えぴそーど5 ネコの敵は鷹
朝起きた。誰もいない部屋、私しかいないこの部屋。
畳に敷いた布団の上。
湿度が高い。体の周りに湿気が纏わりつく。
ふと時計を見ると、朝の6時。だというのにこの部屋は変に薄暗い。いつものことだ。月の家賃が2万で済むこの家は、その値段に見合った権利しか保証されておらず、隣の建物のせいで日当たりがとても悪い。
ナイトキャップを脱ぎ、無造作に汚い床に投げ捨てる。
そしてノロノロと立ち上がった。
布団から出て床を踏む。和室チックに作られている床は畳になっている。
足に痛みが走った。ささくれたイ草が刺さったのだ。畳までもが低品質なこの部屋。よく見ると、薄暗いながらも分かるほど、畳は茶色に汚い。
6畳しかないこの部屋の中だと、目当ての場所にすぐつける。
流しの鏡の前に立つ。元から古いのと湿気で曇っているせいであまりキレイに反射しない。
そんな薄汚れた鏡の中には、当然ながら私が映っていた。
歯磨きを手に取り口に入れ、睨みつけるように『私』を凝視している私。
安物のサイズがあっていないシャツをダボっと着ており、そこから不健康的な鎖骨が見える。150㎝もない身長から幼く見えるが、その眼光が、表情が、その幼さを完璧に打ち消してしまっている。
ナイトキャップで纏まっていたはずの藍色の髪は無造作に肩下まで流れている。
そしてその、鋭い目。この世の全てが煩わしいと感じていそうなその目は、藍色に鈍い光を灯していた。
「ペッ」
流しに唾を吐きだす。
今日もたのしい一日が始まる。
◇ ◇ ◇
天まで上っていると言わんばかりの高い建物。
全面ガラス張り、太陽に反射しきらりと反射する光を見て私は目を逸らした。
ここは、チロメのお父様が経営している会社の本社である。
――でかい。
いや、でかすぎる。
魔術を組み込んだ電子回路を作っているらしいのだが、全世界でもトップレベルに品質が良く、産業革命後のイギリスの織物業をも彷彿とさせるほど儲けているのだとか。
建物からキラキラオーラが出ている。
痛い。私の小庶民な感性がダメージを受けている。
場違いかなぁ……と思いつつ、いそいそと建物の中に入る。
優秀ですと顔に書いてある大量の人間が跋扈している、近未来的なエントランス。
受付のお姉さんの所によちよち歩いていき、事前に貰っているカードを差し出した。
「あ、あの……これ」
「拝見させていただきます。……!? しょ、少々お待ちください」
お姉さんの目がくわっ! と開かれた後、焦った様子で何かをパソコンで確認しだす。
なんやなんやと周りからの視線を感じて背中に冷や汗を流しつつ、少し待った後。
「確認が完了いたしました。私についてきてください」
「は、はい」
お姉さんにそう言われる。
代わりの人を呼ぶように要請しているのだろうか、隣の受付の人に何かを呟いた後、「こちらでございます」と私を案内してくれる。
超VIP待遇。
この対応はこれで二度目だが未だ慣れない。
周りからの興味の視線を痛いほど感じながら、お姉さんについていく。
そしてエレベータに招待されたのでそこに乗り込み、上に行くと。
「こちらを奥に進んで右に行った所でございます」
「わ、分かりました」
と、言われてお姉さんはエレベーターの中に消えていったので、私は言われた通りに進んでいった。
エントランスも床の大理石やガラス張りが奇麗ですごかったが、ここもまるでラスボス戦をも思わせるくらい凄い奇麗な作りだった。
ビクビクしつつ進む。
そうして着いたのが大扉。
ここだけ木造でできており、セーブを求められそうな重厚感があった。
迷っていても仕方がないので「失礼します」とノックを3回ほどして入室する。
「――おお、来たかねリダム君」
そこにいたのは、柔和そうな50代くらいの顔に少し皴が入った男性。
にこにこと人当たりのいい笑顔を浮かべている。
着ているスーツは少しよれっとしており何となく頼りなさげに思えるが――それでも、この人物はこの会社の社長なのである。
チロメの父親。
春風 一郎。
この日本のトップを走る人間だ。
「最近、娘のためにがんばってくれているみたいじゃないか。ありがとうね、あの子の世話は少し……その、何というか、ちょっぴり大変じゃないかい?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
チロメを貶さないよう言葉をすごく濁しつつ私をねぎらってくれる。
「はてさて、じゃあ早速だけど――今月の経過報告をしてくれないか?」
私が今日ここに来た目的。
それはチロメパパが言っての通り、チロメの活動の報告だった。
何があったーとか、娘の体調はどうかー、とかそんなの。
この人はどこにでもいそうな柔和なおじさんのように見えるが、実のところは大企業の社長なわけで、いくら子馬鹿とはいえ作れる時間は限られている。
そんなこんなで私が色々とチロメのことを伝えるわけだ。
