Ⅳー5 山の薬師
■山の薬師
老女は、年齢を感じさせない足取りで軽快に歩いた。
レオンは必死で後を追った。最初のうちは、慣れずに非常に疲れたが、一時間もするとリズムがつかめてきた。老女は、レオンの足取りの変化を確かめながら、先を急いだ。
「もうすぐ雨じゃ。早めに小屋に戻らねばの」
「はい」
小屋に着いたとたん、雨が本降りになった。
老女はかまどの火を起した。殺風景な小屋だった。あちこちに干した薬草がぶら下がっていた。さまざまな材料がそれぞれ別の籠にきちんと分けられていた。一軒家のこの家には電気はなく、老女は携帯端末も持っていない。
老女は、レオンに白湯を勧めた。
「見上げたものじゃ。あの道をわしに遅れずについてくるとはの」
「いえ……。慣れぬことゆえ、大変でした。薬師どのの足の捌き方を真似て進んだのです」
老女はふふんと笑ったように見えたが、瞬時にきつい目に変わった。
「こたびは、なぜここに来た? ルナ大祭典の協力などという名目はいらんぞ」
レオンは老女を見つめた。いつかこの目を見たことがあるような気がする。
「お見通しでしたか……。じつは、わたしは、あなたさまの孫娘という方について教えていただきたいのです。そして、あなたさまがお仕えになったというカトマール皇宮のことについても教えていただけたらと思っております」
「なぜじゃ?」
「先日、ある古書を手にいたしました。ファウン皇帝とそのご夫君の肖像画が添えられておりました。わたしの知っている少女が皇帝のご夫君によく似ているのです」
「ふむ……」
「その少女の父親は、アオミ医師です」
「なに?」
老女は、レオンから目を離し、じっと考え込んだ。しばらくして老女は目をあげた。
「おまえさんの問いに答えてもよいが、条件がある」
「はい」
「わしの問いにおまえさんも答えるか?」
レオンは頷いた。
「できるかぎりお答えします」
老女は少し笑ったようだった。
「なかなか慎重じゃの。まあ良い。たしかに、わしは孫娘をアオミ医師に預けた。じゃが、その後のことは何も知らん。連絡も来ておらん。おまえさんはどこまで知っておるんじゃ?」
「アオミ医師の妻となった方は、女の子を産んで一年後に亡くなったそうです」
「……そうか。して、アオミ医師やその娘とやらとは、どうやって知り合った?」
「アオミ医師のお嬢さんは、ルナ大祭典の最も重要な企画であるルナ・ミュージカルに主演する少女の同級生です」
「ほう……」
「その子はどうも特別な力を持つようなのです。書物でいろいろ調べたのですが、それは香華族の力ではないかと思います」
老女が驚いて、目をひらいた。
「香華族の力じゃと?」
「はい。薬師どのもまた香華族とお見受けいたします。香華族の異能は、クーデターのときに根絶やしになりました。薬師どのは、香華族の力を残す数少ないお方……。それゆえお伺いするのです」
慎重に言葉を選びながら、老女がレオンに問いかけた。
「ふむ……。して、どのような力じゃ?」
「雨を呼ぶ力です」
「雨を呼ぶ?」
「はい。雨を降らせ、雨を止める力です。それは香華族の力なのではないでしょうか?」
老女は思案をめぐらせたようであったが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「そうじゃ。香華族の力じゃ。じゃが、雨を呼ぶのは、相当高度な異能ぞ。香華族ならだれでも可能というものではない」
「はい、古書にもそう書かれておりました。それゆえ、薬師どのに教えていただきたいのです。その子と香華族との関係がわたしにはどうしてもわかりません」
「その子の母がわしの孫娘かどうかを知りたいということか?」
「そうです」
「……おまえさんに聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「ラウ財団の筆頭秘書レオンどのは十八歳までの記憶をもっておらんと聞いたが、まことか?」
「はい、その通りです。ラウ伯爵のもとに向かう途中で母とともに事故にあい、母は亡くなり、わたしは記憶を失いました」
