ぷろろーぐ
一人きりのエレベーターの中。
私は壁に背を預け、壁に付けられている大きな鏡に映る――
鏡の中には身長が150㎝もない、幼気な少女を見ていた。
ポニーテールに纏められている藍色の艶やかな髪に、同じく藍色の大きな丸い瞳が特徴的。
色白の肌と細い四肢は病弱さを感じるが、逆に保護欲を沸かせる魅力と美しさがある、そんな少女。
小さな体に反し少女は何故か黒のスーツを着用していた。
身長に合う服が無かったのか、少しサイズが体に対し大きいように見える。肩にかけているバッグも同様。しかしそんなスーツとバッグに対しどこか着慣れている感があるのだから不思議なものだ。
まるで仕事に行くような恰好。
身長から考えるに少女はだいたい中学生ほどに見える。
昔は子供が働くのは普通だったというが、労働者の権利や資本家の義務が見直された今、15にも満たない少女がスーツを着て働きに出向くのはおかしなことだ。違和感がある。
そしてその少女は、その可愛らしい容姿に対し『愛想がなかった』。
中学生ほどの少女なら、元気溌剌に活動するエネルギッシュな様子が合うと思う。が、壁に気だるげにもたれかかり、頭を壁に支えさせ、口角の一ミリも上げずにぼーっとどこかを眺めている様は、子供らしからぬというか、覇気がないというか、可愛らしさが少しもない。
若くない。
見た目は若いのに、その体から、表情からにじんでいる雰囲気に、若々しさの欠片もない。
――まあ、そろそろ白状しよう。
私だった。
目の前の気だるげな態度の美少女は、『美少女』なんて形容をしておいてなんだけど――私だった。
そんな私は今から『とある女の子』に会いに行く。
友達、彼女の家に遊びに行くというわけではない。
だったらスーツなんて着てないし、こんな疲れたおっさんのように壁に持たれてもいないだろう。楽しいことをするわけじゃあないのだ。残念ながら。
すっごく可愛い娘のところには行くんだけど。
「あぁー……」
――エレベーターが到着する。
チン、と音を立ててドアがゆっくりを空いていく。
エレベーターに乗っているのは私一人だ。
そしてエレベーターが開いたということは、私の降りるべき階層に到着してしまったということで、私は重い頭を壁から持ち上げた。
最後に再度鏡を見る。
そこにはやっぱり愛想のない、気だるげな顔をしている私が映った。
「こんな顔じゃ仕事になりませんからねー……」
仕事と私情は別物。
頬を軽くパン、と叩いた。顔に熱を帯びさせる。少し熱って赤くなる。髪のゴムが壁に持たれている間にほどけてきていたらしい。結び目に違和感を少し感じた。ので、頭の後ろに手を回してポニーテールの髪留めを素早く結びなおす。
パチリと瞳を大きく開けて、頬の肉を軽く上げ――すると。
鏡の少女は先程の愛想のなさはなく、溌剌な様子でとても愛くるしい笑みを浮かべていた。
先程の気だるげさをまるで感じさせない。
憂鬱な心持で、されど笑顔のままエレベーターを出る。
心と表情が正反対だった。
「……相変わらず高っけぇところです。どれくらい人間高みに行けばここに住めるんでしょうか」
私はここから一望できる景色を見ながらひとりごちた。
東京の街並み。
マンションが連なっていて道を見ればたくさんの人が歩いている。車は通りを絶え間なく通り、とにかくスケールの大きなセカイがそこには展開されていた。
あんなにうるさい車の走行音もここだとあまり聞こえない。
それほど高い位置なのだろう。
言い忘れていてすまないが、ここはマンションである。
道を歩くと部屋がいくつもあるわけで、私は扉を見るその都度その都度部屋番号に目を通し、目当ての部屋を探していく。
そしてようやくいくつかの部屋のナンバーを超え、目当ての部屋についてしまった私は、扉の前に立つ。
「……仕事の時間ですね」
笑顔のままに。
心の中は少し暗いけれど。
――私は部屋のチャイムを押した。
「…………」
出ない。
数十秒待ってみたけど、誰も出ない。
何らかの要因で中の人物はチャイムに気付かなかったのだろうか。
もう一度チャイムを押してみる。
「……出ねぇ、ですね」
ふと、そこで思い出す。