あんまり配信とは関係ないことも含めて。
やっぱり、この仕事はどちらかというと子守に近い。
「そうですね。私の目からは特に問題は無いように思えます。最近会ったことだと――」
予め作っておいた原稿を読み上げていく。
内容としてはチロメは心身ともに健康であること、配信活動も順調に登録者数や再生回数、知名度を上げてきていること、元気なこと、元気なこと、元気なこと、そんな感じ。
ペラペラとそれをより具体的に語っていく。
10分弱くらい話したところで。
「おそらく、うまく行っているのではないかと思います」
「ああ、それはよかったよ。報告ありがとうね」
パパさんも満足したらしい。
私にねぎらいの言葉をかける。
「家に帰るといつもチロメは君の話をしているよ。いい関係性も構築できているらしいね。チロメは元から明るい子だったが、最近ではさらに活発になっていると思う。これも、君のおかげかな?」
「それは分かりませんが……チロメさんによく思われているなら嬉しいです」
模範解答みたいな返答を返す。
ざ・いいこちゃん、みたいな。
チロメパパはうんと大きく頷いた。そして私のことを優しげな眼で見つめてくる。
「やっぱり、君を選んで正解だったと今確信したよ」
そんなことを言ってきた。
そうかなぁ……と私は若干複雑な心境になる。
しかしそんな私に対してチロメパパは確かな根拠を持っているようで、「そうですかね?」と返した私に「そうだ」と強く伝えてくる。
正直、給料以上の仕事をしているような気は全くしない。
「そうですかね。期待以上の仕事をこなせている気はしないのですが……」
「いいや、そんなことないさ。君は私の期待以上の働きを見せてくれている」
そうかなぁ……。
曖昧に私は笑った。
「チロメはね、手のかからない子だったんだよ」
その言葉に少し驚いた。
のほほんとしているチロメの顔が頭に浮かぶ。
ちょっと信じられない。
「実の子じゃない、という負い目があったのかは分からないけれど、昔から何かを欲しがったりしないような子だった。何か親馬鹿でモノを買おうとすると、僕といられればそれでいいって断ったり、ああ見えて大きな問題は起こさなかったりね」
チロメがモノを断ってるところは何となく想像できた。
あとこの人がチロメを甘やかそうとしているところも。
「僕としては何でも買ってあげたい、甘やかしたい、って思ってたんだけど……今日までこんな感じさ。高校の費用までも特待生で全額免除だからね。立派に育ってくれて嬉しいさ。けど、ああもお金を使わせてくれないのも、親として若干複雑だ」
ぽや~っとしているようで頭がいい、というのは知っている。
前に汚い部屋の中、一つもぺけが付いていない高校のテストが転がっているのを見たことがある。内容は中卒の私じゃ全く分からなかった。
人は見かけによらない。
「まあ、何というか、こういうと変になるけど僕はチロメちゃんにお金を使いたくてね。あの子が活動のことで困っていたからちょっと張り切ってしまったのさ。なに、君が給料の金額に気負う必要はないよ。これは私の自己満足なのだから」
流石は大企業の社長だ。
器の大きな言葉を私にかけてくれた。
柔和に笑っている目の前の男は、その見た目に反しやはり中々鋭い男のようだ。
すごい。
いいお父様だなー、と思う。随分とチロメのことが好きなのだろう。
こんな父親が私も欲しい。
ああ、いったい私とチロメのどこがそんなに違ったのか。
何となくそんなことを考える。
少し話がシリアスになってしまったのを感じたのか、チロメのパパがにっこり笑って私に問いかけてくる。
「そういえばリダム君、ルピア語の勉強はどうなんだい? 将来の夢は翻訳家だそうじゃないか。半年後の国家試験に向けて勉強しているんだろう?」
「どうですかね。自分ではうまくやれている気はしますけど……正直なところ、あまりよくわかりません」
「はっはっは。そうだね、自分じゃよくわからないこともあるよね、そういうモノは。まあとにかく頑張ってくれ。僕は君みたいなひた向きな若者にこそ夢をかなえてほしいからね」
とか何とか言いつつ、実は確実に受かる自信がある。
テストの内容は語学以外にも地形、風習、人種の知識、面接など様々あるが、どれも何なら日本語や地球のことより知っているくらいだ。技術職のために専門的な用語の知識も蓄えている。
小さい頃からこれ一本を目指していた私を侮るなかれ。
過去問も正答率はどれも95パーセント以上だ。
ちなみに合格ラインは7割弱。
まあ、そのまま口に出すと鼻にかけているように聞こえるので、こうして謙遜を入れるわけである。
謙遜ってのはこういうときは入れ得だ。
クサすぎず、キツすぎず。場を見計らって入れれば人間関係を良くしてくれる。
「ふむ、しかし君一人じゃよく分からないことが多くて困っている、か……。そうだ! いつも君には世話になっているし、何人かウチの翻訳家に見てもらうよう頼んでおこうか?」
――いらない!
