Ⅶー4 迷宮に続く歪む階段
■歪む階段
資料庫併設のテーブルを囲むのは五人。イ・ジェシンは館長にねだって、古き良き〈蓮華〉の話を聞いている。サキもばあちゃんも小じいちゃんもそばにいる。どうせ資料を見てもわからない。
〈蓮華〉の昔話の方がよっぽどおもしろい。
図書館の話になった。
「〈蓮華〉図書館には、昔から一つのタブーがあったの。〈開かずの扉〉を開けてはならないってね」
「なんですか? その〈開かずの扉〉って?」と、ジェシンが俄然興味深そうに身を乗り出した。
「地下に通じる階段の扉なの。そこを開けると、階段が歪んでるんですって。ずっと昔に扉を開けて階段を降りていった者は、誰一人として戻ってこなかったって言われててね」
(ほう……〈図書館の怪〉はむかしからあったのか)
サキは驚きを顔に出さぬよう気をつけて話に聞き入った。ふだんちっとも役に立たないイ・ジェシンがいいポイントをつきながら、話を進めてくれる。
「へええ。ボクの頃には、もうそんな噂はありませんでしたよ。階段への扉はあったけど、鍵がかかってましてね。だれも関心をもちませんでしたね。でも、階段が歪むって、なんですか、それ? まるでオカルトみたいですね」
「ほほほ。そうねえ。ルナ神話には時空が歪む物語がいくつもあってね。図書館の階段が歪むって聞いても、わたしはあんまり驚かなかったの」
「へええ。どうしてですか?」
「〈蓮華〉に行く前に、わたしはシャンラ王国に住んでいたの。シャンラの古いヨミ神殿にも〈歪む階段〉があるといううわさがあってね。わたしが五歳のころかしら。母と一緒に行って、迷い込んだみたい。まるで迷宮だったわ。怖かったけど、ワクワクしてね」
「へええ、迷宮ですか!」
「そう。迷宮のなかをずいぶん長くさまよっていると、向こうからいい香りが流れてきたの。その香りを目指して進むと、見たこともないほどきれいな花畑が広がっていたのよ。かわいい動物たちもいたわ。わたしは大喜びで、走り出したの。とってもきれいな青い蝶が招くようにヒラヒラ舞っていたから。そしたら、後ろから服を引っ張られた。小さな狐が服の端を咥えて離してくれないの」
(狐じゃと?)ばあちゃんの目が光った。
(青い蝶?)サキの目が光った。
「その狐を抱き上げたとたん、わたしは気を失ってしまってね。神殿の階段の入り口にぼうっと立っていたらしい。母がすぐに見つけてくれたわ。見たことを母に言ったんだけど、母は笑ってこう言った。ちょっとだけ夢を見たのね。おまえの姿が見えなくなって慌てたけれど、すぐに見つかったわ。ものの数分よ、ってね」
(時空が歪んでおるな)ばあちゃんがわずかに眉をひそめた。
「子どもの妄想だと笑われたわ。わたしは想像力豊かな子だったから。でも、母はわたしを褒めてくれたの。ステキな夢ね。何かを暗示しているのかもしれない。おまえのその感性を大事にしなさいって。それが、ルナ神話に魅せられた理由よ。母はわたしにルナ神話の物語を聴かせてくれたの」
「先生のお母さまは、〈近代ルナ学の母〉と言われるお方ですよね」
「ええ、そうよ。よくご存知ね。わたしは母から大きな影響を受けたの。研究者になったのも、母の研究を受け継ぎたかったからよ。カトマール帝国大学教授だった母は、カトマール内戦の時に処刑されたの。あのとき、革命政権は、皇族や貴族を〈本香華〉という理由でことごとく処刑し、多くの学者を処刑したの。わたしはアカデメイアに留学していたから、内戦に巻き込まれずにすんだわ」
みなが沈黙した。
「当時、カトマールからの留学生の亡命や生活を支援してくれる組織があったの。アカデメイアの有名な不動産女王がその盟主だったわ。わたしは、彼女の娘と親友で、親友がわたしを匿ってくれた。一生の恩にきてるわ」
イ・ジェシンがブルブル震え始めた。
「せ……先生。その女王って、ク・ヘジンですか? 親友って、弁護士のリュ・アン?」
「そうよ。よくご存知ね」
「ボ……ボクの祖母と母です」
「まあああ! あなた、リュ・アンの息子さんだったの?」
「はい。母とは別れて、ボクは祖母のもとで暮らしていたので、先生にお目にかかることがなかったのだろうと思います」
イ・ジェシンはワンワン泣き始めた。ホントにコイツは、妙に素直で単純だ。館長も目にうっすら涙を浮かべている。小じいちゃんも同じだ。小じいちゃんも感激屋なのだ。
