Ⅶー2 火の力
■火の力
昼の宴会が終わり、午後のおだやかな日差しのなか、ぼんやり残るいつかの記憶のように、懐かしい思いで風子は縁側に腰掛けた。そのそばに小さな影が近寄ってきた。テモルばあちゃんだ。
アイリの家の向かいにある高台からは村が見渡せる。涼やかな風が吹き渡り、遠くまで山影が幾重にも連なる。濃い桃色の花が村を覆い、段々畑では、稲の葉が風にそよぐ。ところどころに咲く黄色い花と白い花。
「うわあああ! 別天地。まるで桃源郷だ」
オロが両手を広げ、シュウも香りを楽しんでいる。リクはめずらしい草花に気をとられ、キュロスが見守る。アイリは、家の外でモモと戯れていたが、モモを追って、高台に上がってきた。風子もその後を追おうとして、テモルばあちゃんに呼び止められた。
「風子さんとやら、あんたさんがあの子犬の飼い主さんかえ?」
「はい」
風子が頷いた。
「あんたさんのことは、あの子からのメールにようでてくる。まあ、イヌのことがいちばん多いですけんどな」
「アイリはモモのことが大好きみたいです」
「ふむ、ええことじゃ。あの子は人嫌いじゃし、いままで動物も寄せ付けなかった。それが、あのイヌとあんたにだけは心を開くようじゃ……」
テモルばあちゃんは、その小さな目で風子をじっと見た。
「あんたさんには、なにか不思議な力があるようじゃの」
「力……?」(そんなこと言われたことない)
「力……力と言うてものう。何かを動かしたり、何かを壊したりする力ではない。ひととひとをつなぐ力じゃ。それは、とてつもなく大事な力じゃ」
風子はテモルばあちゃんを見た。
「わしは老い先短い。じゃが、あの子のことが気に掛かって死んでも死に切れん。アイリと同じ年のあんたさんに、あの子の脆さをうけとめてほしいとは言わん。ただ、できるときでええ。あの子といっしょに泣き、いっしょに笑ってやってくれんか?」
「もちろんです! わたしのほうこそアイリとずっと一緒にいたい!」
風子は明るい笑顔で答えた。アイリを大事に育てた老女の手が、曾祖母の稲子の手に重なる。おぼろな記憶のなかで、稲子の顔は思い出せない。だが、声と手だけは覚えている。
声は違うが、同じ手だ。働いて、働いて、指の節々が高くなった、農婦の手だ。
山から下る細い坂道を大きなカゴを背に負った老人が杖をつきながら降りてきた。テモルばあちゃんと挨拶をかわす。風子はすでにアイリとモモのそばだ。
子どもたちがサキを呼んでいる。サキも高台へと急いだ。
老人がテモルばあちゃんに言った。
「アイリは達者なようじゃの」
「フホフホ、あの通りさ」
老人は、高台にいる子どもたちを見た。
「あれはアイリの知り合いか」
「ふむ。学校の友だちのようじゃ」
「友だち? あのアイリに友だちとは。フーム」
老人は縁側に座って、カゴを地面に下ろした。なかに入っていたキノコをとりだし、テモルばあちゃんに渡す。
「これは、これは……。久しぶりによいキノコじゃな。作用もさぞ強かろうて」
「ああ。アイリが戻ってくると聞いたからの。ずいぶんと探したわい。昔に比べてほとんど採れんようになってしもうたからのう」
テモルばあちゃんは、そばの小さなカゴをとり、キノコを大事そうに入れ替えた。かけてあった手ぬぐいをとり、カゴにかけるのも忘れない。
「あの子が笑う姿なんぞ、十年ぶりじゃの」
「うむ。もう十五を超えた。そろそろかのう」
「わしらの準備はできておるぞ。いつ、そのときが来てもええようにな」
「助かるぞ」
ピョクじいさんは、ふところからキセルを取り出し、タバコをふかした。
「一緒におった娘も同じ年頃のようやの。ずいぶんと親しいようじゃが、ええのか」
テモルばあちゃんは小さなため息をもらした。
「五つのとき以来、アイリはひとに真の顔を見せず、その荒ぶる心も覆い隠してきた。〈火の力〉も封印してきた。おそらくあの時のことは、アイリ自身が覚えておるまい」
「……そうじゃの」
「じゃが、あの娘といるときのアイリは、素をさらけだしているのに、心がまことに穏やかで、〈火の力〉の影もない」
「〈火の力〉は、荒ぶる心にしか宿らんからな」
「だから、わからぬのよ。〈火の力〉は見えんが、消えたわけではない。このまま、あの子は〈火の力〉を失うのかのう?」