そういえば彼女が『朝起きれないかもしれないから鍵開けておくね!』と前日話していたことを。
防犯という言葉を知っているのだろうか。
何となく彼女の危機管理意識に不安を覚えたが、ドアノブに力を入れてみると。
「……ホントに開きましたよ」
すんなりと扉は開かれた。
「お邪魔しますよー?」
それに少しばかりの動揺を感じつつ、扉を押して、遠慮がちに入る。
そして、その瞬間。
――まるでマンションとは思えないほど広々とした部屋が視界に広がる。
高い天井、そこに吊り下げられている豪華な照明。
壁・床は大理石でできており、見る限りでは汚れは全くついてらず、柔らかく光を反射している。部屋の真ん中の方にはどでかいソファ、床には落ち着いた色合いのカーペットなんかも敷かれていた。
すごく豪華な部屋である――ここが相当いい部屋なのは1週間おきにここに来るため当然知っていたが、小庶民と貧困層の間にいるようなプアーな私からすると、何度来ても圧倒されてしまうのだ。
「……とにかく、彼女を起こしに行きますか」
少しフリーズした後、ハッとしたように思い出す。
……寝室の位置は聞いている。
先に進もう。
なるべく家具(高そう)を触らないようそろりそろりと移動して、寝室に繋がるらしい扉を目指す。
「ここ、ですか……」
着いた。
ダークオークの木で作られている重厚感のある扉。
この先に私を呼んだ張本人が寝ている。
「……四の五の言わず、入りますか」
意を決した。
私は扉に手をかけて、それを引いて入室した。
「んみぅ……」
そこには私と同い年ほどの、すやすやと眠る絶世の美少女がいた。
160cmほどの身長、細い手足に小さめな胸、小ぶりなお尻。長いまつ毛の閉じた目、整った鼻筋、小さな頭はちょこんとその細い首の上に乗っており、まさに大和撫子と形容できる、古来からの日本男児の理想的な容姿をしている。
まさに絶世の美女とも呼べるべき彼女を構成する体のパーツは、一つ一つが男の理想を体現したようなものだけど、中でも特に目を引くのはその『雪のように白い肌』と『艶やかな黒の長い髪』だろう。
白と黒。
彼女を表す『象徴』を問われたらその相反する2色を私は挙げる。
大きなベッドの上で枕を抱き、白のワンピース(多分寝間着)に身を包んですやすやとその無防備な寝顔をさらす彼女は、人によっては天使と形容するのではと思うほど可愛らしかった。
愛されるために生まれてきたかのような存在。
そう錯覚してしまう。
部屋の主――月華 チロメその人である。
やっぱり寝ていたか。チャイムに出なかった理由が確定した。
寝室でもあり彼女の自室でもあるこの部屋。
机の上にはカメラやや大きな液晶画面、ヘッドホンにマイクなど、様々な道具が散乱している。
配線も複雑に絡まって散らばっていて危険だ。
いつかに片づけたほうがいいよー、くらいには言っていたのだけど……。まあ、彼女が常日頃から使っているモノたちなので、散らかるのは仕方がないのだろうか。
しかし配線くらいは直してほしいな。
「あ、あのーチロメさん? リダムですけど、チャイム押しても反応がないので入ってきました。起きてますか?」
控えめに声をかける。
大声で起こすとビックリされて通報されるんじゃないか、とチキって控えめになってしまったのだが、人を呼んでおいて寝ているくらいのずぶとさを持つ彼女は当然そんな声量では起きない。
もう少し声量を上げて起こすか。
「チロメさーん、起きてくださいませんか……?」
やっぱり起きなかった。
そこそこの声量でお声をかけさせていただいたのだが、ベッドの天使は特に何の反応も示さず枕を抱いて眠っている。
声ではこの子を起こせないのかもしれない。
大声を出せばこの眠り姫を起こせるのかもしれないけれど、近所迷惑を考えるとそんなことはしたくない。
ということで、無難に肩でも揺すってみることにする。
「体ちょーっち揺すりますよ。起きてくださーい」
肩を触り、ゆすゆす体を揺らす。
素肌を触ると一発アウトなので寝間着の上から触ったのだけど、彼女の温もりが手から伝わってきた。寝ているからなのかすごく温かな体温である。柔らかな肌。布越しでも分かる。少し力を入れると指が肌に少し沈む。すごい。
