Ⅴー1 村祭りの雨
■皇帝ファウン
――七十五年も前になるだろうか。
二十歳になったばかりのセイは新米女官としてカトマール皇宮に向かった。香華族の中でも特に能力の秀でた者が就く職に若くして抜擢されたのだ。次期皇帝の側近となる女官職だった。
当時のカトマール皇帝ルオは遅い婚姻で得た子が娘一人だけで、その娘が次期皇帝となる皇太女に叙せられた。
当時十歳の皇太女ファウンは、たぐいまれな美貌と才能に恵まれた。皇室に生まれながら、香華族の資質を色濃く持つ稀有な存在だったのだ。
女官の服に身を包んだセイは、一目でファウンの快活な姿に魅せられた。この少女に仕えることを無上の喜びだと天に感謝した。
カトマールの香華族は、皇后を出す一族として世に知られる。だが、実際にはそれは一握りの高位の家系に限られる。爵位と領地と財産を持つ特権身分の香華族は、香華本族たる〈本香華〉と呼ばれた。
これに対し、ほとんどの香華族は平民で、異能を持たず、爵位とも無縁だ。これを〈平香華〉と呼ぶ。〈平香華〉もまた、香華族という名誉と伝統にはあずかるものの、特権身分ではない。
〈本香華〉と〈平香華〉の違いを超えて、香華族の絆は強い。香華族は香華族のみに伝わる特別な高度教育を受け、人材発掘の機会を持ち、香華族としてのネットワークに属することができる。それは、〈平香華〉にとっても誇りであった。
内戦時、抹殺のターゲットにされたのは、〈本香華〉に限られた。〈平香華〉の反発を恐れた政府は巧妙な仕掛けを施した。子女が通う学校を軍に占拠させ、子女を人質にして抵抗を封じたのである。香華族は何もできなかった。
セイは、〈平香華〉の家に生まれた。
実家は貧しかった。だが、香華族としての高度教育を受けることができた。香華族は教育に力を注ぎ、高等教育まですべて無償である。教育過程ですぐれた能力があるとみなされた者は、身分や出自にかかわりなく抜擢される。セイはその一人だった。
香華族の異能や特性は、高位の香華族ほど強く現れる。異能の血統を色濃く受け継ぎ、その血統を守ってきたからである。しかし、ごく稀に〈平香華〉にもすぐれた者が現れる。そのような異能者を香華族は〈本香華〉として迎え入れ、大切に遇した。次世代につなげるためである。
セイの異能は、癒し術にあった。癒しの異能は高度な異能であり、高位の香華族にも発現するのはきわめて稀である。発現しても、直接人間に及ぶほどの力は持たない。セイの癒しの異能も、対象は小動物に限られていた。
セイは、自分の限られた異能を補うべく、医術と薬術を極めようと努力した。
ファウンが二十歳で帝位に就くころには、セイの能力と学識は広く知れ渡り、セイは女官長兼薬師長としてファウンに仕えるほか、香華族における医薬術の教育責任者に抜擢された。
帝王教育を受けた皇帝ファウンは、非常に有能であった。
カトマール皇室では、皇子は香華族から后を迎えねばならないが、皇女は香華族に関わらず、望む者を配偶者に選ぶことができる。近親婚を避け、優秀・有能な新たな血を入れ続けるためであった。ただ、皇帝の配偶者の場合、香華族以外は皇室に入ることはできない。皇帝の配偶者とその親族――外戚――が皇室を乱した歴史をふまえ、禁じられるようになったのである。
〈本香華〉の独占とも取れる皇室の在り方は、ふつうなら他の高位貴族の怨嗟の的になるだろう。だが、カトマールではそうはならなかった。高い爵位をもつ貴族たちもまた、皇帝家に倣って〈本香華〉と縁を結び、父母のどちらかが〈本香華〉である場合には〈本香華〉として皇室に入ることができたからである。
その意味で、カトマール帝国では、皇室も高位貴族も広い意味では〈本香華〉に属したと言える。
皇太女ファウンが選んだ夫は、〈本香華〉どころか、〈平香華〉ですらない平民の若者であった。
周囲が驚いた。ファウンの信任篤かったセイも反対した。だが、皇帝となったファウンの決定を覆すことなどできない。
夫君に選ばれた若者は、婚姻後も五年近く、ファウンとともに仲睦まじく暮らした。そして、皇女が生まれた。子が三歳になると、〈本香華〉以外の配偶者は皇宮を出る定めだ。こればかりは皇帝といえども従わざるを得ない。
ファウンは愛する男と別れた。だが、外宮に夫君を置こうとした。ファウンが夫君に与えた館は、かつての彼女の私宮であった。
