Ⅳー2 青薔薇の館
■〈青薔薇の館〉
レオンからク・ヘジンの申し出を聞いたラウ伯爵は、うーむと唸って黙り込んだ。
〈青薔薇の館〉を手放すなどありえない。あの館は、ただ一人愛した女性アメリアの館――自分の青春そのものだ。その事情を知っているからこそ、ヘジンはラウの求めに応じて、〈青薔薇の館〉を譲ってくれた。館の二人の使用人の雇用を維持することを含め、ラウは館をとても大切にしてきた。そのこともク・ヘジンは百も承知のはず。
――なのに、その館を譲れと? 申し出た相手にじかに会えとまで言うとは……。
〈青薔薇の館〉の所有者がラウ伯爵であることは秘密にされている。美しい館をほしいと望む者に館をあきらめさせるためだ。かつての所有者であるク・ヘジンに仲介役を願う者がいても、ヘジンはすでに別の者に譲ったからとすげなく断るのが常だった。
ところが今度ばかりは様子が違う。相手の情報をヘジンがまったく教えずに会ってほしいというのは、ヘジンの性格からして普通はありえない。これまで、ヘジンとラウは幾度となく協力しあってきた。いまさらラウの信頼を裏切るようなことはすまい。
――とすれば、いったい誰だ?
■紫の貴婦人
数日後、ク・ヘジンはクイーンヒルの離れに当たる貴賓館にラウ伯爵を招いた。伯爵はレオンを伴った。
直接、ヘジンが出迎えた。使用人は全員、貴賓館から遠ざけられていた。ヘジンの案内で応接室に通されたラウは、ソファに腰掛けて、ゆっくりと室内を見回した。絵画も壺も家具もすべてがラウの高い審美眼に適っている。ヘジンが席を立ち、別室から一人の女性を案内してきた。
レオンは目を瞠った。あまりにも優雅で美しい女性だった。
思わず、ラウが立ち上がった。
「ア……アメリア……!」
深い葡萄色のパンツスーツに身を包んだ女性がにこやかに微笑んだ。つややかな長い黒髪と襟元を飾る二重のパールが上品さを引き立てる。
「ラウ。お元気そうで何より」
長いまつげに彩られた黒い大きな瞳が輝いた。
「き……きみこそ。いったいどこにいたんだ? どれほどキミを探したことか!」
「そうでしょうね」
アメリアは、ラウの横に立つ青年に目をやった。
「こちらは?」
「ああ、わたしの筆頭秘書だ」
「レオンと申します」
レオンは静かな声で挨拶した。女性は花ひらくような笑みを浮かべて、握手を求め、透き通るような声で応じた。
「アメリアよ。わたしのことは伯爵から聞いておられるかしら?」
どこかで聞いたことのあるなつかしい声だ。レオンは思わず胸を震わせながらも表情には出さず、感情を押し殺した声で「はい」とだけ答えた。
ラウは興奮を隠さない。
「キミだったのか? 〈青薔薇の館〉を譲り受けたいというのは?」
「そうなの」
レオンがラウ伯爵に出会って十五年近い。しかし、このように感情を爆発させているラウを見たのは初めてだった。ラウの目にはすでにレオンもヘジンも映っていない。
「伯爵、わたしは別室に待機しております」
レオンは、二人にお辞儀して部屋を辞した。ヘジンもまた同様に部屋を去った。
ラウとアメリアは二人で向かい合った。ラウはアメリアの手を取り、アメリアを抱きしめた。
「こうしてふたたびキミに会えるなんて……夢のようだ」
「二十年になるかしら?」
「そうだよ。もう二十年になる」
「これまでのことは、まだあまり言えないの。これからのこともすべて言えるわけではない」
「うん、わかっている。だから聞かない。でも、〈青薔薇の館〉を手に入れるということは、キミがここに戻ってくるということなんだね?」
「半分はそう。でも、ずっとこちらで暮らすわけではない。ただ、こちらにも拠点が必要になったの。〈青薔薇の館〉はそのためにはうってつけの屋敷。どうかしら? 譲ってくれる?」
