Ⅳー6 エピローグ――皇女リリアの願い
■アユの頼み
美しい女性は、深い皺が刻まれた老女に、軽いお辞儀をするような仕草で言った。鈴の音のような麗しい響きだった。
「香華族の件にございます」
予想していた通りだった。だが、すぐには反応しなかった。
「はて? 何でござろうか?」
「カトマール皇室のことです」
アユの言葉に、セイは居住まいを正した。もはや逃れられぬ。
一言一言を噛みしめるように、セイはゆっくり語った。
「わしは四十年ほど前に皇宮を辞しましてござる。じゃが、わしの記憶が正しければ、あなたさまは皇女リリアさまではございませぬか?」
皇女リリアは、黒い瞳の中に深い紫の輝きを宿した美しい幼子だった。ファウン皇帝は、この上なく孫娘を慈しんだ。
――異能に頼ってはならぬ。
かつて、夫君シュンはいつも皇帝ファウンをそうたしなめていた。だが、夫君を失った皇帝は、異能に頼った。それはファウンの心身を蝕んだ。
異能の力と毒を知り尽くす皇帝は、異能を持たぬ孫娘リリアのすぐれた資質をことのほか愛でた。
――この子は、生まれながらの指導者だ。民のための皇帝になるだろう。
アユはセイの目を深く見ながら、静かに頷いた。
「そうです。わたしのまことの名はリリア、リリアンヌ十二世です」
セイは立ち上がり、平伏しようとした。それをパドアが止めた。
「どうぞ、そのままで。平伏など、リリアさまは望んでおられません」
セイの正面に立つリリアは優雅にほほ笑んだ。
セイの細い目には涙が溜まり、滂沱のように流れ落ちる。
せイは絞り出すように言った。
「皇女リリアさま……。お母上の皇帝によう似ておられる。まさか、生きておられたとは、これまで長生きした甲斐があったというものでござりまする」
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしく思います。けれども、わたしの名も身分もこのパドア以外、だれも知りません。あなたに明かすのは、あなたのご協力を得たいがため」
「わしの協力? いかなることをご所望か?」
「三十年前に生き別れになった弟を見つけたいのです」
「弟君? たしか、レオンさまと聞いておりまする。さきほどの青年もレオンという名でござりましたな……」
首をかしげたセイに、パドアが応じた。
「さようです。はじめてレオンさまにお会いしたとき、驚きました。ファウン皇帝に似ておられたからです。ですが、彼には香華族の香りはございませんでした。その後ももしや香りが復活するかもと注意して見守りましたが、そのようなことはありませんでした。先日、リリアさまもじかにお確かめになったのですが、香りはなかったとのことにございます」
「なるほどの……。血が濃いほどわずかな香りでも見分けがつきますからの」
「香りのない香華族はあり得るのでしょうか?」
「いや、香華族はその名のとおり、香りがあるからこその香華族。香りを失うことは、香華族の力も記憶も失うこと――。香りが消えたり、復活したりするなどは普通ありえませんな」
パドアが落胆したように、だが、覚悟はしていたように、低い声で語った。
「やはり、そうですか……。ラウ伯爵にはたしかにレオンさまとおっしゃる異母弟がおられます。まだほんの幼い頃ですが、わたしもお目にかかったことがございます。これゆえ、レオンさまが皇子さまであるはずがないと思いつつも、レオンさまのお姿を見るたび、やはり期待してしまいます。あのお方は、容姿、頭脳、行動力、判断力のすべてに秀でておられるからです。ラウ伯爵は、レオンさまをいずれ弟だと公表なさって、すべての事業をレオンさまに引き継ぐおつもりです。ただ、レオンさまはそれを望んでおられぬご様子。ラウ伯爵が頭を痛めておいでです」
「……さようでござったか」
レオンは、地位にも名誉にもまったく無関心とのこと。
リリアが苦し気に言った。
「皇帝たる母上は、お別れした最後の日、わたしにこう言い聞かせたのです。かならず弟を守れ。あの子を守ってこそ、香華族は存続の意味がある、と」
「皇帝のお言葉には、何か理由がございますのか?」
「ええ。実は、弟は一歳のころから、皇宮の池の魚や昆虫たちを生き返らせる異能を発揮しておりました。突然、力を発揮するので、まわりが対応できず、皇室に敵対する者に感づかれてはならないと必死で取り繕っておりました」
(一歳で甦りの異能じゃと⁉)
セイは、言葉にできない驚きを何とか胸に隠した。
リリアは語った。
「皇宮を出た夜、わたしと弟は、香華族の名だたる剣士を護衛につけてもらい、ミン国に逃げ延びようとしたのです。けれども、追っ手に見つかり、護衛はわたしたちを守るために敵と相打ちして果て、わたしは弟をおぶって必死で逃げました。護衛から逃げのびる先のメモが入った金銭袋をもらい、ミン国南部の遠い山を目指したのです。ところが、途中で金銭袋を奪われてしまいました。行く先がわからなくなり、途方に暮れたわたしは、天月を目指そうと考えました。靴に忍ばせていたわずかな路銀をもとにアカデメイアまで来ることができたのですが、路銀が尽き果て、弟をおぶって必死で天月の山をめざしたのです」
当時、皇女は十二になるやならずだったはず。何の苦労もしたことがなかった少女が、足を血まみれにしながら、天月を目指して急な山道を登ったのだろう。晩秋の天月では、闇が早い。そびえたつ木立に遮られ、月明かりも届かなかったはずだ。