「ええ話ですなあ。わしも思わずもらい泣きしましたぞ。で、そのきれいな花園についてちとばかり教えていただきたいんじゃが、よろしいかの?」
「ええ、どうぞ」
「じつは、わしが暮らす村にも時空が歪むといううわさがある場所がございましてな。そこに行って戻ってきた者がおりますのじゃ。こっちの世界では一年たっておりましたが、その者の姿はまったく変わっておりませんでした」
「そうだったんですか」
「ですから、先生のお話は、夢ではなくて、ほんとうにどこかに迷い込んだのかもしれんという気がしましての」
「ええ。きっとそうでしょう。母もホントはそう思っていたようです。その後、母はそのヨミ神殿のことを熱心に調査していました。ですが、ヨミ神殿はうかつに手が出せない神域。ヨミ神官団に阻止されたようです。けれども、そのヨミ神殿がもとは最古のウル神殿の一つで、ルナ遺物を多く祀っていることがわかりました」
「ルナ遺物を祀る。はて? そのウル神殿がルナ神殿を受け継いでおるということかの?」と、ばあちゃんが首をかしげた。
「はい。母はそのように見立てていました。ただ、あの場所にルナ神殿があったかどうかまではわからなかったようです。当時は、シャンラではルナ神殿は見つかっていませんでしたので」
「なるほどの。ルナ、ウル、ヨミが立地的につながっておるということじゃな?」
「その可能性が高いと思います。ヨミ神官団は学術調査を認めませんので、検証は難しいのですが」
「ふむ。たしかに、三つの文化がつながっているとなると、ヨミ神官団は苦しくなるの。ヨミ教は、ウル教を打倒して「大日の国」を創ったという創世神話をもつからの」
「そうです。よくご存知でいらっしゃますね」
イ・ジェシンが無邪気に言った。
「このお方は、日本の雲龍九孤族の宗主なんです。そして、こちらは副宗主。こっちのサキ先生はその後継者」
「まあ。雲龍九孤族のみなさまでしたか。ウル帝国の時代に、大陸から日本に渡ったとされる古い一族でいらっしゃいますね」
「いかにも。ご挨拶が遅れて申し訳ござらぬ」
「いえいえ。こちらこそ、お目にかかれて幸いです。じつは、雲龍九孤族ご出身のユリさんとも親しいのです」
(なにいい?)「空間の歪み」と聞いて、資料庫で聞き耳をたてていたリトが思わず声を上げた。
「あら? 何か声がしましたけれど」
「いやいや、ほおっておいてください。ときどき興奮して大声を上げるヤツがいるだけですから」とサキが取りなした。
「ユリはわしの娘でござる。して、いかなるご縁かの?」
「ユリさんのパートナーでいらっしゃるジュリアとは、シャンラ時代の幼なじみでしてね。ユリさんがシャンラに移ってこられてからは、たびたびお会いしておりますの。ついこの前もシャンラに行った折にお会いしたばかりですよ」
「さようでござったか」
たまらずサキが口を出した。
「母は元気でしたか?」
「まあ。あなたはユリさんの娘さんでしたか? 高校の先生をしておられる娘さんは三番目の娘さんとうかがっております。アカデメイアでは末っ子の息子さんが学んでおられるとか」
「ええ、そうです」
「ユリさんは、四人のお子さんのことをしょっちゅう自慢しますのよ。賢い子、きれいな子、強い子、やさしい子。どれほど子どもたちを思っているかがよくわかります。とくに末っ子の息子さんのことをいつもとても気にしていますね。弟さんはお元気ですか?」
「ええ、もちろん。元気すぎて、こっちがハラハラします。今日もいっしょにきていますよ。あとでご紹介します」
(知らなかった……母さんは子ども思いだったのか?)リトは驚きながらも、うれしかった。
(母さんは外面だけはいいからな)サキは心の中で舌打ちした。
「ありがとうございます。ぜひいちどみなさんでユリさんをお訪ねください。喜ばれると思いますよ。ずいぶん長く日本に戻っていないとユリさんが嘆いていましたが、それも無理からぬこと。ユリさんはいまやシャンラ国立大学の副学長でいらっしゃいますし、ジュリアは数年前からシャンラ首相ですからね。お互いとてもお忙しいようですが、仲良く過ごしておられますよ」
(うそおおお! 母さんのパートナーって、シャンラ首相?)
