Ⅰー2 青い鱗と珊瑚礁
■オロとシュウの散歩
「はじめて」はすべてが楽しい。すべてがめずらしい。シュウ=リョウは、オロについて歩き、ワクワクしていた。
向こうで大男がオロに手を振った。
「やあ、オロじゃねえか!」
「カゴロか。ハナちゃんと赤ん坊は元気?」
「おうよ。まあ、見ていってくれよ。ところで、ソイツだれ?」
「シュウっていうヤツさ。ちっと縁があってね。今日一日は面倒見てやるって約束したんだ」
「ふうん」
小さなベッドで赤ん坊が泣きわめいていた。真っ赤な顔をしている。甲高い声は容赦なく、声を限りに泣いている。
ハナちゃんとよばれる若い女が胸をはだけ、赤ん坊にお乳をやりだした。シュウ=リョウはおもわずじっと見てしまった。あれが「ボニュー(母乳)」というものか。ボクも母親の乳を飲んだのだろうか? ……いや、きっとそれはないはず。母親は大事故に遭って、ボクたちを産むのとひきかえに、植物状態になったそうだもの。
「おい、ひとの女房をジロジロ見るなよ。それも、おっぱいを」
「あたしはへーきだよ。そんなかっこいい子にみられるならうれしいもん」
「すみません……。人間って哺乳類だなって思って、つい」
オロとカゴロが顔を見合わせて噴き出した。シュウ=リョウはうろたえた。
「あの……なにか失礼なこと言いましたか?」
たまらず、オロがゲラゲラと笑い出す。
「おもろい! 女の胸を見て哺乳類といったのは、おまえがはじめてだ。哺乳類って、おっぱい族ってことだもんな。シュウ、おまえは頭でっかちのカチカチ野郎だと思ってたが、見直したよ」
「おっぱい族か……」
カゴロはまじまじとハナちゃんのおっぱいをみた。乳がいっぱいつまっていそうな胸は、大きく張って、赤ん坊はそれにかじりつき、しあわせそうにコクコクと飲んでいる。
「じゃ、帰るよ」
「ええ? もっとゆっくりしてけよお」
「コイツに見せたいものを思い出したのさ」
■橋の下のヤオ
裏通りの路地はお世辞にも清潔とはいえない。あちこちで野卑な言葉も飛び交う。オロはすたすたと歩いていく。目立つオロにかけられる言葉には卑猥なものも多いが、悪意は感じられない。少し離れたあばらやの前に立ち、オロは、鍵もかかっていない開き戸を押した。蝶番がはずれそうな代物だ。
「やあ、オロ、よく来たな!」と、ケマルが大喜びでオロを迎えた。
「うん。ヤオおじさんの具合はどう? 古傷がまた傷んでるの?」
「ずいぶんよくなったよ。おめえが持ってきてくれた薬のおかげだあ。おめえの顔を見たら喜ぶぜ。さ、こっちきな」
ケマルは、シュウ=リョウに目を留めた。
「コイツは?」
「オレの新しいダチさ。シュウっていうんだ」
「そうかい」
シュウ=リョウは周りを見回していた。これが住まいなのだろうか? あまりにみすぼらしい。テレビはない。調度品もない。カーテンもない。台所らしき場所には食べ物も見当たらない。
ぶらさがった筵の向こうに、一人の中年男が横たわっていた。五十代半ばだろうか。痩せこけているが、妙に迫力がある大男だ。彼は、ジロリとシュウ=リョウを見た。
「ずいぶんこじゃれたヤツじゃねえか」
「そう言うと思ったよ。でも、コイツ、けっこう苦労人らしくてさ」
「ふうん、そうなのかい?」
ヤオは、シャナ老が一番見込んだ者だ。三十年ほど前にシャナ老に拾われたという。武術に優れるが、昔負った大けがが時々痛むらしく、長期にわたる力仕事ができない。頭脳明晰で、知識の範囲も広いが、世捨て人のようにひょうひょうとしている。いまは、シャナ老に代わってこの集団を取りしきっている。素性はわからないが、それはみんな同じだ。
ヤオは、品定めするようにシュウ=リョウをジロジロと見た。
「これが、コイツからの挨拶代り。これからもよろしく頼むよ」