ほどなく夫君の消息は不明になった。
皇帝が執着する男にだれかが手を下したのか、それとも、自ら身を引いたのか――。真相はわからない。皇帝ファウンは表向きみじんも動揺を見せなかった。だが、セイは知っていた。ファウンは夫のいた館に忍び、一人で泣いていた。ファウンはその後、一人の男も寄せ付けなかった。
ファウンの一人娘アリアは、両親に似た美麗で賢い娘に育った。ファウンの改革路線を引き継ぎ、開明派と呼ばれた。皇太女となったアリアが選んだ夫は、〈本香華〉の若者であった。彼は、祖母の親族にあたり、〈本香華〉でも屈指の名門貴族の子息だった。二人は幼馴染で、互いをこよなく愛した。二人の婚儀を見届けたファウンは病に倒れ、娘が摂政となった。
摂政の皇太女アリアと夫君ナムルは仲睦まじく、二人の間にはまもなく娘がうまれた。第一子主義をとっていたため、帝位は長女が継承する予定であった。幼い皇女リリアは、母の皇太女によく似た清冽で知的な美貌であった。ファウンは、下の皇子の誕生を待たずに崩御した。セイはファウンの葬儀を執り行い、皇宮を出て、〈忘れられた村〉に近い谷に向かった。四十年ほど前のことだ。
――四十年ぶりに訪れた昔なつかしい別宮で、窓の縁をなぞっていると、向こうの大きな葉の上に白いカエルが姿を現した。セイを待っていたかのようであった。
白いカエルを見ながら、セイの記憶は、ファウンと出会った五年後に飛んだ。
■村祭りの雨
森のそばに立つ大きな木に登り、十五歳のシュンは天を仰いでいた。
――もうじき雨だな。
空の色、雲の動き、鳥たちのさえずり、これらをもとにシュンは天候を読むことができた。村では重宝された。農耕には重要な情報だからだ。
シュンはいつも退屈していた。
村の学校の授業などつまらない。教師よりもシュンのほうがはるかに多くのことを正確に知っていた。行商を営む母が、シュンのために都で本を買ってきてくれるからだ。シュンはそれをすべてすぐに読み終え、内容も詳細に覚えている。ほかに楽しみがないのだ。本をもとに想像を膨らませ、自分で考えるしかなかった。
都は遠い……。
ひとたび行商に出た母は一カ月は戻らない。その間、父はわずかばかりの農地を耕し、シュンと妹のために食事を作ってくれる。
木の下に村の娘たちが集まってきた。
「シュン! もうすぐお祭りが始まるよ。一緒に行こうよう!」
年に一度の村祭りだ。娘たちは、精一杯のおめかしをしている。ヒラリと、シュンは木から飛び降りた。
「でも、もうすぐ雨だぜ」
「えええっ? ホント? やだあ。一枚しかない晴れ着なのに……」
一番きれいな娘が顔をしかめた。
「ねえ? 何時頃?」
「そうだな……あと二時間くらい後かな」
「じゃ、それまでに家に戻ろう! だったらよけい早く行こうよ。ねえったら!」
きれいな娘がシュンの腕をとると、ほかの娘たちもシュンを取り囲んだ。シュンは村一番の人気者だった。着ているものは粗末だったが、顔は驚くほど美しく、身体つきはしなやかで、背が高く、足が長い。娘たちはいつも、この少年に王子様衣装を着せたら、どんなに素敵だろうと妄想していた。
村の広場には出し物が出ていた。流浪の楽師もいれば、旅芸人一座もいる。少し向こうには、皇帝家の離宮がある。そこには、皇帝家のために、都でも指折りのサーカス団が招かれているという。だが、このさびれた村にはそんな立派な芸人はいない。
声がかかった。
「シュン、遅いじゃないか!」
「やあ、ルピン!」
幼馴染の二人のそばに村の娘たちが集まってくる。村一番の猟師の息子で野性的なルピンも、小作農民の息子で賢い美少年シュンも、娘たちの人気の的だ。
案の定、雨が降り始めた。娘たちは散り散りに家に駆け戻る。ルピンはお気に入りの娘を送っていくと言って、去っていった。
シュンは木陰に入った。
――雨を見るのは好きだ。
いろいろな雨がある。春雨、夕立、霧雨、時雨……。雨とともに草木の匂いも強くなり、カエルの声も大きくなる。
なにより好きなのは、明るい景色が一変して、遠い城の尖塔が雨に煙り、木の葉から掌に雫がポタリと落ちる瞬間だった。高く広い天の涙を自分の小さな掌が受け止めている気がした。
いつもずぶぬれになるので、父にはしょっちゅう叱られた。何枚もない服をそんなにたびたび濡らすなと――。




