Ⅳー1 〈はぐれ香華〉
■提案
足下で可憐な秋草が揺れる。
世界的な財閥のラウ財団で、総帥ラウ伯爵の筆頭秘書をつとめるレオンは、伯爵の使者として、クイーンヒルの女主人を訪ねた。アカデメイアの不動産女王として著名なク・ヘジンだ。そろそろ八十歳に手が届くはずだが、ヘジンは若々しく、背筋はピンと伸び、声にも張りがあった。
「会頭、お久しぶりでございます」
レオンは丁寧にお辞儀した。広大な敷地にあるク・ヘジンの邸宅は、自然景観を活かした庭に囲まれている。館はさほど大きくはないが、趣味のよい絵画が壁を飾り、じつに居心地がよい。花木のかぐわしい匂いが、庭を渡ってかすかな風に運ばれてくる。
「ホントねえ。ルナ大祭典のことは聞いていますよ。九鬼彪吾だけじゃなく、新たに游空人まで加わるとか。期待が高まるばかりねえ。ラウ伯爵もずいぶんお喜びでしょう」
「はい。この大祭典にかける伯爵の意気込みは相当のものですので、たいへん喜んでおられます」
「ホホホ。すべてあなたのおかげでしょう。伯爵もそれを十分ご承知のようで、あちこちであなたの手腕を自慢しておられますよ」
「恐縮です」
「あ、そうそう。なにやら、うちの孫が櫻館に押しかけて、あなたにご迷惑をかけているとか。すみませんねえ、あの子を甘やかしたばっかりに……わたしの責任です」
ク・ヘジンの孫――「無能弁護士」と陰口をたたかれるイ・ジェシンだ。むろん、本人はまったく意に介さない。開き直り方が半端じゃない。最近、週末ごとに櫻館に押しかけては、キュロスに追い返されている。昔ながらに、懲りない人物だ。
「いえ、どうぞお気になさらず。彼とは大学の同期ですので」
「ホホホ。そうでしたよね。あの子は昔からあなたのことばかり話題にしていましたよ」
「……」
不快感を出すわけにもいかず、めずらしく返答に窮したレオンの表情を楽しむかのように、ク・ヘジンは明るく話題を変えた。
「では、本題に入りましょうか?」
「ラウ伯爵からお申し出があったカトマールの土地の件ですが、伯爵にお譲りしましょう。ただし一つ条件があります」
「ありがとうございます。どうぞ条件をおっしゃってください」
「あの土地に含まれる山と谷に古くから住む特別な民を保護していただきたいのです」
「特別な民とは?」
「香華族の本流たる〈本香華〉ではなく、〈はぐれ香華〉と呼ばれる民です」
「〈はぐれ香華〉……ですか?」
レオンですらはじめて耳にする言葉だった。
「〈本香華〉のことはご存知ですよね。皇帝家や高位貴族と縁組を結び、カトマールでは大きな力をもってきました。類まれな異能者もおり、そうした異能や政治的影響力が恐れられて、内戦時にほぼすべての〈本香華〉が処刑されてしまいました」
老女はフッと厳しい目つきに変わった。ク・ヘジンは、カトマール内戦時に親を失った子どもたちを積極的に保護した一人だ。カトマール第二副大統領シャオ・レンもそうした子どもの一人だった。
「「歴史の汚点」とされるジェノサイドですね。あまりに悲惨な事件なので、カトマールでもあまり口にされません」と、レオンがヘジンの意図を汲むように言うと、ク・ヘジンはふたたび穏やかな表情に戻った。だが、声は明瞭でブレがない。彼女の強い意思が読み取れるようだ。
「〈はぐれ香華〉は、皇族貴族との通婚関係がなかったために香華族とはみなされず、無権利の民として捨て置かれた民です」
「あの土地にそのような人々がいたとは存じませんでした」
カトマール共和国では、十年前に軍事政権を倒して新政権が成立した。その後、レオンはカトマール全土をめぐり、人口構成や生業を調べた。「レオン・マップ」とよばれる報告書だ。今日の経済開発の基礎データになっている。だが、当時、あの地区には入ることができなかった。あまりに危険だったからだ。
