Ⅳー4 忘れられた村
■古書店
カトマールの首都ルキア。
レオンがここに来ると必ず訪ねる古書店がある。もう二百年以上も続いている老舗だ。店主は五代目――八十歳くらいの老人が店を守っている。
「こんにちは」
レオンが店に入ると、普段は無愛想な店主もほんの少し顔をほころばせる。レオンは安い本を目当てに来るのではない。価値がある本を選び、ふさわしい対価を支払い、大切に保管する。
店主は、こうした古書の目利きが大好きだった。
店主は奥に入り、包んだ書籍をレオンの前に広げた。
「あんたが欲しがっておった本を見つけたぞ」
「それは、それは、ありがとうございます!」
レオンは目を輝かせて、古書を手に取った。革張りの本だ。
カトマールでは、三十年前に帝国が崩壊した。新たに成立した軍事政権は、反政府運動を「クーデター」とみなして徹底的に弾圧した。これがカトマール内戦だ。カトマール帝国大学附属図書館は焼き討ちにあった。総長をはじめ、多くの有力教授が軍事政権に反対していたことに政府が報復したのである。
何百年もかけて収集されてきた図書の多くが灰になり、焼け残った図書も散逸した。その中には、聖帝と呼ばれたファウン皇帝が大学に寄贈した蔵書も含まれた。
レオンは、そのファウン皇帝の蔵書を集めている。古今東西の名著の初版本が含まれるだけでなく、各地の神話や伝説もまた収められていたからである。
「ルナ神話の異本じゃ。世界に数点しか残っておらん写本じゃが、これはいちばん完成度が高い」
古書店の主人の言葉に、レオンはうれしそうに頷いた。
この写本は、今から二千五百年ほど前、古代ウル大帝国時代に作られたものだ。当時の皇帝は、ルナ神話を編纂するために、各地の神話を収集させ、記録させた。
『ルナの書』としてまとめられたのは、そのうちの一部である。
この異本は、『ルナの書』に収録されなかった雑多な神話を未整理のまま記録した奇書とされる。価値がないとして排除された神話の断片や矛盾だらけの記述に満ちた奇書ゆえに、まともな書物とみなされず、どの博物館や図書館にも収蔵されていない。
「あんたはホントに変わっておるのう。学者ならいざ知らず、趣味でこれほど珍奇な書物を集める者はそうおらんぞ」
レオンは微笑んだ。彪吾以外の誰にもほとんど見せることがない微笑みだ。
「わしのじいさんがよう言うておった。ファウン皇帝もうちから本を買うことが多かったが、その夫君もまた本の虫であったそうじゃ。貧しい農民の出でのう。行商の母親がうちに寄っては本を買い、次には買った本を売ってまた別の本を買っておったという。高いもんは買えん。店先にひとまとめにしておる本から母親が息子のために選んでおったという。そのうちに、じいさんは安くていい本を取り分けるようになった。売った本をすべて記録して、本が重ならないように気を配ったそうじゃ」
ファウン皇帝とその夫君の恋物語は、カトマールではかつてよく知られたという。
今では都市部でそれを知っている者はほとんどいない。だが、農村部ではいまなお、お伽噺のように語り継がれていた。レオンもある村で聞いたことがある。
「おお、そうじゃ。たしか、お二人の肖像画が入った本があったぞ」
クーデターの時、皇帝家のものはことごとく破壊され、肖像画もほとんど残っていない。
「ほれ、これじゃ。たまたま残った一点じゃ。ほかのものは香華族処刑のさいにすべて焼き払われたらしいがの」
皇帝の夫君シュンが書いた書物であった。彼は、もともと無学であったが、読書を通じて高度な知識を身につけ、皇太女であったファウンの支援で大学にも通い、趣味で神話学と哲学の研究をしていたという。レオンもその本を持っており、読んだことがある。
趣味の域をはるかに超えており、古代神謡研究の権威朱鷺要は、自分の理論構築の重要な根拠としてしばしば引用していた。しかし、肖像画付きの本があるとは知らなかった。出版時にごく一部の高位貴族に贈呈された限定本という。レオンはその書物も買い求め、ホテルに戻った。
ホテルでじっくりと皇帝夫妻の肖像画に見入った。二十代半ばだろう。美しく知的な夫婦だった。
しだいにレオンの手が震え始めた。
――なぜだ? 似ている……。
自分がこの皇帝に面差しが似ており、孫かもしれぬとは、〈銀麗月〉カイから言われて知っていた。だが、月の神に扮した時のリクの姿が、皇帝の夫君に似ている……。
――なぜだ?
