なんばー1 あからさまなカレンダー
寝起きのチロメが支度をし終え、私と彼女は机に対面して座っていた。
私としてはこれから仕事の話をしたいと思っていたのだが、先程の件に関して思うところがあるらしく、机の前の彼女はすごく表情を暗くし頭を下げていた。
「ごめんリダム、朝から寝坊して約束すっぽかした挙句、あんなことまでしちゃって……」
「いえいえ、全然構いませんよ。あの……だから、頭を上げて頂けると……」
大したことはされていない。
だから謝罪をやめてくれよと思ってそう伝えたのだが、彼女はまだ自分を許せないらしい。
「で、でも……リダムに迷惑かけちゃったし」
「気にしてないですよあれくらい。それよりもっと明るく行きましょう! 私としては普段明るいチロメさんが落ち込んでることの方が悲しいです」
「そう? ……分かった。次からは絶対気を付けるよ!」
ようやく元気を取り戻してくれたようだ。
意気込んでくれて何よりである。
そんなことを思っていたら、チロメが突然何か思い出したようにガタっと椅子を引き立ち上がった。
「……あっ! 忘れてた! リダム、私お茶淹れてくるね!」
「えっ、あ、大丈夫ですよ? わざわざ淹れて下さらなくても……」
「遠慮しないで! ちょっと台所行ってくる!」
チロメがぴゅーっとお茶を淹れに走って行ってしまった。
バタバタと落ち着きなく、私が止める間もなく颯爽と。
無理に止めに行くのもアレなので、彼女のことを待つことにした。
家にだれかを入れたときは、何か出さないといけないみたいな考えがあるらしい。
金持ちっぽい。こういうところは育ちの良さが起因しているのだろうか。
落ち着きがなくてバタバタとすることの多いチロメだが、やっぱり俗に言うところの『お嬢様』なんだなーと思った。
ちらりと今いる机を見る。
ピカピカにすが光っており、何というか、すごく高価そうなものだった。
私の家にあるボロボロのちゃぶ台君とは大違いだ。
「…………」
私は机に置いていた肘を離し、自らの膝の上に手を置く。
なんというか――落ち着かねー。
「……ん?」
と、そんなこんなで高いもののオーラに少々辟易していると、私の目にふとあるものが映った。
ここはキッチンに近い食卓なのだが、ここから近いところの壁に、予定がびっしり書き込まれている『カレンダー』を発見したのである。
ここからでも十分書いてある内容は読めた。
どうやらチロメの父親――大企業の社長である――の予定が書き込まれているらしく、どこどこでだれだれと会談やら、うんたらする、などのことが簡単に書かれている。
これ、私が見てもいいものなのか――? とちょっと不安になるが、まあ、こんなところに貼ってあるなら大丈夫だろう。本当に見られてはいけない内容なら私が来る前に剥がすだろうし。
しかし、この書き込みの量。
大企業の社長様は随分と忙しいらしい。感服だ。
そんなこんなで暇だったので、無礼にもそのままカレンダーをぼーっと眺めていると。
一つ、今日の日付の所に、彼女の父親の予定とは違う筆跡の可愛らしい文字で書かれているメモを発見した。
おそらくチロメの文字なのだろう。
私はぼーっとしたまま、特に何も考えることなく、その文字を頭に入れてしまった。
―――『今日、リダムをご飯に誘う!!』
…………。
…………?
頭が真っ白になった。
「お茶淹れてきたよリダム!」
「み゛ッ!?」
いきなりチロメがキッチンから帰還してきた!
ビクッと私の体がはねて、変な声が口から漏れる!
瞬間、私は高速でカレンダーから顔を逸らして、チロメの方を向く。
「な、なにかすごい声出てたけど大丈夫?」
そんな質問がきょとんとしたチロメから飛んでくる。
どうこたえるべきなのだろう。
流石に――流石に、あのカレンダーで見た『今日、リダムをご飯に誘う!』だなんていうこっぱずかしいもののことを彼女に伝えるわけにはいかない。
「いえ、少しボーっとしてただけです」
隠すことにした。
すぐさま焦りの顔を繕い彼女ににっこり笑顔を送る。
しかしこの程度でごまかせるのだろうか。
先程奇声を発するぐらい驚いているのを見られている手前、流石にこれは苦しいか……? にこにこチロメを見ている反面、私の心はばくばくだった。
チロメは私の顔をじっと見つめている。
両手に紅茶の入れた二つのカップを乗せたプレートを持ちながら、玉のように奇麗な黒い瞳が私を捉えて離さない。バレてる? 心臓が跳ねているのを感じる。
数舜にも満たない時間が過ぎた後。
チロメはにっこり私に笑い返してこう言った。
「そおなの?」
「はい。すみません、最近少し寝不足でしてね」
「えへへ、リダムでも寝不足になるんだね。……ふーん、そっか!」
――バレてない!