「もちろんだ。あの館はキミを迎えるために守ってきた館だ。わたしが断るはずがないだろう。そうか、だから、会頭はじかに会えと言ったのだな」
「ええ。わたしがそう頼んだの」
ラウはたまらず、ふたたびアメリアを抱きしめようとした。アメリアが手を上げてそれを制した。
「ハグ以上はダメよ」
「なぜ?」
「ある人に義理があるの」
「義理? キミが義理を口にするのか?」
「おかしい?」
「そりゃ、そうさ。キミは自由だろ? 義理に縛られるはずなどない……。まさか、貞節を誓った夫なんてものがいるなどと言うのではないだろう?」
「いいえ、夫はいるの。アメリアとしてではないけれど」
ラウは美しい口元を微妙に歪めた。
「キミが夫に義理をたてるというのか?」
アメリアは艶然と微笑んだ。
「おかしい? ここを出てから二十年近くわたしだけを愛して、尽くしてくれた人だもの。その信頼に報いるのは、人として当然ではないかしら?」
「キミもソイツを愛してるってわけか?」
「信頼を愛と呼ぶならそうなるわね」
「かつてキミはわたしに言った。あなたは一人で生きていけると。……だが、わたしがどんな思いで過ごしてきたか、キミにわかるか?」
「理解はしているつもりよ。あなたは、わたしとの約束通り、〈青薔薇の館〉を守り、悲願だったルナ大祭典も進めてくれている。あなたには感謝以外ないわ」
「でも、それは愛ではないと?」
「いいえ、以前にも言ったでしょう? わたしは三人の男をそれぞれに愛したわ」
「ロアンとレンと、そしてわたしか?」
「ええ」
「ロアンは亡くなった。レンはカトマールで結婚した。わたしひとりがキミを想い続けているのに、なぜわたしではダメなんだ?」
「違うのよ」
「違う? ……違うとはどういう……?」
ふいに、ラウはこの前会った一人の男を思い出した。アメリアが好きな紫色のネクタイをしていた。
「レン……? まさか、レンの妻はキミなのか!?」
アメリアは頷いた。
「アユという名だけれどね。あなたには隠すよう、ずっとレンに頼んできたの。今日のことはレンも知っているわ。これからは、カトマール第二副大統領シャオ・レンの妻アユとしてあなたに会う。アメリアという名は忘れて」
■祖国
「カトマールだって? ……キミはカトマールのためにこの二十年間を過ごしてきたのか? レンのためか?」
ラウの頭は混乱していた。
カトマールが民主化して安定したのはこの十年のこと。アメリアは混乱の最中にあるカトマールでその前の十年間を過ごしていたというのか? レンと一緒だったとすれば、抵抗軍に与し、命の危険に晒されていたことになる。
ラウの顔から血の気が引いていく。アメリアは笑みを絶やさず、答えた。
「わたしの祖国だからよ。たまたまレンの祖国でもあっただけ。でもそれ以上は言えない」
ラウはしばらく沈黙して、じっとアメリアを見つめた。
アメリアは常に自分の意思で動く。無碍に他人を巻き込まず、相手の力と信頼に応じて協力を求める。アメリアが二十年間の沈黙を破ってわざわざラウに会いに来たことは、ラウへの絶大な信頼の裏返しだ。
「キミの祖国……カトマールのために何かわたしにして欲しいことがあるのか?」
「相変わらず察しがいいわね。ムリかしら?」
「キミはわかっているはずだ。キミの頼みをわたしが断るはずはないし、わたしが引き受けてわたしのためにならないような頼みをそもそもキミがするはずがない。だが、わたしにじかに頼む以上、相当な難題だろうな」
アメリアは優雅に微笑んだ。ラウはアメリアに手を差し伸べた。
「せめてこの手をもう一度握らせてくれないか? わたしにとってキミはいつまでもわたしのアメリアだ」
アメリアの黒く大きな瞳にラウの姿が映った。アメリアは自らラウの手を握り、語りかけた。