オロは、板間にどっさりと紙袋を置いた。さきほど通りかかった市で、オロが買ったものだ。シュウ=リョウのカネを使った。
「そうかい。そういうことならもらっておくぜ」
オロはヤオに近寄り、腰を下ろした。
「おじさんの好きな桃も入ってるから、あとでゆっくり食べて」
「ありがとよ」
「じゃあ、もう行くよ。また近いうちに来るからね」
通りをもとに戻り、広い道に出たところで、オロは財布を取り出し、シュウ=リョウに突き出した。
「さすが金持ちだな。お札がたんまり入ってた。もういらないから返すよ」
シュウ=リョウはどう答えていいのかわからず、とまどうばかり。手のひらのものをじっと見つめる。そんなリョウをオロは不思議なものを見るように眺めた。
「ほら、ポケットのなかにちゃんと入れときな。ただし、スリにすられないようにな」
「スリ? スリって何?」
オロがポカンとシュウ=リョウを見た。そして、ケラケラと大声で笑い始めた。
「あはは。おまえ、スリも知らないんだ。そりゃ、そうだよな。いつもキュロスに守られてるから、危ないことなんか経験したこともないだろうな」
シュウ=リョウは黙ったまま、顔を赤らめた。
「まさか、カネを見たのがはじめてだなんて言わないよな?」
シュウ=リョウの顔がさらに赤らんだ。シュウならば知っているかもしれない。でも、ボクは知らない。……ボクはこんなにもモノを知らない。世間のことわりを知らない。
笑っていたオロが、急に真顔になった。
「まさか、ホントに知らないのか……?」
シュウ=リョウは嘘をつけない。そもそも嘘をつくことを知らない。シュウ=リョウは頷いた。
「じゃあ、この財布の中に十万ルピ(≒円)ほど入っていて、さっき、オレがそのほとんどを使ったってことも……わからない?」
シュウ=リョウは目をシロクロした。オロが言っている意味がわからない。世の中に「カネ」があるのは知っている。それでモノを売り買いするのも知っている。だが、あんなにぺらぺらの紙が色とりどりの果物や菓子に変わるのはじつに不思議だった。
「まあ、舎村の若君だもんな……。貧しさなんてわかるまいな」
「貧しさ? それならわかる。いろいろなものが足りないってことなんでしょ?」
オロの目に、一瞬冷たい光が宿った。
「足りないんじゃない。ないんだ。家がない、仕事がない、食べものがない。貧しいってことは、生きる権利が奪われてるってことなんだ。生きていけないってことなんだ」
シュウ=リョウの目から涙がこぼれた。オロは言葉をつぐんだ。
「行こう。見せたいものがある」
オロの背中を追いながら、シュウ=リョウはとぼとぼと歩いた。
さっきまで輝いていた青い空は見えない、碧い海も見えない。さざめく人々、車の行きかう音、華やかなショーウィンドウ。すべてが涙の中で、灰色にくすんでしまった。
――「知らない」ということは、こんなにもひとを傷つける。
オロはバスと電車を乗り継いでいく。リョウもついていく。オロと同じようにポケットに手をやり、さっき戻してもらった財布を開けると、オロが不思議な壁に入れた丸いものと同じ色形のものがいくつか入っていた。――改札口、電車、バス。どれもが「はじめて」――。
バスを降り、坂を下り、細い路地を抜け、石階段を下がり、せせらぎに沿って花の下を通る。小高い丘のふもとに岩だらけの小さな洞窟があった。薄暗い洞窟にオロはためらいもせず歩みいる。シュウ=リョウも続いた。足元はぬかるみ、滑りやすい。足を踏ん張りながら、平たい石を探して進んでいく。周囲にはほの明るい苔が生え、かすかな光を足元に運んでくれる。
しばらく歩くと、とたんにまぶしい光のなかに出た。
■守り神
小さな白い浜辺。入り江になった浜に、しぶきがはねる。
――まさか、海?