優しい優しいチロメパパは、どうやら私の謙遜をそのまま受け取ってしまったらしい。
すごくありがたい申し出までしてくれた。
ごめん、訂正。入れ得はウソ。
話が変な方向に流れ出した。
「だ、大丈夫ですよそこまでしてくださらなくても。春風さんの会社に勤めている方々なら、きっとお忙しい方ばかりでしょうし……」
「いやいや、遠慮しなくてもいいよ。僕は君に感謝しているんだ。僕のポケットマネーからボーナスを出すといえば何人かはやりたいと願い出てくれるだろう」
「ほ、ほんとに大丈夫ですよ? ほんとうに……」
「いいからいいから!」
必死の激闘の末数分。
「ホントに良いの……?」
「ええ、過去問の出来もいいですし、大丈夫だと思います……」
「そっかぁ……」
やっと諦めてもらうことができた。
疲れた。
一つの謙遜がここまでの疲れに発展するとは……。
もう少し考えてこれからは行動しよう。
「そろそろお開きかな。今日はありがとうね、貴重な時間を僕のために使ってくれて」
今日の報告もこれで終わりか。
ようやくこの上流階級キラキラ空間から離れられるらしい。私の庶民ゲージも虫の息である。要するに、疲れた。
そうして帰るタイミングをうかがっていると、チロメパパが今思い出したかのように「あ」と呟いた。
「そういえば――君の父親は元気かい? 最近お互い忙しくて会えてないんだ」
……父親。
ああ、そういえば――この2人は知り合いだったな。
ヤツは父でも何でもないが、そういうことになっている。
柔和なパパさんに対し私もニッコリ笑って言葉を返す。
「ええ、元気ですよ。80代とは思えないくらいです。まだまだ現役で働くつもりみたいですよ」
「そうかそうか。まあ、あの人は少し特殊だからね――私としては、できればもうあの人には休んでもらいたいんだが。……しかし元気なのはいいことだ。よかったよ。私も元気だ、と伝えておいてくれ」
複雑な心境なのだろう。
なまじ事情を知っていて、この人はとても頭が良くて優しいから。
あの鋭い眼光を思い出す。
鋭くて、鋭くて――全てを切り裂いてしまいそうな。
……私もチロメパパには同感だ。
「――失礼します」
唐突に、社長室のドアが開いた。
第一印象は『緑』。
圧倒的なボリュームの、その『緑の髪』。
クルクル巻いた癖ッ毛で、ストレートと比べて体積が盛られているのもあるのだろう。腰の下まで流れているその髪の圧倒的な質量。しかしそれで不衛生ということはなく、顔の周りはキレイに整えられている。
そしてその髪の密林から覗く尖った耳。
鷲を、鷹を、猛禽類を想像させるかの如く鋭い緑の三白眼。
よく見ると、その目の下には軽い隈が存在していた。
黒いスーツにネクタイ。まさに社会人と言った風貌はどこか私に似ている気がする。
――私はそんな彼女の姿に『絶句』していた。上記からの理由ではない。
「川森魔式鉄鋼会社の営業の方がいらっしゃいました。対応しますか? 社長」
――あまりにも小さかったのだ、その彼女の身長が。
150㎝もない。
私とほとんど一緒程の身長。つまり、中学生ほどの見た目と言うわけだ。
見た目から出ている『仕事のできる社会人』オーラに反した体。
あまりに可愛らしい童顔。
それに備わっている鋭い三白眼と隈目は見たものの体を震わせるほどに恐ろしいが、実際のところ低身長と童顔でその恐ろしさは相殺、いやむしろ可愛さの方が勝っているかもしれない。
そういえば、と思い出す。
確かイ世界の方に『小人族』だっけ? 成人の平均身長が140㎝ほどの種族がいる、みたいな話を聞いたことがある気がする。
確かあの種族は『尖った耳』を持っていたような。
彼女も条件に合致しているし、そういう種族なのだろうか――。
と、思ったが。
――エルフ?
