなのはレオンだ。彼の本音はまったく読めない。いつも見透かされている気がして、背筋が寒くなる。
櫻館で、リトはレオンとも一緒に暮らしているはずだが、リトからレオンの話題が出たことはない。そもそも櫻館のことをリトはまったく話題にしない。リトは軽そうに見えるが、さすが雲龍九孤族――秘密は徹底的に守る訓練を受けているらしい。
ディーンは、廃墟同然の旧大統領府の周囲をひっそりと一巡りしながら、幼い頃を思い出した。
母は、軍事政権の初代大統領の娘だった。もともと恵まれた家庭に育ち、両親の庇護のもと、何不自由ない生活を過ごした女性だ。意中の男を夫に迎え、優雅な暮らし向きだった。しかし、ディーンが五歳の時、父方祖父が母方祖父を暗殺し、父はその暗殺に加担したらしい。父方祖父は処刑され、父は逃亡して、行方はいまもわからない。両親は離婚して、ディーンは母に引き取られた。
母と幼いディーンは新しい大統領に保護されたが、軟禁に等しいものであった。母はしだいに正気を失っていった。軍事政権が衰えるとともにディーン母子への支給金は滞り、やがて停止され、母子は極度の貧困に陥り、反乱軍による報復の恐怖に苛まれた。
食べるものがないほどの貧困だ。
母は病に倒れ、治療も受けられずに亡くなった。反乱軍のエリムは、餓死寸前のディーンを引き取り、救済した。十歳の時だった。ディーンの手元に残されたのは、父に対する母の恨みのノート一冊だけ――母は、父が関わりを持ったであろう女性の名前をリストアップしていた。母は父が自分を棄てて、別の女の許に走ったと確信していた。
十五歳を迎えたころから、ディーンは母のリストに載った女性たちを探し始めた。父を探すためだ。父に会いたかったのか、殺したかったのか、目的は自分でもわからなかった。
だが、だれをあたっても、どこをあたっても、父の影すらない。
――父の名は、サアム・リエンスキー。
うわさをまとめると、父は、美男子であることを鼻にかけ、自信家で傲慢で毒舌で礼儀知らずで無責任な、どうしようもない人物だったらしい。そこまで軽薄な男をなぜ母は愛したのか? 研究所では、ある女性が父を毛嫌いし、犬猿の仲だったと聞く。その女性も消息は知れない。
だが、アカデメイア教授レッティーナが語るサアムの姿は、まるで違っていた。
アカデメイアでは、サアムはまじめな学究だったとか。いったい、どちらが真の姿で、どちらが仮面なのか? ひょっとしたら、すべてが仮面だったのかもしれない……あたかも今の自分のように。
母は、父を憎み、恨み、呪いながら、精神を破壊されて生涯を終えた。母のそばで母を看取りながら、ディーンは気づいた。
母は父を愛していたのだ。だれにも取られたくないほどに偏執的に愛していた。だが、父はそんな母を棄てた。
幼い時の幸せな記憶をことごとく壊され、それでもディーンが正気を保つことができたのは、父への復讐を果たすためだった。母の恨みをはらす――それだけを念じながら、母が残した一冊のノート以外はすべて棄てて、エリムに屈し、過去をすべて隠してアカデメイアにやってきた。
■友
――自分の存在を肯定してくれる人などどこにもいない。
親を否定されることは、自己のアイデンティティを失うも等しい。親にすら見捨てられたも同然だった。
深い絶望に取りつかれたまま、ディーンは、国費留学生としてアカデメイア大学文学部で文学を学んでいる。アカデメイアへの国費留学生は、ゆくゆくはカトマール政府や大学・研究機関で活躍することが期待されている。ディーンには、政治から距離を置き、カトマール大学で教育・研究をリードする立場が約束されていた。本当は歴史学を学びたかった。だが、ディーンに選択の余地はなかった。
アカデメイア大学では、ラウ財団のレオンは伝説上の人物だった。カトマール国費留学生として、いとも容易く、ラウ伯爵にもレオンにも会えた。ディーンは、むしろ目立たぬように慎重にふるまった。彼らであれば、ディーンが自分を誇示せずとも、ディーンの能力に気づくはず。
無欲で誠実なふるまいこそが信頼を受ける。そうだ。まずは、信頼されること――これが何より必要だった。
アカデメイアで出会った一人の同級生は、ディーンと真逆のタイプだった。明るく陽気で親切なその青年の周りにはいつも人がいた。ディーンにも人懐っこい笑顔を向けてきた。裏にどんな魂胆があるのか探ったが、何もなかった。ただ単に人が好いだけだった。
ディーンは呆れた。ここまで無防備で、素直で、まっすぐな人間が存在するとは……。彼は、ディーンの作り話を端からすべて信じた。安易な同情ではなく、共感を示し、友として遇した。
――コイツは利用しやすい。コイツを隠れ蓑にすれば、だれからも信頼される。