「ご存知なくてあたりまえなのですよ。〈はぐれ香華〉の住む村は、〈忘れられた村〉……彼らの存在は公にはされず、移動することも土地をもつことも禁じられた民です」
ク・ヘジンはレオンの目を見据えるように言葉を継いだ。
「結果的には、離散が防がれ、独自の優れた織物術がいまも残されることになりました。わたしが彼らのことを知ったのも、織物が理由なのです。ご覧ください。こちらです」
広げられたのは、鮮やかな色合いのややコシの強い絹地だった。繊細な模様が織り込まれた見事な反物だ。
「これは見事な……」
レオンは言葉を失った。織技術の素晴らしさだけではない。そこに織り込まれた文様は、ルナ神殿文様に似ている。
「村人は、皇帝家に織物を奉納し続けたようです。その一つが流出して、わたしの手元に入りました。これを見て、わたしはこの織物を生み出す人々を守ろうと決意したのです」
怪訝そうなレオンからいったん目を外し、ヘジンは懐かしげに窓から遠く続く木立を見つめた。
「わたしの母も、同じような模様の端切れを持っていました……」
ク・へジンは、大陸から飛び出た半島にあるミン国の貧民出身。幼い時に父を亡くし、苦労したと聞く。
「わたしの父は旅芸人一座の頭でしてね。あちこちの村祭りに出かけては音曲や舞を見せて暮らしを立てておりました。若い頃、父は一人の女の子を拾ったそうです。親を失ったその子は、小さな布きれを握りしめていたとか。その子がわたしの母です。母は父に鍛えられ、一座の花形になりました。でも、改革の嵐の中で祭祀や芸能を行う集団はすべて切り捨てられ、父を失った一座では、みんな路頭に迷いました。幸運にも、一座もろともミン国の貴族夫人に助けられて生き延びることができたのですけれど、多くの人たちが飢えや病気で死んでいきました……」
「そうだったのですか。……存じ上げず、失礼いたしました」
「いえ、いいんですよ。もう七十年以上も前のことですもの。いまやミン国では、神殿に奉納する集団はいなくなってしまいました。わたしは特定の信仰を持っているわけではないけれど、神事が消えていくのは寂しいと思うのですよ。伝統的な神事は、自然への畏敬から生まれたもの。人間も自然の一部であるにもかかわらず、自然を支配できると思い上がった人間はいつか自然を失い、滅びていくのではないかしら。人間には理解しがたいことがあって当たり前。神話や伝説の中に散りばめられている不思議な力や出来事は、自然が人間に与えてくれた贈り物だという気がします」
会頭は淡々と語り続けた。
「あの土地一帯はもともとカトマール皇帝家直轄の神域。ルナ大神殿が発掘された神域と同格だったそうです。ひょっとしたら、〈はぐれ香華〉は、神域の守り手として置かれたのかもしれませんねえ。でも、そんな噂が広がれば、〈はぐれ香華〉も抹殺されたでしょうけれど……」
ク・ヘジンの言う通りだった。軍事政権は、カトマール皇室に関わりを持つ人々をことごとく処刑した。〈忘れられた村〉であったがゆえに、村人はかろうじて命拾いをしたと言える。
「内戦に勝った軍事政府が皇帝家の財産をすべて奪ったことはご存知でしょ? 開発独裁国家となった政府は、それを国民に分け与えるのではなく、外貨ほしさに多くを外国の金満家に売り飛ばしました。わたしはすぐ動きました。神域には太古にはルナ遺跡があったとの伝説もある……そんな土地を開発目当てに売り飛ばすなど、文化と歴史を否定するに等しい暴挙」
レオンは深く頷いた。今回、ラウ財団がこの土地を購入するのは、ルナ文化を残すかつての神域の一つだからだ。