リトはビックリした。このまえ、ニュースで見た。いかにも知的で、厳粛な雰囲気の政治家だった。
「先生は、シャンラにもゆかりが深いようでござるな。ちとお尋ねするが、ルナ大祭典をめぐって女王とヨミ大神官の間に緊張があるという話はまことでござるか?」
「ええ、まことです。女王は推進派、ヨミ大神官は否定派ですから。そして互いにそれを隠してはおりません。二つの立場を調整しているのが、ジュリア首相です。そのために、ルナ研究の最先端を知りたいとしばしばわたしを呼ぶのですよ。シャンラは長くルナ文化を否定してきましたのでね。研究者が育っていないのです」
■弓月御前
「館長先生」と、案内係をつとめた学芸員が館長に耳打ちした。
「あら、御前さま」
館長が振り向くと、優雅な女性が佇んでいた。
「お客さまでございましたか? ちょっと早く来てしまったようですね」
「いえいえ。よくお越しくださいました。ちょうど良い機会ですこと。ご紹介いたしますね」
「こちらはアカデメイアの〈蓮華〉から来られた生徒さん方とその引率のみなさまです。こちらはこのラクルの町衆のお一人弓月御前さまでいらっしゃいます」
「まあ。〈蓮華〉のみなさまと言えば、館長さまの後輩に当たられる方々ですね?」
「さようです。みなさん、〈古代文化同好会〉のメンバーでいらして、本当に熱心なのですよ。ルキアからの帰り道でこのラクルにも立ち寄ってくれました」
「そうですか。ルキアではルナ大祭典の準備が着々と進んでいると伺っています。みなさんもご覧になったのですか?」
「はい。いろいろ見学しました」と風子が答えた。
「ほほほ。こちらの弓月御前さまは、この博物館に毎年、多額の寄付金を出してくださっているパトロンでいらっしゃるのです。今日は、臨時の寄付金をくださるとのことでわざわざお越し下さったのですよ」
「ルナ遺産はこのラクルの誇りでございますからね。大切にしなければと思っておりますの」
「では、御前さま、どうぞあちらへ」
二人は去っていった。
サキは学芸員に聞いた。
「ラクル町衆っていうのは何だ?」
「このラクルの町に古くから住む有力市民のことです。カトマール内戦の折、ルキアは壊滅されましたが、ラクルは自衛して町を守り抜きました。それが誇りなのです。ルキアに変わって経済発展がすさまじく、町衆はみなさん、それぞれの分野の財閥の盟主となられました。さきほどの御前さまは、ご夫君亡きあと、弓月財閥の長を務めておられる方です」
「弓月財閥と言えば、衣料産業で有名な財閥のことか?」
「そうです。世界中で高級衣服からファストファッショまで幅広く手がけています。もともとこのラクル近郊は良質なシルクの産地。弓月家はシルク産業で財をなした一族です。今では、布地や生地の研究開発にも熱心ですし、古い織物や染料、衣服や布地のコレクションでも有名です」
「ほう……古い織物ねえ」
「ほら、ここから見える大きなビルが弓月財団の本社であり、近くに研究所や博物館があります。衣料関係に特化した大学も持っています。ビルの向こうの緑が多い地区ですよ。ああ、あちらの市壁でおおわれた地区が旧市街です。町衆のみなさまがとても大切にして保存しておられます。古い街並みを残した歴史遺産です。お時間があれば、ぜひ、ラクルの町をご見学ください」
「だれでも入れるのか?」
「朝六時から夕方六時までは出入り自由です。その後は市門が閉鎖されます。ただ、見学可能なのは観光用に開放されている南部地区だけです。北部の町衆屋敷がある地区には、特別な許可がない限り、入ることはできません」