「それは断じてならん。あの子は、わが〈火の一族〉のただ一つの希望ではないか」
テモルばあちゃんは遠くの山なみを見た。
「それとも、あの子は〈火の力〉を御することができるようになったのか」
ピョクじいさんの手からキセルが落ちかけた。あわてて、キセルを持ち直したじいさんが、興奮しながら言った。
「では、まさしく「そのとき」がきたのか!」
「しっ。静かにせんか」
ピョクじいさんは、叱られた仔猫のように背を丸くした。テモルばあちゃんは続けた。
「アイリはまだ自分が何者かを知らぬ。それを知ったとき、アイリにとってあの娘はどんな意味をもつのか。守り人か、それとも、大きな壁か」
「壁なら砕くまでよ」
「……はて、アイリにそれができるかの。じゃが、急がねばならんのは確かなようじゃ」
■地下の祭壇
夕刻、あまり遅くならないうちに、キュロスたちは、アイリを残してさきにルキアに戻った。あのでこぼこ道には道路灯などない。真っ暗闇では、キュロスですら運転が危ない。
アイリは明日一番のバスで戻る予定だ。ばあちゃんがちょっと具合が悪いと寝込み、アイリは一晩様子を見ることにしたからだ。
アイリは、ばあちゃんの指示で、ピョクじいさんが取ってきたキノコで鍋を作った。アイリには、ごった煮以外の料理は作れない。具材をぶつ切りにして放り込んだだけだが、アツアツのキノコ鍋はおいしかった。ばあちゃんもそれをほおばっているうちに元気を回復したようだった。。
「あの子たちはもう高速に入ったころだろうの」
そう言いながら、ばあちゃんが身を起こした。
「ばあちゃん! 大丈夫か?」
アイリが慌てて言うと、ばあちゃんが二ッとした。
「わしゃ、どうもないぞ。アイリ、おまえまでだまされてどうする?」
「ひどいよ! だましたのか? どんなに心配したか、わかってる?」
「おまえ一人をここに残すために仕方なかったんじゃ。こうでもせにゃ、おまえはあのイヌと一緒にもどっていったろう? 違うか?」
返す言葉もない。
ばあちゃんは、アイリに着替えるよう指示し、自分も身支度をととのえた。どこに行くのかと思いきや、ばあさんは土壁の前に立った。柱の隅に顔をあわせる。
スルスル……音もなく壁が開いた。
「行くぞ!」
あっけにとられたアイリが、ばあちゃんに続いて足を踏み入れると、背後で静かに壁が閉まった。
「ば……ばあちゃん」
「網膜認証じゃ。近頃はどこでもやっておろうが」
壁の中は狭いが、灯りがついているので、足下は見える。ふたたび壁。ばあちゃんが、今度は両指の指紋認証を行った。入ると壁が閉まる。
兄もとには、下り階段が続いていた。しばらく行くと、小さなホールに出た。壁には何もない。階段と正反対の壁、下から一メートル半ほどの場所の前にばあちゃんは立った。ばあちゃんは慎重に手のひらでなにかを確かめる。髪の毛を一本取り、その髪の毛をあてたあと、顔を近づけた。そして、アイリにも同じことをするように促した。
「網膜認証と指紋認証とDNA認証か。……ずいぶん念が入ってるな」
アイリがつぶやいた。
「そうじゃ。ここから先は特別な者しか入れぬ場所。ゆくぞ」
壁が開き、小さな空間があらわれた。
空間で待つこと数分。正面の大きな扉が開いた。明るい広間だった。
これまでの殺風景な空間とは異なり、華麗な装飾が施されている。材質はすべて赤みの強い大理石。磨き上げられた壁のところどころに奇妙な絵柄の浮き彫りが嵌め込まれている。
その見事さに言葉を無くしているアイリを、ばあちゃんが促した。
「これしきで驚いてはならんぞ」
広間を抜け、回廊のような通路をしばらく行くと、さらに大きな場所に出た。古代ローマのフォールムのような巨大空間だ。大理石の列柱が立ち並び、正面には白亜の建物。天は高く、緋月が輝く。
「こ……ここ、いったいどこ?」
アイリがめずらしくうろたえる。ばあちゃんは答えず、しずしずとアイリを先導する。
ひときわ美しい正面の建物の階段をあがり、中央に入ると、何人もの人が額づいていた。向こうのやや高い場所に置かれた玉座の傍らに、白色の長い衣をまとった青年が一人立っている。
「さあ、あちらへまいられませ」