そういう線もある。
緑の髪。
エルフを象徴するものの一つだ。
確か、小人族はブロンズの銅色の髪を持つ種族だったような。
「……川森? あそこって今日アポイントメントあったっけ?」
「いえ、特にありません。おそらく最近のルピアの連合加入の影響で、魔技術の特許が認められてしまったので今まで使用してきた技術の使用量の請求に追われて色々と焦っているのでしょう。それで契約を増やしたいのかと」
「あぁ……今はどこも大変だね。けど魔式の鉄はキートン社さんからので間に合ってるしねぇ……すまないが、予約もないから断っておいてくれないか」
「かしこまりました」
彼女は私のことが見えていないかのようにチロメパパと小難しい会話を進めていく。
その愛らしい身長に関してクールな対応。そのギャップに心が追い付かない。
なんだか少し気まずい。
社員でもない私が会社の経営に関する話を聞くのはいいのだろうか。
そうして身の置き所を迷っていると、どうやら話が終わったようで。
「――それでは失礼します」
緑の子が部屋から出ようとする。
この気まずい時間も終わってくれるらしい。
あの鋭い目はちょっぴり苦手だ。今は全く私のことは視界に入っていないようだけど、あの目は中々怖かった。体が小さくて可愛らしかったとしても。
私に興味が無くてよかった。ふう。
あんなのと関わりたいとは思わない。
「――ああ、ちょっと待ってくれないか、シル」
と思っていたら、パパ様が彼女を止めた。
シルと呼ばれた緑な彼女が身を止める。隈目のかかった三白眼を社長さんに向ける。
パパ様を睨んでるように見えるけど、多分本人にそんなつもりはないのだろう。だが怖い。
「シルに一つ相談なんだけど――君、この少年にルピア語を教えてくれないかい? 有給とお金を出すからさ」
――!?
何を言い出すんだパパ様!?
私が恐る恐る彼女の方に振り向くと、鋭い三白眼と目が合った。訝し気に私の方を睨みつけている。
「……誰ですか、この方は」
「ふふふ、チロメのマネージャーの、例のリダム君だ。半年後に国家試験があるだろ? それに向けて勉強中らしいんだ、彼。勉強を見てやることはできないかな? 君、ルピア語も確か喋れるだろう?」
どうやらパパ様は余計な気を私に使ってくださったようだ。
圧倒的善意で! 苦学生 (のように見える)私を気遣って!
だけど今回は余計なお世話。
勉強を見るも何も、今の私は完ぺきに試験に受かる実力がある。
くっそ! 先の謙遜がまだ尾を引いている!
「あ、あのパパ様……大丈夫ですよ? 先程申した通り……」
「紹介しようリダム君! 彼女はアステルト・シルフィアという人でね。種族は中々ここらでは見れないがエルフだ。我が社の翻訳家なんだ。僕とは大学時代からの付き合いだったりするんだけど、その時から優秀な人でね。男手ひとつでチロメの育児に四苦八苦していた私を手助けしてくれたのが彼女なんだ」
鋭い目つきで睨みつけるように、私は全身を見られているのを感じた。というか実際見られている。
蛇に睨まれている気分だ。体がマヒしたように動かない。変な汗が出る。
そしてやっぱりエルフか。
失礼なこと考えてたな小人族とか。
「……へぇ、あなたが……」
目つきの鋭さが増した。
瞬間、私は若干の敵意のようなものをその視線から感じた。
なぜ!? 変な汗が出る。
恐ろしい。しかし紹介までされたら挨拶くらい返さないといけない。
私は何とか笑顔を作る。ぎこちなく、されどできるだけ友好的に行きたい! とアピールするつもりで挨拶。
「よ、よろしくお願いします、リダムと申します」
「……はい、宜しくお願いします。シルフィアです」
そっけない返事。
心なんかは籠ってなくて、本当にそのまま定型文を使った感じだ。私のように。
それでも私とシルフィア様のセリフの空気が違うのは、多分友好性の有無。
険悪な空気。
見た目は両方中学生女児なのに、醸し出す空気が最悪。
中身は両方女児でもなんでもないからか!