以前に本で見たことがある。ああ、これが潮の臭い。波の音。
シュウ=リョウは目を閉じ、すべての風とすべての光を全身で受け止めた。
シュウ=リョウのポケットから二匹のネズミが飛び出した。オロが目を丸くする。
砂に着いたとたん、ネズミたちの姿は小鬼に変わった。赤フンドシは、カニに指を挟まれてギャーとわめく。虎フンドシは、海に飛び込んだ。
「おまえの連れもえらく楽しそうだな。まさかネズミが小鬼とはな」
オロの言葉に、シュウ=リョウが驚いた。
「あの小鬼たちが見えるの?」
「いまははっきりとね。さっきまではカゲロウみたいだったけど」
リョウが言葉を飲んだ。
「ボクだけかと思ってた……。彼らが見えるのは」
「でも、オレには見えるだけ。おまえは話せるんだろ?」
シュウ=リョウは頷いた。
「すごいよな。守り神をもってるなんてさ」
「守り神?」
「オレたちの一族じゃ、小鬼は最強の守り神と言われてるんだ。しかも二匹も……。おまえは、なんかとてつもなく大事な役目をもってるに違いない」
「ボクにはよくわからないけど……」
「いつかわかるさ。以前にあるじいちゃんに教わったんだ。人間の役目って、決まってるんじゃなくて、見つけながら変えていって、変わっていくんだってさ」
「ふうん」
「だが、鬼ってのは、普通の人間にとっちゃ、悪さをする祟り魔だ。おまえから離れたら、あいつらはとんでもない邪鬼になるよ。いまはけっこうかわいいけど、邪鬼に変わったとたん、とてつもなくでかくなって、人を食らうにちがいない」
「人を食うなんて、そんなことはないよ」
オロはせせらわらった。それ以上は言わなかった。シュウ=リョウは困ってしまった。
やっと出たのが、「きみにはいるの? 守り神」という問いだった。
オロは海を見たまま、答えた。シュウ=リョウの問いに、はじめてまともに答えた。
「オレ……? うん、そうだなあ。この海かな。海の中にいるとものすごく気持ちいい。母親のおなかの中ってこんな感じなのかなって。カメも寄ってくるしね」
オロはうっとりと言った。それまでとげとげしかったオロのあまりに無防備な表情に、シュウ=リョウがおもわずクスリとした。オロはきまり悪そうにそっぽを向いた。
オロはいきなり服を脱ぎ、じゃぶじゃぶと海に入っていく。つられて、シュウ=リョウも水に足を浸した。海に入ることはさすがに……「コワイ」。
――コワイ?
はじめての感覚にシュウ=リョウは身をすくめた。「コワイ(怖い)」ってこういうことなんだ。知らない大きな世界。そこに足を踏みいれることは……怖い!
むこうでオロは波と戯れていた。その姿に思わずシュウ=リョウは見とれた。心臓が早鐘を打つ。その感情が何かはわからない。
やがて、オロは水面下に沈んだ。「母の胎内」で眠っているのだろうか。シュウ=リョウは砂の上に寝転んだ。目を閉じても、太陽の光は瞼を通り抜けて、目の奥に届く。
■遠い記憶
どこかで声がした。
――遠い、遠い声。
リョウは柔らかな砂の上にいた。ああ、ちょっと寝入ってしまったようだ。
立ち上がると、海は凪ぎ、波は穏やか。裸足の足裏が踏みしめる白砂は、極上の砂糖のようにさらさらとくずれていく。リョウの足跡が続く。
リョウは声のほうに向かってゆっくりと歩いた。寝ている間にオロが海からあがり、きっとボクを呼んでいるんだろう。声がしだいに近くなる。
向こうにだれかが佇んでいた。白く長い衣、緋色に輝く切れ長の目、銀髪に近い髪はまっすぐで、風になびく。リョウは固唾をのんだ。
「シュウ?」
その若者は答えない。シュウよりも髪が長い。
「あなた、だれ?」
――怖い!
体が震えている。心は、閉ざされる寸前で、かろうじて片目を細く開け、様子をうかがっている。これが「コーキシン(好奇心)」か?
「わたしはおまえたちであって、おまえたちはわたしだ」
謎かけのような答えを残して、若者の姿は消えた。
ハッと目覚める。赤フンドシがシュウ=リョウの肩をゆさぶっていた。
「なあ、なあ。どうしよう。兄ちゃんがもどってこん!」
浜はもとのまま。風はゆるやかで、波は穏やか。だが、虎フンドシとオロの姿はない。
「兄ちゃんがもどってこんのじゃ! じゃが、おれは泳げん」
「オロは?」
「アイツはずっと海から出てこん」
天中にあった太陽は、少し傾いている。あれから一時間以上はたっていよう。いくらオロでも、海に一時間以上ももぐっていられるはずはない。
シュウ=リョウはじゃぶじゃぶと海に入った。シュウは「オヨギ」が得意だと言っていた。水は怖いが、シュウの身体が水との協働を覚えているはずだ。シュウ=リョウは水に潜った。
むこうに一面の花畑が広がる。あれが、いつか絵本で見た「サンゴ礁」?