ばあちゃんの声がいままでとは違う。しわがれた声が張りのある声に変わっている。いつのまにかテモルばあちゃんの姿はなく、若い美女が立っていた。
近づいてきた三人の者が、アイリに薄衣をはおらせる。わけがわからぬまま、その荘厳な雰囲気に飲まれるように、アイリは歩み始めた。
正面のひな壇に立っていた青年は、アイリに玉座に座るよううながした。アイリが問い返そうとすると、その目は質問を封じた。ピョクじいさんがいつも首にかけているペンダントが見える。
額づいていた者たちが立ち上がる。どの人もみな若く、美しい。
玉座に座ったアイリの頭上におごそかに王冠が置かれた。居並ぶ者たちがふたたび額づく。
「女王さま。万歳」
「万歳」
「万歳」
声が幾重にもこだまし、アイリをますます混乱させる。
さきほどの女性が近づいてきた。
「驚かせてしまいましたことを、どうかお許しください」
よく見ると、テモルばあちゃんがいつも指にはめている指輪をしている。
「ばあちゃん……?」
彼女はにっこりとほほえんだ。
「さようです。わたしはテモルです。女王さま」
「あの、さっぱりわけわかんないんだけど」
「はい。あとでゆっくりご説明申し上げます。いまは、みなの歓呼に応えて、右手をあげてくださいませ」
言われるまま、アイリは片手をあげた。歓呼が静まった。
「みなの者、よく聞け。われらの女王がご帰還あそばされた。やがて、みなにそれぞれ役割が与えられよう。女王さまはお疲れだ。今宵は、みなこのままさがるがよい」
集まった者たちが、しずかに去っていく。広場には人影一つとてない。アイリはホウッとため息をついた。
「さあ、こちらへ」
案内された場所は、心地よい広さの部屋だった。華麗な生地が張られた長椅子が置かれ、中央の透明のテーブルには、みずみずしい果物が山に盛られている。テーブルはガラスではない。水晶だ。
アイリの前に飲み物が運ばれてきた。一口飲むと、のどに優しい甘さ。ゴクゴクとのみほし、アイリはあたりを見回した。
「ばあちゃん。説明しろよ。さっぱりわかんないじゃないか」
「はい。女王さま」
「それ、やめろ! 気持ち悪い」
「承知しました」
目が覚めると、明け方だった。土間で、煮炊きの音がする。
アイリは、ガバッと身を起こした。ばあちゃんのいつもの背中が見える。
「ばあちゃん! 大丈夫か?」
「おお。起きたか。わしの看病で疲れたんだろ。ガラにもないことをするからじゃ。バスに遅れるぞ。ほれ、急げ!」
アイリは、ばあちゃんに走り寄った。そして、じっとのぞき込む。
「なんじゃ?」
「……ばあちゃん。何歳?」
「もうすぐ九十じゃ。突然どうした?」
「だよね」
アイリは、安心したように板の間に座り、今度は壁を見つめた。
「何にもないか……」
「どうした? いったい、なにをブツブツ言っておる」
アイリは、あいまいに笑った。
「別に……」
「ほれ、向こうの鍋が吹いとる。早うフタをとれ」
「うん」
「おう。テモルばあさんよ。鮎を釣ってきたぞ。二人で食べるがええ」
ピョクじいさんが、腰に下げた筒から数匹の鮎をとりだし、桶に入れた。腰が少しまがっているが、かくしゃくとしている。首にはいつもの首飾り。ずいぶん前に死んだおかみさんの形見だとか。
「アイリよ。いつ向こうへ戻るんじゃ?」
「始発のバス」
「そうか。ときどきはこの村に戻ってこいよ。テモルばあさんが寂しがっておる」
「うん、わかってる」
ピョクじいさんは、ヒョコヒョコと去っていった。
壁をさわってもびくともしない。村に坂道は多いが、石段はない。細い急な坂道を登って高台に行ってみたが、町らしきものは何一つ見えない。この村は谷の唯一の村。時間からも置いてけぼりをくうような小さな村だ。
ふと見上げると、鳥が一羽舞っていた。黒い姿はカラスのようだ。カムイか?
アイリは思い出す。十年前、この崖で落とした木兎を。そして、木兎を拾ってくれた少年を。その時もカラスが空を舞っていた。少年の顔は思い出せない。名前も知らない。
だが、この崖での出来事を思い出すたび、かきむしられるように胸が痛む。あのとき、何があったのだろう。それすら覚えていない。それなのに、何か大きな悲しみが襲ってくる。思い出したくない辛い記憶がよみがえってくる。いつものように、アイリはそこで思考を止めた。