「あなたはいつも「わたしのアメリア」と言ってくれる。それはとてもうれしい。あなたの深い気持ちの表れだから」
アメリアはラウから手を離した。
「レンは、「キミのそばにいたい」としか言わない。他のどんな言葉も自分の胸に抑え込み、すべてにおいてわたしを最優先してくれる」
ラウの顔が歪んだ。アメリアが言葉を継いだ。
「レンは決してわたしを縛ろうとはしない。結婚もわたしを隠し、守るため。あなたに会ってわたしがレンから離れても、レンはきっと黙ってそれを受け入れるわ。……そして、あなたとの友情も壊さないでしょう」
ラウは苦悶の表情を浮かべながらも頷いた。二十年前もレンはアメリアへの思いを抑え続けた。ラウへの嫉妬も自ら押さえ込んでいた。
だが、ラウは知っている。レンは一人で泣いていた。アメリアを想って泣いていた。
ラウは声を絞り出した。
「……たしかに、レンならばきっとそうするだろうな」
アメリアはラウをやさしく見つめた。
「でも、あなたにはそれはできないでしょ? 恋に狂うのはあなたの美学に反するけれど、恋に耐えるのもあなたの美学にはありえないはず」
ラウは理解した。ラウがアメリアを愛すれば愛するほど、アメリアもそれに応じる。それは、二人がいずれも自ら定めた使命を放棄することにつながってしまう。だからラウから離れたのであり、これからもそうするとアメリアは言っているのだ。
アメリアには何か大きな宿願がある。――それはずっと前から気づいていた。彼女は人生をそれに捧げている。アカデメイアを去ったのはそのためだろう。
今、目の前にいるアメリアは、宿願実現のためのパートナーになってほしいとラウに自ら伝えにここまでやってきたに違いない。きっとそれはレンとは異なる役目であり、ラウにしかできない役目なのだろう。おそらくレンはそのことを十分察しながら、アメリアの帰りを待っているはずだ。
――ともに歩むか、引いて待つか?
ラウは「待つ者」ではない。アメリアの真意を汲んだラウは、アメリアを抱きしめて口づけた。アメリアは拒まなかった。
「恋に狂ったあと、恋に耐えてみせよう。キミとともに歩めるのなら」
別室で、ヘジンはレオンにお茶を勧めた。
「二人の話は長くなると思うわ。ゆっくりお茶でもいただきましょう」
「はい」
「アメリアのことは伯爵から聞いているのでしょう?」
「はい、伺っております。伯爵のお供をして、〈青薔薇の館〉にも何度か訪れました」
「まあ、そうだったの。アメリアは美しい女性でしょう?」
「正直申し上げて、たいそう驚きました。あれほど美しい方にお目にかかったことはありません」
「ホホホ、ラウ伯爵が彼女のことを忘れられないはずでしょ?」
レオンは頷いた。
「でもね、それだけじゃないの。アメリアは教養も品性も抜きん出ていてね。ラウ伯爵をはじめ、多くの若者が彼女を愛したわ。アメリアがたぐいまれな美女だったからじゃない。彼女には美しさ以上の価値と魅力があったからなの。わたしも彼女を人間として尊敬してるわ」
ク・ヘジンはレオンを見た。
このレオンもまた美貌と教養と品性において他の追随を許さない。優雅で華やかなアメリアとは異なるタイプの玲瓏な美貌だが、アメリアとレオンが並び立てば、どれほど見事な光景になるだろう。
孫のイ・ジェシンがこの青年に夢中になるのはムリもない。
■指令
クイーンヒルから戻ったラウ伯爵は、〈青薔薇の館〉に向かった。レオンは櫻館に戻らず、ラウに付き添った。アメリアからの依頼は、相当に重大な内容だったのだろう。
ラウは、盟友レンのことを考えていた。
アカデメイア中等部でラウとともに学んでいた子どもの頃、レンは、カトマール内戦で家族と財産のすべて失った。レンの父はカトマール帝国大学総長。母は教授で香華族だった。温厚で人望が高かった父は、反政府運動の頭目とみなされた。両親と姉が処刑された。レンは、三年間の亡命生活を経て、アカデメイアに復帰した。
