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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第五章 初恋
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Ⅴー3 不運な少年

■不運な少年

 暗い……。

 見回すと、壁一面に分厚い石――石室(せきしつ)だ。口の中から血の味がする。殴られて切れたらしい。


「けろっ」

 シロがポケットから飛び出した。よかった。相棒は無事だ。


 石一つ分の明り取りから空が見える。夜が明けたのだろう。両足は鎖で(くい)につながれ、両手は後ろ手に縛られている。全身が痛い。よく覚えていないが、何度も殴られた気がする。


 ここはいったいどこなんだろう……。目の前の鉄製の縦格子を見ると、どうやら「牢獄(ろうごく)」というものらしい。どこからかうめき声が聞こえる。ほかにも囚われ人がいるようだ。

 

――雨の精は無事だったろうか? オレと同じような仕打ちにあっていないだろうか?


 シュンは、自身のことよりもあの少女を気にかける自分にいささか驚いた。


 とんだ不運だった。


 なのに、あの雨の精に会えただけで、その不運が帳消(ちょうけ)しになってしまう。シュンは、少女のことばかり考えていた。それだけで胸が熱くなってくる。


「けろ、けろろん」

 だれか来たようだ。重い足音が石に響いている。


■詮議 

 鎖ははずされたが、(こし)(なわ)をつけられたまま、シュンは明るい場所に引きずり出された。正面にはいかつい顔の大男が座っている。奥には御簾(みす)がかかっていた。だれかいるようだったが、姿は見えない。


 跪くよう命じられ、頭を下げると、別の扉からだれか別の者が引き立てられてきた。ちらっと見ると、父だった。

「父ちゃん!」

「シュン! 大丈夫か?」

 刑吏(けいり)らしきものにふたりとも小突(こづ)かれた。

「黙れ!」


 正面の大男が口を開いた。どうやら、あの雨の日のことを詮議(せんぎ)しているようだ。シュンは、殺人・強盗・強姦未遂とやらでつかまったらしい。どれも重罪だ。だが、そんな……。罪など犯していない。雨の精を助けただけだ。


 シュンはすべてを否定した。その都度(つど)、脇に立つ刑吏がシュンを殴ろうとしたが、御簾の後ろから声がかかったようで、正面の男がストップさせた。


 シュンは、ありのままを話した。


――貧しい者に、この国の司法は厳しい。

 そう聞いたことがある。無実の罪で処刑された者もいるという。そんな国に生まれた自分が不運だったのだろう。


 三十分ほどで詮議は終わった。ひどく形式的な詮議だった。そのあと、父親はどこかに引き立てられていった。


「シュン。オレは大丈夫だ。おまえは自分のことだけを心配しろ。いいな!」

――父ちゃん……。

 シュンは涙目(なみだめ)で父親を見送った。何度も頷いた。


■御簾の向こう 

 シュンは、もと居た場所とは別の場所に連れていかれた。きれいな館のきれいな部屋だった。


 きれいな女性たちが何人もいて、シュンのボロボロの服を脱がせた。隣室には温かい湯殿(ゆどの)が用意されていた。薔薇(ばら)の花びらが浮かべられていた。湯気とともに芳香が部屋に満ちている。

 女性たちに体と髪を洗われ(下半身だけは触られないよう死守した)、真新しい服を着せられた。あの少女が着ていたものとよく似た白いきれいな着物だった。


 手伝いをした女性たちがみなシュンに見惚(みほ)れた。生まれながらの貴公子にも負けない気品をまとった美貌の少年だった。


 一番立派な服を着た女性に導かれて、シュンはまばゆいような部屋に入った。

 御簾(みす)がかけられていた。案内役の女性が、御簾の向こうの誰かと話し、いくつかの質問をした。


――名はなんという? 

 シュンです。


――歳は?

 十五歳です。


――仕事はしているのか?

 父親の野良仕事を手伝っています。


――なぜ、あの日、野良小屋に少女を閉じ込めた?

 閉じ込めてなどいません。あの子が雨にずぶぬれになって、熱が出ていたので、介抱していただけです。


――服を脱いでいたではないか?

 あの子のぐしょぐしょの顔や体を拭くために、下着を脱いだからです。


――首を締めようとしていたのではないか?

 まさか! 熱が引かなかったので、薬草を採ってきて、口移ししただけです。引っぱたかれましたけど。

 御簾のうしろでかすかにくすりと笑う声がした。


――帯を解こうとしたのではないか?

 あの子の息が苦しそうだったからです。帯を緩めるとましになるだろうと思いました。またひっぱたかれるのを覚悟しましたけど……。

 また御簾の後ろがさざめいた。


――帯には高価な金糸や真珠が縫いつけられていた。それを盗もうと思ったのではないか?