単なるそら似かもしれない。だが、調べねば――。ファウン皇帝の夫君とリクの母親のことを。
レオンの胸が大きくざわついた。だが、まずやるべき仕事を優先せねばならない。ルナ神話の異本に書き留められた神話の多様な姿を調べることだ。レオンはページを繰り始めた。
■忘れられた村
レオンは、〈はぐれ香華〉の村、通称〈忘れられた村〉に向かった。
ク・ヘジンとの約束を果たし、ルナ大祭典への協力を取り付けるためである。
八年前、レオンがカトマール全土を回り、「レオン・マップ」を作った折、この地域には足を踏み入れることができなかった。内戦時に煽られた部族間紛争の余波が残り、非常に危険だったからである。
「ラウ伯爵の遠縁の青年」など、格好の餌食だ。のこのこ出かけていけば、人質にされて、ラウ財団にどれほど大きな迷惑がかかるかもしれなかった。
だが、今は治安がほぼ確立した。レオンは村長に面会する手はずを整えた。
鄙びた小さな村だった。
経済発展から取り残されたようなエアスポットだ。
だが、電気は通っており、固定電話はないが、携帯電話の普及率は都市部に劣らない。カトマール新政府は国策として各地にアンテナを立て、安い携帯端末を頒布し、低料金で利用できるよう支援した。
国内外のネット情報にすぐにアクセス可能で、家族同士が交流し、仕事や教育の情報を得ることができる。
物資の流通網からは取り残されており、村の生活は簡素で、自然の流れに沿ったリズムで回っている。
だが、「貧困」というのとは少し違う。ほとんどの物資を自給自足で賄う共同生活が残されていた。
豊かな者もいないが、飢える者もいない。
レオンにも、畑でとれたばかりの野菜や果物がふるまわれた。
形はいびつだが、野菜本来の強い香りと甘みがある。流通が発達する前は、みなこうした旬の野菜を口にしていたはずだ。だが、いまでは季節感がなくなり、日持ちがするように未熟な状態で出荷されるため、形ばかりが美しい。
村長は、レオンの申し出を受け入れた。ルナ大祭典のとき、この村からも伝統の織物と貴重な生薬を出品するという。
織物は地元の生糸を使った紬で、子どもが七つになったときに成人用の反物を家族が織り上げ、成人の通過儀礼で晴れ着として生涯着用したあと、埋葬時の遺体に着せてともに墓に埋めるという。生糸の産出が少ないため、織物は商品としては流通せず、かつては十年に一度、皇宮に献上されたとか。いま、ルナ大祭典のために生糸を紡いでおり、これから一年近くかけて新しい献上品を織り上げるという。
村長は、自身の晴れ着をレオンに披露した。華やかな朱色の生地に金銀の糸が織り込まれている。
各家の紋章を背中部分に織り込むのが習わしになっており、村長の家の紋章は鷹と椿の意匠を盛り込んだものであった。
ク・ヘジンの手に渡った織物は、最後の献上品だろうと村長は言った。内戦が始まる数年前に献上されたものらしい。ただ、当時の織り手はもはや亡く、織り柄も残されていないため、それ以上はわからないとのことであった。
村長は、保管してあった生薬を見せながら、レオンに話してくれた。
「これらの生薬は、山に自生するものを原料にしておりましての。じゃが、わしらだけで集めたものではない。この谷のもう一つ向こうの谷に、一人の薬師が住んでおりましての。その老女がさまざまな薬をもたらしてくれますのじゃ。わしらは「山の薬師どの」と呼んでおりまする。普段の交流はないものの、薬師どの薬で多くの村人が助かっておりましての。村をあげて感謝しておりまする」
「どのような方なのですか?」
「かつて皇宮にも仕えたという噂もあるが、はっきりしたことはわかりませぬ。その老女がいつ谷に住み着いたのかもわからぬほどでしてな」
「かつて皇宮に?」
「わしらの親の世代の者の中に、彼女を皇宮で見かけたという者がおりましてな。じゃが、本人はなにも言いませぬ。〈はぐれ香華〉ではなく、香華本流、いわゆる〈本香華〉なのかもしれませんが、それがわかると以前は命がありませんでしたからな。ただ、彼女が谷に来たのは内戦よりずいぶん前のはず。――わしがはじめて薬師どのことを聞いたのはかれこれ四十年以上も前になりまするの」