「ラウ伯爵とはどこでどうやって出会った?」
「アカデメイアの九鬼彪吾教授の館の前です。わたしは母を助けるために人を呼ぼうと森からさまよい出たらしいのですが、精魂尽き果て、わたしたち母子を探しに来たラウ伯爵に救われたそうです」
「九鬼彪吾……有名な音楽家だな。村の若者が流しておった音楽を聴いたことがある。その者とは今も縁があるのか?」
「はい。こたびもルナ大祭典のルナ・ミュージカルの総監督をお願いしております」
「ふむ……」
老女はふたたび沈黙した。レオンはじっと待った。
「紛争に巻き込まれるのを避けるために、わしが孫娘をアオミ医師に預けたのは事実じゃ。孫娘は体が弱かった。出産に耐え切れなかったとみえるの……」
レオンは微妙な違和感を覚えた。
――この老女は孫娘のことをなぜそれほど冷ややかに語るのだろう。しかも、曾孫の存在に驚いていない……。
「不思議か? わしがあまり驚かぬゆえ」
「いえ……。はい……」
「ある程度予想しておったからの。孫娘は、自分の命と引き換えに子を守ったのじゃろう。その子に香華族の力が伝わった可能性はあるな」
レオンは納得した。
あの動乱の中で、この老女は少なくとも母子いずれかの命が助かる道を探したのだろう。
――だが、妙だ……恭介に託された時点で、その娘はすでに身ごもっていたというのか?
「さて、カトマール皇宮のことじゃが……わしはほとんど何も知らん。皇宮に仕えたとはいえ、下っ端での。あまり力になれずにすまんの」
「いえ……。ありがとうございました」
「して、なぜ、今頃、〈忘れられた村〉を訪れ、その伝統を世に伝えようとする?」
「クーデターによって貶められたカトマール文化を再評価し、香華族の名誉を復活するためです」
「香華族の名誉?」
「はい。ルナ大祭典は、ルナに起源をもついくつかの文化の絆を強める祭典です。ある女性が特に強くそれを望んでおられ、われわれラウ財団も協力している次第です」
「女性とな?」
「はい。カトマール副大統領夫人のアユどのです」
「……アユ? 知らんのう」
「ええ。これまで表には出て来られませんでしたので、ご存知ないのも無理からぬこと。カトマール政権交代に尽力なさった方で、カトマール文化復興にずいぶん長く尽くしてこられた方です」
「ふうむ……何歳ぐらいじゃ?」
「ラウ伯爵やシャオ副大統領とほぼ同じ、四十歳代前半と伺っております」
「……おまえさんより十歳ほど年上なんじゃな? して、おまえさんはその女人に会ったことがあるのか?」
「はい。先日、はじめてお目にかかりました。非常に美しい方でした」
老女はふたたび沈黙した。長い沈黙だった。
やっと口を開いた老女はこう言った。
「わかった。その大祭典とやらにわしも協力しよう。ただし、一つ条件がある。その女人に会わせてくれんか?」
■皇宮の栄華
――どれほど長くここに来なかっただろう。
人づてに聞いて覚悟はしていたが、あの華やかで美しかった皇宮は見る影もない。外観はそれなりの威風をなお残していたが、内部は多くがはぎとられ、壊され、悲惨なありさまであった。
「山の薬師」たる老女は、レオンに伴われて、カトマール旧皇宮を訪れた。軍事政権時代に大統領府として使われたが、軍事政権は敗退時に宮殿の金目のものをことごとくかっさらっていった。新政権は皇宮を使わず、敷地は封鎖されたまま、現在に至る。
だが、なぜか、アユはこの皇宮に薬師を招いた。ごく一部だけ、往時の面影を残すように改装されていた。
老女とレオンを出迎えたのはパドアであった。レオンは驚いた。パドアのことは知っている。ともにラウ伯爵に仕える身だ。
ラウ伯爵の乳母を務めたパドアは、カトマール内戦時に、伯爵家を去った。万が一にも、伯爵に累が及んではならないと考えたためだろう。安定が戻ったあと、時々、伯爵家を訪れることはあるが、本拠地は祖国カトマールに移したと聞いている。
――そのパドアが、なぜ、アユ夫人とともにいるのだろう?