こんな私たちの険しい雰囲気に全く気付いていないらしく、にこにこと笑いながらパパ様はこちらを見ている。
「2人とも?中々いい感じじゃないか! 仲良くできそうかい?」
「……そ、そうですね。仲良く……できますかね?」
「…………」
どこをどうとったら中々いい感じに見えるんだ?
何とか疑問形とはいえ答えた私に対し、シルフィア様は無言。
こちらに一瞥もくれない。仲良くできるかどうかとか、そういう次元じゃない気がしてきた。
もう無理なんだけどこの空気! 私のはぁとじゃ耐えられない!
「どうだいシル? できれば実力ある君に見てもらいたいんだが……」
「――社長」
ニニコとしていパパ様の言葉に遮るように、彼女はパパ様の名前を呼んだ。
私を見る目を一瞬すっとすぼめた後、パパ様の方を向く。
「私はこの人のことを信用できないのでお断りさせていただきます」
――と、本人たる私の目の前で、堂々とおっしゃられた。
パパ様は驚いていらっしゃるようす。先程のカジュアルに頼んでいた感じから断られるとは思っていなかったのだろう。
「な、なぜだい?」
「第一、私はこんな身分もはっきりしていない人間にチロメさんを任せること自体に納得がいっていません。住所はよくわからないアパートに住んでいて家族構成も不明。学歴も中学で止まっているようですし、信頼できる要素がありません」
空気が一層重くなる!
痛いところをピンポイントで突いてくる! 言ってることが正しい分何も言い返すことができない。
「で、でも学歴や身分が全てではないだろう? 実際チロメちゃんは彼を相当気に入っている様子だ」
「……社長。これは悪魔で、可能性の話だと捉えてほしいのですが――」
私のことをゴミを見るような目で睨みつけてくる。
私にはわかる。この目には、明らかな敵意の念が込められていた。
「こいつはネコを被っているだけの、悪い虫のように思えます」
あたり。
冷たい視線。
さっと背中が寒くなる。
私はその視線に何とか苦笑いをすることしかできず、場の空気は凍り付いていた。
視線も背中も空気も冷たい。冷たくて冷たくて、凍えてしまいそうである。
「……言いすぎました。それでは、失礼させていただきます」
「あっ、ちょ、シル――」
そのまま彼女は小さな体で扉を開けて、廊下へ消えて行ってしまった。
場に残されたのは初老の男と女もどきの男一人。
空気はお通夜。
どうしてくれるのこの空気。
どちらも何とも言えない状況下、先に口を開いたのはパパ様の方だった。
「……すまないね、リダム君。こんなつもりじゃなかったのだけど……」
「だ……大丈夫ですよパパ様」
言ってたことも事実だし。
曖昧に私は笑って誤魔化した。
パパ様は申し訳なさそうな顔をしている。流石は親子、こういう顔はチロメに似ている。
そして再度沈黙の間。
沈むという字が入っているだけあって、場の空気もテンションも完全に沼の底だった。
どうしよっかなこの空気。
こっからどうすんのよと思っていたら。
――再度、扉が静かに開いた。
「あ、あはは……お、お父さんにリダム……? 2人とも、沈んだ空気だねー、なんて、あはははは……」
深い『黒』の滑らかな髪。どこまでも『白い』清らかな肌。
だいたい土日にしか合わないので私は彼女の私服姿の方が覚えがあるのだが、今日は平日。彼女の格好は見られぬセーラー服を着ていて、学校帰りなのだと一目でわかった。
チロメである。
そこにはまるで全ての会話を聞いていたかのような、ものすごく気まずげな顔をしたチロメが、扉の前に立っていた。