 まさか! あんなにきれいな帯を()っても、だれもそれに合う衣を持っていません。そもそも売りさばく場所など村にはありません。

 またまた御簾の後ろで笑い声がした。今度はあからさまな笑いだった。


「御簾を上げよ」

 涼やかな声がした。


 シュンは固まった。あの時の少女だった。今日はかわいらしい薄桃色の衣をまとっている。


「セイ。どうだ? わたしが言った通りであろう?」

 隣に立つ案内役の女性が頷いた。

「はい、皇太女さま」

 皇太女……? シュンはポカンと口を開けた。少女が尋ねた。

「シュンとやら。さきほどの詮議でわたしを雨の精だといったな? なぜそう思った?」

「きれいだったからです。見たことないほどきれいなひとは人間じゃなくて、精霊だって……。雨の中にいたから、雨の精だと思ったんです」


 少女は、かすかに口元を上げ、一瞬、微笑みらしきものを(ただよ)わせたが、すぐに厳粛な表情に戻った。

「わたしを救ってくれて礼を言うぞ。何なりと望みのものを言うが良い」

 シュンは急いで言った。

「父ちゃん! 父ちゃんは無事ですか?」


 セイという名の女性が答えた。

「安心するがよい。もう村に着いた頃だろう。皇太女さまを助けた礼として、十分な金品を渡そうとしたが、おまえの父は受け取らなかった。自分が助けたわけではない。礼は息子に与えてほしいとそう言った」


――父ちゃんらしい。


 セイが重ねて尋ねた。

「そこでだ。おまえはいったい何を望む?」


――困った……。

 いままで望みというものをほとんど持ったことがない。何が()しいかと聞かれても、欲しいものがわからない。


■望み

 ふと部屋を見回した。多くの本が置かれている。シュンは答えた。

「ここにある本を全部読みたい! ……と思います」

 少女の目が大きく見開かれた。セイがあんぐりと口を開け、すぐに表情を整えた。

「こ……ここの本を全部だと? 数千冊はあるぞ。おまけに世界各国の言語で書かれている」


 シュンの目が輝いた。

「ホントですかっ? うわっ、それなら絶対に読みたいですっ!」


 セイが尋ねた。

「シュンとやら。さきほどおまえは父の野良仕事を手伝っていると申したな? 学問をしたことがあるのか? そもそもどれほどの文字が読めるのか?」

「母ちゃんが行商のたびにオレに本を買ってきてくれます。それを全部読みました」

「いったい何冊ほどだ?」

「うーん。毎月の行商で十冊から二十冊の本を買ってきてくれるから、年間二百冊ほど、五歳の時から読んでいるので二千冊くらいですかね。あと、学校の図書室の本は全部読みました。あんまりいい本がなかったですけど」


 少女がまた目を見開いた。読書三昧の自分には及ばない。数が多ければよいというものでもない。だが、周囲の貴族子女にはそこまでの本好きはいない。

 そもそも、本はそう安いものではない。あのボロボロの服を着た少年に大量の本を買うゆとりなどあるのか? セイも言葉を失っている。


 なんとか、セイが尋ねた。

「おまえのあの小さな小屋のような家には、荷物なんぞほとんど見当たらなかったと聞いたぞ。どこぞに隠していたのか?」

 少年は、明るい瞳で首を横に振った。

「いいえ。家が小さいので、オレが読み終えると、母ちゃんが全部売りに出します。次の本の資金にするために」

 思わず、セイがひるんだ。

「う……売るだと? では、読み直すことはないのか?」

「どうして? ぜんぶ覚えちゃうのに、必要ないです。それより新しい本のほうがいいに決まっている」

 また、少女が息を呑んだ。セイの声が心無しか震えている。

「いったいどんな本を読んできたのだ?」


 少女が手元の本を三冊ほど取り出した。

「これらを読んだことはあるか?」

 立派な革製の装丁の本だった。

 シュンは、セイから手渡された本の内表紙を確認して、答えた。

「はい。これらは三冊とも読みました。もっとぼろい本でしたけど……。母ちゃんはいつも古本屋に本を売って、そのお金で別の古本を買うから」


 少女が示したのは、ギリシア語のアリストテレス、ラテン語のダンテ、ドイツ語のカントといった古典だった。セイの声はあきらかにうろたえている。

「ど……どうして、これらの原書を読むことができるのだ?」

「これらにはほとんど翻訳がありますし、学校の図書室には辞書や辞典、文法書があります。それらを見ればわかります」


 セイはクラクラした。この少年には大言壮語の(へき)があるのだろうか?


 突然、少女が椅子から立ち上がった。少女の掌からシロが飛び出た。

「けろっ!」

「あっ、シロ! よかった! どこにいったかとすごく心配したよ!」

「このカエルはシロというのか? さきほどの詮議のとき、わたしのところにやってきた」

 シュンはうれしそうに自分の掌に飛び乗ったシロを撫でた。


 少女は少年をソファにいざなった。二人は立派なソファに座り、楽しそうに議論をはじめた。セイはついていけない。


――仕方ない。皇太女さまは、興が乗るといつまでも議論をやめない。お茶菓子を用意するとしよう。


 セイは、部下の女官に茶菓子の用意を命じた。まさか、この部屋に皇太女と少年の二人だけを残すわけにはいかない。セイは、さっぱりわからない議論に笑いあう二人を部屋の隅でぼんやりと眺めた。


 この少年シュンが、のちに皇帝ファウンがただ一人選んだ夫となる。

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