パドアにしたがって入った部屋では、美しい女性が待っていた。
「ようこそお越しなされました。遠路お疲れでございましょう。宿にはあとでご案内いたします」
そう挨拶した美貌の女性に、薬師の目はくぎ付けになった。
――香りがする!
予想はやはり当たったようだ。
「シャオ・レンの妻アユと申します」
薬師はすぐに表情を整えた。この女人はアユとして生きている。それに合わさねばなるまい。
「わしは名も捨てたしがない薬師。お偉い方にこうしてお目にかかれるとは光栄にございまする」
レオンはすぐに辞そうとしたが、アユに引き留められ、薬師とともに着座をすすめられた。パドアが茶を運んできた。人払いがされているようだった。アユが優雅な微笑みをたたえながら、言った。
「薬師どののことはこのパドアがよく存じあげております」
パドアが薬師に挨拶した。
「パドアと申します。わたしは香華族。一族は皇宮に仕えておりました。わたしが幼いころ、あなたさまをお見掛けしたことがございます。どうぞこちらをご確認くださいませ」
パドアは一冊の本と仮綴じの記録簿を差し出した。
薬師の表情が変わった。
レオンも本のほうは知っていた。すでに古書店で入手済みだ。ファウン皇帝に仕えた稀代の薬師が著した書物と伝わる。だが、もう一つのものは初めて見る。
薬師は震える手で、記録簿を取り上げ、めくり始めた。多くの精緻な図が描かれ、達筆のメモが施されている。
「なぜ、これが……?」
「内戦の直前に、わたしの姉が送ってきたものでございます。香華族の知恵と知識の宝庫ゆえ、くれぐれも大切に扱え、と命じられました。わたしはミン国におりましたゆえ、処刑を免れましたが、姉をはじめ、一族はことごとく処刑されました」
アユが尋ねた。
「あなたは、このご本とそちらの記録簿を作成なさった薬師セイどのではありませぬか?」
レオンは驚いた。
稀代の薬師は、ファウン皇帝の最側近たる女官長を兼任していたはずだ。
薬師は震えながら頷いた。
「いかにも、そうでござる……。まさか、この記録が世に残されておったとは、思いもしませんでした」
アユは麗しく優雅に微笑んだ。
「よろしゅうございました。わたしどもは、あなたのご本と記録簿を新しく作るルナ博物館の宝として保存・展示したいと考えております。そして、もし可能であれば、この記録簿もまた印刷して世に出したいのですが、いかがでしょうか? 医薬に秀でる香華族の宝として、後世の人びとにも役立つと考えます」
セイはアユを見た。じっと見た。深いしわが刻まれた顔に、安堵のような笑みが広がった。
「お願いいたしまする。わしが若い時から書き溜めた記録でござる。お役に立てれば本望でござりまする」
セイはパドアに目を移した。
「では、あなたさまはアリア皇帝にお仕えになられた女官長の妹御か?」
「さようです。わたしは、ミン国でラウ伯爵家に乳母として仕えたあと、たまたまこちらのアユさまと知り合い、アユさまの事業をお助けするようになりました。もとより、ラウ伯爵家のレオンどののこともよく存じ上げております」
レオンに向けられたパドアのまなざしはやさしかった。
「さようでござったか。縁とは奇なものでござるの。香華族は滅んだとされておるが、こうして生き残り、歴史と文化をつなごうとする者がおられる……。亡きファウン皇帝もさぞ喜んでおられるじゃろう」
「じつは、セイどのをお招きしたのは、折り入ってご相談があるゆえでございます」
アユがそう言うと、レオンが立ち上がった。
「では、わたしはこれにて失礼いたします。お三方のお話には心を打たれました。わたしにできることがあれば、何なりとお申し出ください」
レオンは静かにドアを開け、去っていった。その後姿をアユがじっと見守った。