「なんとか天月の門にたどり着き、わたしは二歳の弟を女性天月士に預け、さらに逃げ続けました。ミン国の山にあるはずの本来の逃げ場所を探しだし、弟を引き取ろうと考えたからです。ですが、所詮、十二の娘が考えることなど、たかがしれたもの。すぐに親切ごかしの男に目をつけられ、売り飛ばされそうになりました。ミン国の森で必死で逃げていた時に、偶然、パドアに拾われたのです。カトマール内戦を受けて、パドアはラウ伯爵家の乳母をやめ、自宅に戻る途中でした。以来、わたしはリリアという名を隠し、パドアの助けを得ながら、別の名で生きてきました。これからも真の名も元皇女たる身分も明かすつもりはありません」
セイはシワだらけの顔に手を当て、涙を拭った。
「……世が世なら、あなたさまは皇帝になられたはず。どれほどご苦労なさったことか……」
過去を語るリリアの言葉は淡々としていた。
「弟を引き取ることはあきらめました。わたしの顔を知っている者は、国内にも他国にもいます。わたしと共にいると目立ち、弟が危なくなります。女性天月士に大切にされて、弟は順調に成長していたようです。ですが、十歳の時に異変があったのです。弟はピアノコンクールに出場したさい、事故死したとされています」
セイの白い眉がピクリと動いた。
「ピアノコンクールですと……?」
「当時、天才ピアニストとして話題になっていた九鬼彪吾と天月からはじめて出場した弟の二人が決勝に進んだのです。でも、決勝は中止となりました。二人とも辞退したからです」
あの日、リリアはアメリアとしてラウ伯爵とともに会場に行く予定だった。〈天月のレオン〉の成長した姿を確認するためだ。だが、会えなかった。やがて、少年レオンの事故死が伝えられた。
「弟が落ちたとされる谷に行ってみました。ですが、力のある香華族であれば命を落とすはずがない谷でした。しかも、弟は天月で修練を積み、英才教育を受けていたはずです」
そうであろう……。あのファウン皇帝と夫君の血を引く皇子が、天月で頭角を現さないはずはない。
「何らかの事情で、弟は一時的に身を隠したのだろうと思いました。ほとぼりが醒めたころに改めて探すつもりでした。けれども、弟の消息はようとして知れず、今に至っております」
リリアのまなざしが必死の色合いを帯び始めた。別れてから三十年――姉は弟を案じ続け、死の報を聞いた後も探し続けたに違いない。
「わしに何をお望みでござりまするか?」
「どうか、弟を探すのを手伝っていただけませんか? わたしは〈本香華〉とはいえ、異能はありません。パドアにしてもしかり。ですが、あなたは香華族の本流に位置する強い異能の持ち主でいらっしゃる。異能者は互いの異能に気づくと言われます。ぜひ、ご協力を仰ぎたいのです」
一歳で甦りの異能を発揮したとすれば、皇子レオンの異能は、おそらく〈聖香華〉の異能――。
皇女リリアは弟の安否を気遣っているだけではない。〈聖香華〉の力を求めている。母の皇帝も皇子の力に気づき、最高位の〈本香華〉たちが、命懸けで皇女と皇子を逃がしたのだろう。
だが……。
ラウ伯爵家のレオンがたとえ皇子レオンだったとしても、記憶を失い、異能を失っている者に〈聖香華〉の力はない。
無理に〈聖香華〉の力を目覚めさせようとすれば、レオンの生命に関わる。
それは、〈聖香華〉を完全に失うことを意味する。
慎重に……慎重に……様子を見なければなるまい。
――もし……もし……あのレオンがまことの〈聖香華〉ならば……。
太古の禁忌を解くことができるはず――わが香華族が長く求め続けた悲願だ。
■外宮
皇宮を辞したセイは、パドアの案内で宿に向かった。
アユの配慮で、皇宮に近い古い小さな館に部屋が用意された。
「どうぞ、ここでごゆるりとお過ごしくださいませ。お食事は、担当の者がこちらにお運びいたします。衣類等もご用意しております。その他のご用命もお気軽にお申し付けください」
その館は、ファウン皇帝の夫君が住んだ外宮――。
もともと質素な趣で、高価な装飾がなかったせいだろう。軍事政権にもほとんど捨て置かれたようだ。それでも家具は持ち去られたらしい。館の中はガランとしていた。
案内された部屋は、かつてこの館で女官長として過ごした部屋だった。
セイは、ファウン皇帝とその夫君の面影を忍び、じっと佇んだ。
外宮は、もとはファウン皇帝の私設図書館として建立された。まだ皇女だったファウンがのちの夫君シュンとはじめて語らいあった館でもある。セイよりも十歳ほど若いカップルは、出会った十五歳から、夫君が失踪した二十五歳までの十年間、最も長い時間をここで過ごした。
その後、館は封鎖されたも同然となり、セイもここを訪れることはなかった。
手すりや壁に手をやりながら、セイは妙な違和感を覚えた。この館には地下に書庫があったはず。そして、その書庫からは皇宮のファウンの私室とつながる地下通路があり、皇室の掟にしたがって別居した後も、ファウンは毎夜、夫君の許を訪れていた。
だが、書庫への入り口は見当たらない。さきほど皇宮でファウン皇帝の私室を見せてもらったときも地下通路への入り口はなかった。
――二つの宮をつなぐ扉は、その痕跡すら完全に消されていた。