ディーンは、その素直な青年の陰に隠れるように大学生活を送り、アカデメイアに関する多くの情報を集め続けた。その青年――リトが、雲龍九孤族と知るまでは、すべてが目論見通りに進んだ。
だが、天月修士カイがアカデメイアに現れたころから、リトが変わった。すべてにおいて、カイを最優先するようになったのだ。かつてのディーンの居場所をカイが占めつつある。しかし、カイは何とも思っていないようで、リトの熱意にまったく反応を示さない。
他人に期待するなど愚の骨頂だと思ってきた。だが、気づくとリトの姿を求めていた。リトを求め、最近、カンクローに代わって〈ムーサ〉のアルバイトまでするようになった。
思わぬ副産物があった。〈蓮華〉の子どもたちが、ときどきここにやってくるからだ。カトマール国費留学生の中でも名前だけはあまりにも有名な天才科学者アイリもいる。これまで、だれも彼女の顔などじかに見たことはない。並外れた美貌だが、極端に無愛想な少女だった。イヌを抱いて、ひたすら食べることに熱中している。
芝居は得意だ。
本心を隠すことも、本音を見せないことも、それが当たり前になりすぎて、苦痛でもなんでもない。リトにあわせて軽妙な冗談を言い、快活な青年を演じる自分を冷静に採点している別の根暗な自分がいる。
■派手な客
〈ムーサ〉の常連客であるイ・ジェシンを初めて見たときには驚いた。その開けっぴろげなチャラさに仰天したのだ。これまでの人生で、チャラ男には会ったことなどなかった。聞き取り調査の中で聞いた父もまたこのように軽薄な青年だったのだろうか。
ジェシンは、相当にヘンだ。彼に対しては、ディーンの常識や基準などまったく当てはまらない。嫌悪と憧れが渦巻いた。イ・ジェシンは、ディーンの真意などおかまいなく、〈ムーサ〉では、「ラビット」ことリトと並んで、「プリンス」ことディーンをしょっちゅうそばに呼ぶ。
「プリンス」という呼び名はジェシンが付けた。「まるで王子さまのような気品があるね」――ジェシンはそう言って明るく笑った。
イ・ジェシンは顔が広く、妙に情報通だ。レオンを追いかけていたことは、アカデメイア大学でも語り草になっている。いまもレオンの「追っかけ」は収まっていないらしい。
イ・ジェシンが連れてくる女性は毎回変わるが、親密な関係ではなさそうだ。女性がリトやディーンに興味を示すと、おちゃらけながらリトやディーンを女性たちから守り、引き離してくれる。良識派かと思ったが、そうではない。行動は非常識きわまりない。
リト曰く、ジェシンの言動は本気に対応してもソンなだけらしい。結局、本人の自業自得で幕を閉じるから放っておけばいいのだとか。しかも、どんなに邪険に接しても、イ・ジェシンは気にも留めないらしい。相当タフな精神の持ち主なのか、ただのバカなのか――わからない。
■監視
リトからルキアに行くと聞き、自分も秘かに故郷に舞い戻ってきた。ルキア祭りでは、〈蓮華〉一行の行動を監視した。
――これがグループの面々か。
子どもたち、老女、美青年、中年男、初老の男、ド派手な青年、大男、きつそうな美女、俊敏そうな男、そして、なぜかイヌとネコ。
――わからない。
このグループをつなぐ絆も行動の目的もさっぱりわからない。
子どもたちはド派手な衣装を着てはしゃいでいるだけで、大人たちもそれぞれの仮装を楽しんでいるだけのような……。イ・ジェシンにいたっては、体育会系美女に怒鳴られまくっていた。なのに、彼女のそばを離れない。
レオンと彪吾は親しそうだったが、件の美女がそばにいて見張っているようだった。彼女はいったいだれをだれから守っていたのだろうか? 結局、何もわからなかった。
つい、リトの姿を目で追ってしまう。リトはカイのそばで生き生きと輝き、この上なくうれしそうだ。ディ―ンの胸がズキンと痛んだ。リトは自分にはあれほど満面の笑顔は見せない。
子どもたちのなかで一番気になったのは、背の高い少女だった。ほかの子たちは、以前にも〈ムーサ〉やテーマパークで見かけたことがある。だが、いかにも影の薄いその少女は、はじめて見た。
無表情、無関心の彼女は、かつてのディ―ンそのままだった。いまもディーンの本質は変わらない。ディーンは、ただ、リトにあわせるために演技をし、明るくふるまっているだけだ。だが、リトといると、幼い頃の自分に戻れるような気もする。
――リトが離れていったら、自分はいったいどうなるだろう……すべてが壊れるかもしれない。
無表情の少女は、小柄な子に手をひかれると一瞬キラリと輝く。
――見間違いだろうか?
輝いたのは一回だけ、ほんの一瞬だった。見間違いでなければ、なぜだろう?
ディ―ンは、注意深く少女を見守ったが、その後は何の変化もなかった。




