第1話「30秒の亡霊」
夜の皇居外周を、ひとりの男が駆けていた。
その速度――時速600キロ。
舗道を、街灯を、夜の空気ごと引き裂くように。
人間の常識を遥かに超えた速さだった。
すれ違う車が大きく揺れ、ゴミ箱が風圧で倒れる。
自転車が横転し、地面に積み上がった無数の落ち葉が宙に舞った。
だが、本人はそんなことに気づかない。
いや、気にしていない。
――彼の名はシュート。
大学3年生。陸上部所属。
数ヶ月前、突然身体が”変わった”。
理由も理屈も分からないしいらない。ただ、走れる。とんでもない速度で。
最初こそ戸惑った。
だが今は、その力を受け入れ、どこまで速くなれるかだけを考えていた。
今の目標は明確だ。
――皇居5kmを、30秒以内で走る。
能力に目覚めた当初……かつてはできていた。
けれど、最近は微妙に届かない。
(……今日こそ、切る)
シュートは地を蹴る。
アスファルトが音を立て、空気が爆ぜた。
視界のすべてが線となり、街が滲む。
人間の感覚ではもう追いつけない世界。
彼だけが、その速さを正確に掴んでいた。
だが、その時だった。
コースの先、暗がりの中に――誰かが立っていた。
(?!まさか――?)
それは、自分自身だった。
姿勢、体格、ウェア、髪型――すべてがシュートと同じ。
まるで、鏡の中から飛び出してきたかのように。
(……なんだ、あれ)
シュートは無意識にスピードを緩めた。
涼しい顔で走っていたはずなのに、じわりと嫌な汗が滲む。
向こうの”自分”は、静かにこちらを見据えていた。
何も言わず、ただ、そこに立ち塞がる。
そして――
幻影は、走り出した。
(やるってのか……)
シュートも地を蹴る。
夜の皇居コースを、二つの影が疾走する。
ただの風景だった道が、まるで異世界に変わる。
だが、速い。
幻影は異様に速かった。
シュートは必死に追う。
身体中の筋肉を総動員して、加速する。
(追いつけない……?)
初めて覚える感覚だった。
ずっと、他人には追いつかれない側だった。
それが今、自分のコピーに――追いつけない。それどころか、差を、つけられている。
(そんな、馬鹿な……!)
汗が吹き出る。呼吸が荒れる。
焦りが走りを乱す。
幻影はこちらを見もしない。
ただ、悠々と先を行く。
(俺は、こんなもんじゃ……)
怒りと焦りで力任せに蹴った瞬間、
足元がもつれた。
次の瞬間――
シュートの身体は宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。
「っ……!」
膝を擦り、腕に痺れるような痛みが走る。
見上げた視界の中で、幻影はコースの彼方へ消えていった。
完敗だった。
⸻
少し暖かくなってきたはずの季節。夜の空気が冷たく感じた。
呼吸を整えながら、シュートは膝に手をつき、立ち上がる。
(……何だったんだ、今の)
身体は傷ついても、心は折れていなかった。
むしろ、燃えていた。
「もう一回だ」
誰に聞かせるでもなく呟き、地を蹴った。
身体の痛みなど、問題にならない。
もう一度、スタート地点へ。
すると――そこに、再び”自分”がいた。
同じ立ち姿、同じ視線。
まるで「来い」と言わんばかりに。
シュートは深く息を吐き、構えた。
迷いはなかった。
今度は幻影に惑わされない。
自分自身の走りだけを信じる。
「抜く」
そう小さく呟き、シュートは走り出した。
加速。さらに加速。
地面を砕くような蹴り出し。
風を引き裂く推進力。
幻影も動き出す。
並ぶ。食らいつく。
だが、シュートは焦らない。
幻影に合わせない。惑わされない。
自分のリズム、自分の呼吸、自分の加速。
幻影が仕掛けてくる揺さぶりも無視した。
ただ前へ。
(前へ、もっと速く――)
加速。
重力を振り切る。
そして――
シュートは、幻影を抜いた。
そのまま、ゴール地点を駆け抜ける。
⸻
静寂。
呼吸音だけが耳に響く。
腕時計を見る。
【00:29:87】
「……やった」
久しぶりに、5kmを30秒以内で走りきった。
身体中が痛む。
だが、胸の奥が軽くなっていた。
ふと、周囲を見渡す。
人影はない。
だが、コース脇に倒れたゴミ箱と、その周囲に転がる空き缶が目に入った。
(……俺が、倒したのか?)
酒の匂いが、微かに漂っていた。
宴会でもしていたのか?
だが、誰の気配もなかったはずだ。
シュートは軽く首を傾げ、その場を離れた。
⸻
その夜、SNSにはこんな投稿が流れた。
【皇居で例の亡霊見た】
【一瞬で消えた。マジでヤバい速さだった】
【少し前に噂になってたやつ?】
【そうそう。】
【体は透けてた?ほんとに幽霊?】
【亡霊っていうか、超速の何か】
シュート本人は、それを知らない。
自分が、
知らず知らずのうちに――
「亡霊」と呼ばれる存在になりつつあることを。