四十年ほど前と言えば、ファウン皇帝からアリア皇帝に代替わりした頃だ。レオンは村長に尋ねた。
「わたしがそのお方にお会いすることは可能でしょうか?」
「そうですのう。薬師どのがこちらの谷に来るのは月に一度ほど。まもなく来る時期にはなりまするが、確約はできませんのう」
レオンは待つことにした。
宵のふるまいの席で、村長に仕える若者が、椀に汁物をよそおってくれる。
少々、酒が入った村長は、いろいろなことを話してくれた。
「軍事政権の時代、このあたりは部族間の紛争があちこちで起こりましてな。国はそれを抑える力は持たず、むしろ煽っているありさまでしての。その頃から、この近くに「国境なき医師団」が逗留してくれるようになったのですじゃ。紛争の余波で、けがをする者があとをたたず、わしらは本当に助かりました。多少の病気やけがは薬師どのの生薬で治せますが、手術が必要となれば、わしらでは太刀打ちできませんからの」
村長は、傍らの若者を見た。
「この者も、幼い頃、砲弾で頭に大けがをしましてな。医師団の医者が手術をしてくれなかったら、命はありませんでした。その後、内戦がますます激しくなって、医師団にも被害が出るようになり、医師団は撤退しましての……。この者を救ってくれた医師は、日本人の優秀な外科医だと聞きました」
レオンは記憶をたどった。碧海恭介は、若い頃、「国境なき医師団」に属し、この付近に滞在したはずだ。
優秀な外科医――それは、恭介ではないか?
「その医師について、ほかにご存知のことはありませんか? わたしの知り合いにも医師がいて、かつて医師団で働いていたと聞いたものですから」
「そうでしたか? おい、おまえ、そのお医者さまの名を覚えておるか?」
隣の青年が頷いた。
「もちろんです。忘れるはずありません。アオミ先生です。脳外科医の世界的権威だって、看護師さんが言ってました」
まちがいない! 恭介だ。
「その方のことを覚えていますか?」
「はい。オレが診てもらったのは三カ月くらいです。その後、医師団は撤退しました。アオミ先生は、山の薬師どのにオレのことをくれぐれも頼むと言い残してくれたみたいです。おばあさんはよくオレに薬を届けてくれました。アオミ先生は、おばあさんの孫娘を連れてここを去っていったみたいです。内戦と部族紛争が厳しくて危険だから、孫娘を安全なところに逃がしてほしいとおばあさんがアオミ先生に頼んだそうです」
村長が驚いた。
「薬師どのに身内がいたのか……。初耳だの」
「村の人に迷惑がかかったらいけないって、おばあさんは孫娘を隠してたみたいです。あの頃はもう香華族の残党狩りは終わってたみたいだけど、おばあさんは気にしてたようで……」
薬を扱う香華族の老女の孫娘……。
恭介が引き取ったというその娘が、恭介の妻になった可能性は高い。
■山の薬師
翌早朝、白髪の老女が籠を背に追い、村に姿を現した。
いつものように、干した薬草を村長に渡し、引き換えに穀物や野菜をもらって籠に入れた。村の中では物々交換が普通なのだという。
老女がふと部屋の片隅に座る青年に目を留め、息を呑んだ。
老女と目があったレオンは会釈した。
「こちらは、ラウ財団のレオンどのじゃ」
村長の紹介に、老女はぶっきらぼうに返した。
「話には聞いたことがある。なにゆえここに来なさった?」
「ルナ大祭典に村のみなさまにもご協力をいただくためです」
レオンはしずかに答えた。
「すばらしい生薬をおつくりと伺いました。ぜひ、ご協力いただけないでしょうか?」
老女はジロジロとレオンを見た。
「ふむ。わしについてくるか? ついてくるなら、話もしようぞ」
「はい。まいります」
村長は心配そうに見送った。谷から谷へは急峻な崖道を通らねばならない。村人ですら、危険すぎて通らない道だ。
洗練された都会風の青年が、山を越えることが果たしてできるだろうか?