チロメの純粋で無知な笑顔を見て、私はほっと胸を下ろした。
ドジっ子なチロメちゃんは鈍感でもあるらしい。
まあ何はともあれ、私がカレンダーのチロメの筆記を見つめていたのはバレなかったようだ。
「私、リダムは寝不足とかそういうのにはならないのかなーって思ってた。私と違ってちゃんとしてるから、自己管理とか上手そうで」
「あはは……そんなことないですよ? 多分チロメさんが思ってるほど私ちゃんとしてないですし」
平和な時間が流れる。
どうやら危機は去ったらしい、と、私は思ってしまった。
だから一瞬気を抜いた。
「それにしてもあっちの方見てたよね。何かあったっけ?」
私が「しくじった」ことに気付いたころには、すでに手遅れだったらしい。
チロメは私が見ていた方を向き、目を大きく見開いた。
「ッ!?? ッッッ!!!」
チロメはガタッ、と激しく椅子を揺らして立ち上がり、カレンダーの場所前に急ぐと、瞬時に『それ』を近くにあった黒マーカーで書き消した。どうやらカレンダーに気付いてしまったらしい。
やべ、と思う私を横に、あたふたあたふた、こっちを向いて、わさわさわさわさ先程と違い激しく腰まで伸びる長髪を空中で散乱させ。
「リ、リダム!……み、見たッ!?」
聞いてきた。
当然の質問!
超取り乱して焦ってる!
反射的に私は返す。
「み、見たって何をです? ボーっとしてたので、あんまり物は目に入ってなかったのですが……」
厳しい誤魔化し!
我ながらそう思った。が、
「……そ、そう? な……ならよかった!」
どうやら、彼女は私の言葉を信じたらしい。
あまりの鈍感さに私の額から少し汗が流れる。
というか、その鈍感(純粋?)さに救われておいて何なのだけど、ちょっと彼女の将来が心配になった。
詐欺とかに引っ掛からないよねこの娘……。
ま、まあ、何はともあれ。
これからは仕事の話である。
なんだか、随分とここまで来るのに疲れた気がする。
朝8時から彼女に呼び出されてここに来てまだ1時間もたっていないはずなのだけど、すでに体力の半分くらいを消費している気分である。
それに対して対面のチロメちゃんはにこにこ私を眺めていた。
少し『仕事』の話なのでキリッとしているが、私よりも全然元気そうだ。
へきえき。
とにかく仕事仕事。
「予定通り9時から配信始めますよね?」
「うん。そのつもり」
「だったらあんまり時間はないですね。頼まれていた動画の件、軽く説明だけします」
『仕事』――話の件から察することもできるだろうが説明すると、彼女、チロメは動画配信者で、私、リダムは彼女のマネージャーだ。
チロメは主に青少年たち相手の恋愛相談を配信内容として活動している配信者だ。
少なくとも本人はそう主張している。
そして私が彼女のマネージャー。
可もなく不可もなく、追加情報とかもない、事務やら動画編集やらをしている一般的なマネージャーである。
とはいっても、配信者とマネージャーと言われてみんなが想像をするような、『大きい事務所』で働いているとか、そういうものでは私たちはない。
チロメは個人で活動している配信者だ。
大企業の社長であるお金持ちな彼女のお父様は、チロメの活動が世間に評価されて大きくなっていく中、彼女が一人で活動を続けることが不安になってきたらしい。
まあ、彼女はまだ高校生で学業と両立させないといけないわ、抜けてるところがある(おぶらーと)わなど、彼女のお父様がそう考えるようになった要因は色々あると思う。
そんなこんなで娘のことが大好きな父親が考えたのが、お金をたくさん使ってでも、彼女にマネージャーを付けようということだったのだとか。
で、色々先行した結果そのマネージャーに選ばれたのが、どういう因果か私だったというわけである。
私がマネージャーになった理由もまあまあ複雑なものがあるのだが、いったんそれは置いておいて。
パソコンをカバンから取り出して机に置き、操作をした後チロメの方に見せる。
「前回の分の配信をまとめたものです。編集して完成したものになりますけど、最終チェックを宜しくお願いします。いつも通り15分くらいで纏めたものなのでチェックにあまり時間はかからないと思いますが」
「おお! ありがとリダム! 前の配信3日前だけどもうまとめてくれたんだ! いつもありがとうね!」
「ええ、どういたしまして」