かなりの遠浅だ。少し沖まで泳いでから、シュウ=リョウはふたたび海にもぐった。潜水したまま、珊瑚礁にたどり着く。シュウ=リョウの身体は水にすんなりと受けいれられた。
一面の珊瑚礁。とりどりの鮮やかな色の魚たちが躍るように見え隠れする。何度か息を継いでサンゴ礁を見ていくと、奥まったところに虎フンドシがいた。ウミヘビに捉えられている。手を出すと猛烈な痛みが襲った。それでもなんとか虎フンドシをつかんで、海面に浮かび上がる。
波打ち際まで来ると、今度は、虎フンドシがあわてた。シュウ=リョウが意識を失っている。ウミヘビの猛毒にやられたのだ。――自分を救うために。
虎フンドシは赤フンドシを呼び、二匹の小鬼は必死でシュウ=リョウを浜の白砂の上にまで引っ張っていった。
二匹の小鬼が嘆きわめく声が入り江にこだまする。その声は、中海のサンゴ礁のまんなかで眠るように体を横たえていたオロにまで届いた。オロは目覚める。すでに体の半分にウロコが生えている。
オロは起き上がった。だが、体がサンゴにからめとられている。オロは口笛をならした。ゆらゆら、ゆらゆら。水が揺れ、魚たちが逃げ惑うなかを、分厚い甲羅をもつ大きなウミガメが泳いできた。
カメは、オロを甲羅の上に乗せ、スイと浮き上がる。カメの背に身を横たえ、サンゴ礁から遠ざかるほど、うろこで覆われた尾が人間の足に変わり、ひれが手に戻っていく。
岸についたとき、すでにオロの身体は人間になっていた。オロを浜に戻すと、そのままカメは海に消えていった。
「どうした?」
オロが尋ねても、小鬼たちの答えは要領を得ない。
「うわああ、リョウぼっちゃんがウミヘビに……」
「噛まれたんだあ!」
二匹の小鬼は、オロオロと泣きながら、硬く目を閉じたシュウ=リョウの身体を前後にゆさぶっている。
「起きないよう」
「目をあけないよう」
小鬼たちが口々に訴える。オロは脇腹に残っていた最後のウロコを取り外し、シュウ=リョウのみぞおちに押しあてた。しばらくすると、土気色の顔に赤みがもどり、シュウ=リョウが目をあけた。
「目をあけた」
「助かったんだ」
小鬼たちが喝采を叫ぶなか、シュウ=リョウはオロを見た。
「キミが助けてくれたの?」
「おまえがオレを探しに来たんだろ?」と言ったきり、オロはプイと横を向いた。
来た道を戻り、櫻館の家にもどると、キュロスが真っ青な顔でシュウ=リョウに駆け寄ってきた。
「シュウさま。いったいどこへ?」
横で、風子も心配げにシュウ=リョウを見る。
「シュウ、キュロスさんがどれほど心配して探し回ったか、わかってる?」
「ごめんなさい……」
シュウ=リョウは素直に謝った。オロがとりなすように言った。
「ごめん、オレが散歩に連れて行ったんだ。シュウは悪くないよ」
すでにとっぷりと日は暮れていた。キキは塀の上で寝転んでいる。オロを見かけると、ニャーと一鳴き。塀を降りてすり寄ってきた。やせたクロネコは塀を降りず、警戒を解くどころか、スルスルと近くの木によじ登った。あの怖いクロネコだ。シュウ=リョウがクロネコを見上げると、上からしずくが落ちてきた。
――え?
オロがゲラゲラ大口をあけて笑っている。
「おい。それ、あいつのションベンだぞ」
ションベン……て、いったい何? シュウ=リョウは怪訝な顔をしたままだ。
――ちっ、わからないヤツにはなにをしたって効果はない。
キキが声を上げた。
「ニャゴ、ニョアアア」(おい、クロ。粗相をするな。わしの恩人じゃ)
びっくりしたのか、クロが木からずり落ちた。必死で爪をたてるが、ズルズルと幹を下がってくる。尻尾がむなしく左右にゆれている。
ある程度までずりおちたところで、クロはあきらめたのか、木から飛び降りた。キキに寄り添い、フニャアアと鳴く。ブクブクと太った白いネコ、やせこけた黒いネコ。その傍らにたつオロに別れを告げようとしたとき、むこうから快活な声がした。オロの目が一瞬、ポッと煌めいた。リトが戻ってきたようだ。
「あれ、みんなそろってどうしたの?」