シャオ・レンは聡明で快活な美少年だった。だが、家族を亡くしてからは万事、非常に慎重になり、常に一歩引いて物事を見るようになった。冷静な判断力も周到な準備をする性癖も、こうした辛酸の中で培われたのだろう。
レンはアメリアを女性として以上に、「ひと」として敬愛し、尊重してきたのだろう。アメリアの選択と決定を何よりも優先してきたに違いない。アメリアが離れていくときもレンは引き留めるまい。そして陰で泣くだろう。彼はそういう人間だ。レンに意思がないのではない。アメリアの選択は、常にレンにとっても最良の選択だと彼は考えるからだ。
カトマールに戻ってからのレンは変わった。自ら抵抗運動を組織し、そのリーダーとなって闘い、決断力と公平さで国のトップに近づいている。アメリアの影響が大きいのだろう。
月が昇るころ、ラウはレオンを自室に呼んだ。
「昼に会った女性はカトマール第二副大統領夫人アユどのだ。これからもよく会うことになろう。アメリアという名は忘れなさい」
「承知いたしました」
「夫人からの依頼だ。香華族の名誉回復に力を貸して欲しいという」
「香華族ですか? カトマールの皇族貴族に多いという一族のことですね?」
「香華族の名誉回復は、皇室の名誉回復でもあり、カトマール文化の再興にもつながる。しかし、夫人はこの名誉回復に政治性を持たせたくないと考えている。特定部族や皇帝権を賛美する必要はない。だが、歴史上ふさわしい名誉は回復すべきだろう。夫人はルナ大祭典とそれに続く一連の文化行事で歴史の回復をして、忘れられた人びとの記憶を蘇らせたいようだ。カトマール政府に任せると政治性が強まり、国民の反発を招く。反対勢力を煽ることにもなりかねない。ラウ財団などの国際的文化財団に進めて欲しいというのが、今回の相談内容だった」
「香華族の名誉回復は、天明会との全面衝突を招く恐れがあるということですね?」
「そうだ。夫人はそれを最も心配している。天明会はわたしたちの想像以上の力をもち、世界中にネットワークを拡大しているらしい。とくに最近では、SNSやAIなどを使って人の無意識に入り込み、人心操作まで行っていると彼女は言っていた」
「伯爵、わたしの意見を申し上げてよろしいですか?」
「何だ?」
「わたしが口をはさむべき問題ではないかもしれませんが、天明会の問題はどうやら天月にも関わるようです。シャンラにも舎村にも関わるでしょう。ラウ財団だけでは太刀打ちできないと存じます」
「ならば、どうすべきか?」
「天明会の実態はわからないのですが、いま得られている情報から判断する限り、天明会は非常に危険な集団と言うべきでしょう。ですので、天明会に対抗する連合組織を作らねばなりません。おそらく、夫人はそれを伯爵に期待しておられるのではないでしょうか?」
ラウはレオンを見て、頷いた。
「天月のカイ修士によれば、天明会はもとは天月一門の分派として成立したそうです。香華族に対抗するような形でカトマールで発展して、帝国崩壊を陰で主導した可能性もあります」
「そうだな」
「香華族が拠って立つ帝国はもはや存在しません。帝国が復活することもないでしょう。けれども香華族が、個人として生きる権利を奪われるべきではありません。香華族の名誉回復は、失われた命を悼み、生き残った命を迫害や偏見から守ることに本質があるのだろうと思います。天明会が香華族に対して行った蛮行は、やがて他の人々にも及ぶでしょう。香華族の冤罪を晴らすことは、天明会の野望を世間に晒すことになります。夫人は天明会の野望を阻みたいとお考えなのではないでしょうか?」