私は彼女の『マネージャー』という肩書だけど、実際のところ仕事量は本来のそれより圧倒的に少ない。
なんでかって簡単で、事務所じゃなくて個人活動だから。
利益を出すために活動しているわけじゃないのだ、彼女は。
なのでお外にチロメの売り込みに行ったりとか、『案件』などで連絡を取ったりとか、ダンスのレッスン! とかで時間管理をしたりだとか、そういうマネージャー本来の業務は一切ないのである。
動画まとめて、配信の機材のチェックとかして、時々発生する誹謗中傷とか対処して、後はチロメと円滑にコミュニケーションを取るだけのお仕事。
もはやマネージャーなんかじゃなくて、子守みたいなもんだと私は思ってる。
まあ、雇い主のチロメのお父様の気持ちを思うと、あながち『子守り』も間違いじゃないのかもしれない。
この後10分近く、色々と配信活動のことについて話した。
『どこどこの会社から案件のお誘いがあったけどどうしますー』だの『今日の配信のお便りの選別しときましたよー』だの、まあ、仕事についての話。
「――と、そろそろ9時ですので時間ですね」
あらかた話し終わったな、と思い時計を見たらそんな時間だった。
業務終了、帰宅の時間。
ホントに楽な仕事だ。
仕事と表現するのも悪く思っちゃうレベル。
「チロメさん、今日の配信の動画制作などはしますけど、何か他にしてほしいこととかありますか?」
定型文でシメようとする。
仕事は終わった、もう私がここにいる理由はないのだ。
それでもって、そろそろ帰る支度でもしようかなー、とのんびり思っていると。
「ちょ、ちょっと時間いいかな……?」
――チロメがそう言った。
頬がほんのり赤い。
いつもは雪のような白さの肌が、少し朱色を帯びている。対面に座る彼女は少し下を向いていて、目を合わせようとすると前髪に隠れている。緊張しているらしい。
ああ、そういえば――私は『カレンダー』のことを思い出しだ。
「はい、大丈夫ですよ」
「その……リダムが私のマネージャーになってから3ヶ月くらいたったじゃん?」
「ああ、思えばそうですね。3ヶ月ですか……時の流れは早いですね」
「そ、そっか! 私も……リダムと会ってから毎日がすっごく楽しいから、日が流れるのを早く感じるよ」
「それは嬉しいですね! 私も同じ思いですよ」
定型文をニコニコと返す。
チロメはそれを聞くと、ぱぁっと嬉しそうに顔を上げて輝かせた。
にこにこにこにこ、純粋な彼女は隠すことなくその喜びを表情に反映させている。
顔は赤いままだ。羞恥3割喜び7割、といったところか。チロメは多分嘘は付けないタイプ。つこうとも思わなさそうな性格をしているけれど。
まあ、嬉しそうで何よりだ。
私もにっこり笑って返す。
「それでなんだけど、その……い、今まで私達、は、配信とかそういうの以外で……あんまり関わって、ていうか、その……遊ぶ、っていうか、なんというか……2人でどっか行ったりって、なかったじゃん?」
お顔が真っ赤だ。
桜色の唇は微かに震えながら動いていた。
奇麗な黒い瞳も忙しなくきょろきょろと動いている。
しかし一瞬間をおいて。
彼女は瞳を動かすのを止めると、私の瞳を見据えてきた。
何か決意を固めたようなご様子。
そして息をそっと吸って、唇を揺らしながら吐き――。
「だから、いつか近いうちに、ご飯でも――」
というところで。
――ジリリリリリリリリリリリリリ!!!!
唐突に、どこかの部屋から爆音の目覚まし時計が鳴り響いた!
「おおっ」
「わっ!? な、なに!?」
チロメがあたふたびっくりしている。
かくいう私も急に爆音でベルが鳴ったから驚いた。
音源はチロメの寝室。
しかし、なんで今鳴ったのだろう。
もしかして今は『9時前』だが、私が来る『8時前』に目覚ましをセットするのを、1時間間違えてしまったとか? 朝チロメは私が来たとき寝たままだったし――それっぽい!
「止めてこなきゃ……」
チロメが時計を止めに席を立つ。
慌てて立ったのだろう。椅子が激しく音を立てる。
そして、私は見た。
彼女が焦って動く床に足をかけるその時、チロメの足が、ずるりと床を滑るところを!
「あ、危ねぇッ、でッ!!」
「きゃ、わっ――」
私はするりと椅子を立ち上がり、3歩ほど先のチロメの元へ向かう。
彼女がケガをしたら――子守りの私が監督責任を追及される!