「利用できない土地として購入した以上、損失は覚悟していたのだけれど、足元をみたカトマール政府は高額をふっかけてきましてねえ。でも何とか持ちこたえることができたのは、当時、ラウ伯爵家が間に入ってくださったおかげ。古都ラクルの近くに持っていた土地と交換するならという条件が示されて、わたしはそれに応じたのです」
レオンは驚きに満ちた目を老女に向けた。
かつて、ク・へジンがラクルで有した土地は、今日、カトマール帝国経済発展の礎となっている広大な地区だ。数多くの高層ビルが立ち並び、世界的企業が進出している。ある高位貴族の所領経営が破綻し、救済を兼ねてク・ヘジンが購入した。モザイク状になっていた所有権を整理し、広く利用可能な土地として再開発した地区だ。そのためにク・ヘジンは相当の資金と人材を投入したはず。途方もなく価値が高い土地を手放し、紛争だらけの山がちな痩せた土地を手に入れたとは……。
ク・ヘジンは、ラウ伯爵と同じく、利益に厳しい経営者だ。だが、利益だけでは動かない。それが二人の非凡さだ。ただし、あえて損を覚悟で動くときにもう一方の天秤にかけられているものは異なる。ラウ伯爵は文化を尊重し、それが結果的に利益につながるという信念を持っている。ク・ヘジンは頼る者のない貧困者を保護し、見返りは求めない。二人の違いは、生い立ちの違いが深く関係しているのだろう。
「母の縁者のことは結局わかりませんでしたけれども、それ以来、村長とは昵懇にさせていただいています。でも、たかが不動産屋のわたしには、それ以上のことはできませんでした。かれらを紛争から守ることも、かれらの伝統や文化を守ることも、わたしの手には余ります。ですが、ラウ財団の土地となれば、カトマール政府もバルジャ政府も手出しができなくなります」
「財団の土地として、村の伝統と文化を守ってほしいとのご依頼ですね?」
「そうです。彼らの伝統を過去の遺物として葬りさるのではなく、文化として残していただきたいのです」
「お申し出の件は、しかと伯爵にお伝えいたします。伯爵はお断りにはならないでしょう。会頭のお考えは伯爵のお考えと同じです」
ク・ヘジンの表情に安堵の色が広がった。
「そう、安心したわ。で、もう一つの件なのだけれど……〈青薔薇の館〉のことなの」
「〈青薔薇の館〉ですか?」
唐突な申し出に、レオンがわずかに目を見開いた。彼がこのような反応を見せるのは珍しい。ほとんどのことは彼の想定内で起こる。だが、〈青薔薇の館〉が、ここでク・ヘジンの口から出ることはまったく予想外だった。
「ええ。〈青薔薇の館〉はすでにラウ伯爵にお譲りしているのですけれど、このたびどうしてもあの館を手に入れたいとおっしゃる方がおられてね。わたしに相談があったのです。難しいとはお伝えしておりますが、一度、じかにお会いになってはいかがでしょうか?」
静かに話を聞いていたレオンは、慎重に言葉を選びながら答えた。なぜ、いま、〈青薔薇の館〉なのだろうか?
「〈青薔薇の館〉は、ラウ伯爵の若かりし頃の思い出のお屋敷と伺っております。いまも当時のご友人をお迎えするときにはそのお屋敷を使っておられます。内装も含めて、すべて伯爵ご自身が当時の姿を変えないようにと強い指示を出されるほど、あのお屋敷に対する伯爵の思い入れは強く、とてもだれかにお譲りになるとは思えません。ただ、会頭もそのことを十分ご承知の上で、あえて直接会うことをご提案なさっているものと拝察いたします。お二人がお会いになること自体が何らかの意味を持つということでしょうか?」
「ホホホ、あなたらしいわね。その通りよ。直接お会いになるまで、わたしからはその方のことを何もお伝えできないのですよ。もちろんお会いになったあとで、お屋敷を譲ることをお断りになってもなんら差し支えございません。お会いになる場所は、わたしのほうで設定いたします」
「承知いたしました。伯爵にご相談して、お返事は後日お伝えいたします」