先程楽な仕事と言ったが、責任はそこそこ重いのがこの仕事。だってそりゃそうだ。お金持ちの娘さんをかいがいしく世話をするのがこの仕事の趣旨なんだから。怪我なんてさせていいわけがない。
このまま転んで頭でもぶつけられたなら首になってもおかしくない!
うなれ私の足!
小さい体で昔から苦労してきたけど、その分上がった機動性を見せやがれ!
――私の思いが通じたのか、私はチロメが転ぶ瞬間に何とか間に合うことができた。
まあ、と言っても『チロメと床の間に滑り込む形』でだから、私は転んだ衝撃のクッション材――つまり、転んだ衝撃を全部貰うことになるのだが!
チロメが転ぶ。
彼女よりも小さい私は、彼女と床に潰される寸前。
後ろから彼女を抱きしめるような形。
すると当然、チロメの後ろ髪が私の顔に掛かる。サラサラ揺れるその髪は『石鹸の香りがする、しかもサラサラ。すげー』と状況に見合わず思ってしまうほど上質なもの。目にかかってうっとおしい。
というか、女の子の体ってあったけー。しかも柔らか。もちもちや!
最期に思ったのはそんなしょうもないことだった。
「ぐえっ」
「リ――リダム!?」
二次元だったら喜んだだけで済んだかもしれない。
しかしここは現実。非常なセカイ。
私よりも重いチロメの体重により、私は背中から床にたたきつけられた。物理的な衝撃が体を走る。さらに追い打ちで、チロメの頭が私の鼻頭にごちん! と勢いよくぶつかった。痛い! 激痛! ――ほんとに痛い!
ツン、と熱い何かが鼻を通る。
それが目頭まで登っていき、私の目からジワリと涙がにじんできた。
そりゃそうだ。
私は訓練を受けた軍人でもなければ体重45㎏未満のクソザコボディの一般市民なので、鼻に衝撃が走ったら痛いに決まってる。
腹の奥から変な声が出た。
幼少期、食べられるかなーと思って片手サイズの岩で潰したウシガエルの断末魔を思い出した。
死ぬ寸前にしてはやけにあっけない、勢いのないそういう声。まあ実際死ぬときなんてそんなものだ。
チロメの下、鼻の痛みとチロメの体温と柔らかさを感じながら、私はそんなことを考えた。
すぐにチロメが私の上を退いて、悲痛な声で床に寝転ぶ私に言う。
「だ、大丈夫!? ごめん、ホントにごめん! 私の下敷きになる必要なんてなかったのに!」
「け、けがはないですかチロメさん。私よりも……あなたの身の方が……」
「ないよ、リダムが守ってくれたから……。というか、リダムこそ大丈夫なの!?」
「大丈夫ですよ。これくらいで怪我なんてしません」
どうやらチロメは無事らしい。
いやぁよかった。私の監督責任は果たされたようだ。これで首になったりしなくて済む。私の体をちょっぴり痛めたが損得は『ぷらす』に傾いている。
「ホント? 結構強く転んじゃったけど……ホントに大丈夫?」
「ええ、本当に大丈夫ですよ。それよりチロメさん、先程の話の続きはいいんですか? 目覚ましは、勝手に止まっちゃったみたいですけど……」
そう言うと――チロメが暗い表情を浮かべた。
先程までのにこにこの笑顔とは打って変わって180度。
後ろめたさとか、申し訳なさとかそういうものを感じる。
「……えーっと、その! な、何でもないや、あの話」
「そうなんです? 何かしてほしいことがあるなら、遠慮なく申してほしいですけど……」
「……あっ! そろそろ配信の時間だから、私、お部屋行かなくちゃ!」
話を不自然に切られた。
そしてチロメは立ち上がると、どたばたと慌ただしく逃げるように部屋に駆け込んでいく。私が止めようとする間もなく、途中痛そうにごつ、と家具に足をぶつけて「いっ!」と声を上げていきながら。
彼女は最後の最後までドジだった。
しかし――。
「これはどうにかしないといけねぇですね」
誰にも見られていないので、ボソリと敬語をくずして呟く。
私は一応これでも役職上は彼女のマネージャーなのである。なので――彼女、月華チロメの精神状態の管理も私の仕事なのだ。
ただでさえ他の仕事がないのだから、これくらいはやらないといけない。
気を引き締める。
そう、これは私がやらねばならない仕事なのだ。
「というか、これ私……お家に帰ってもいいんです?」
チロメは配信に行ってしまった。
私は一人ぽつんと部屋に取り残されている。
勝手に帰ると、この家の鍵が閉められない。
あれ、私帰れなくね?
チロメが完全に忘れてるから。