そんな変態チックな思いを抱きつつ肩を揺らすと彼女の小さな頭がかくかく揺れて、寝間着のワンピースが動く。天使の寝顔は頭が揺れても変わらない。まだ起きず。
手の触感に戸惑いつつ、同時に、惑う――起きない。
どうしよう。
このまま軽く揺らし続けても起きる気配がないし長く触り続けるのもアレなので、もう少し力を込めて激しく揺すってみる。
いい加減起きてほしい。
そう強く思い、すると、微睡む彼女にやっと私の思いが届いたのか。
「そろそろ起きてもらえると……」
――ようやく彼女はその瞳をうっすらと開けた。
「んぅ、ぅーん? り、だむ……?」
ようやく起きてくれたらしい。
起きた瞬間叫ばれなかったことに若干安堵して胸をなでおろす。
彼女はまだ寝ぼけてぼーっとしているようで、ベッドからのっそりと起き上がり、頭だけ上げて意識が薄そうな黒い瞳を私に向けている。
かわいい。何というか、寝顔とは違う無防備さがあっていい。
……バカなこと考えてる場合じゃないない。
とりあえず、頭が働いていなさそうな目の前の少女に事情を軽く説明しよう。
「はーい、あなたのマネージャーのリダムです。約束通り、あなたがチャイムに出ないので預かった鍵で家に入らせていただきました」
「ぬ、ぅ……やくそく? うーん……りだむが私のいえに……これ、ゆめ?」
まだ寝ぼけているらしい。うとうとと覇気のない声で喋ることは私のセリフとかみ合っていない。
細いその腕を持ち上げて、真っ白な肌の手で眠たげに瞳を軽く擦っている。
どうやって説明しようか……先に顔でも洗わせてみるか。
意識が覚醒すれば話も通じるようになるだろう。
うつらうつらと頭をかくかくさせている彼女を尻目に私はそう考えていると。
急に腕を引っ張られ、ベッドの方に引きずられた。
「え――?」
急な出来事に反応できなかった。
力のままに体を動かされ、そのまま――ベッドの彼女に抱きつかれる。
私の小さな体はすっぽりと彼女の胸の中に納まってしまった。
ボスっと彼女ごとベッドの上に倒れ込み、彼女の体温で暖められた上質なシーツの触感を肌で感じる。
唐突な出来事。
彼女の体温とそのもち肌に唐突に包まれ、ぽすんと私の頭が彼女の肩に乗り、頭が一瞬真っ白になった後――冷水を頭にいきなりかけられたような焦りを瞬間的に大きく感じ、頭がパニックになった。
「ちょ――ちょッ!? チロメさん!?」
「ぅー……やわらかーい、ちょっと冷えてて、いいね……さいきんの、ゆめって、すごい……」
抱きつかれている、私は今、どういうわけか抱きつかれている!
それを理解するのに数秒の時間を用いた。
耳の近くで彼女の可愛らしいお声が聞こえる。私の体の感想だ……こう言うと途端に卑猥になるが、間違ったことは言ってない。
私の体は『生えてる』とはいえ医者に「君、骨格は完全に女の子だな」と言われるほどには女の子なのである。男の体と違って肉感は柔らかい。
「チロメさん、寝ぼけてないで起きてください! 夢じゃないです、夢じゃ! 現実ですよ現実! 私は本物のリダムです!」
「ぅーん……」
が、私の声で彼女は起きず。
私の背中にギュッと両腕を回してきた。
「い゛っ」
彼女の体にさらに私は引き寄せられて、そこそこ強めに力を加えられる。
小さいとはいえ確かに存在する胸の存在を布越しに感じる。彼女の長い黒髪の一部が私の顔に掛かった。いいにおいがする。さらっさらや!
徐々に力を加えられて彼女に私の体が食い込んでいくのは、どんどん私を色んな意味で焦らせているらしい。
頭が混乱するあまりに変な感想まで出るようになってしまう。
脱走できなくなった!
このご時世を心配するがあまりに「できるだけ彼女に触れずにこの危機を脱したい……」だなんて思い強く抵抗しなかった数十秒前の私を強めに叱りたい。
後悔先に立たずである。
「んー……」
「目を覚ましてください! 色々当たってるんですよチロメさ――いやなんで顔を近づけて!?」
不意に手の拘束が少し緩んだ。
と思った束の間、彼女はその天使のお顔を私の正面まで持ち運び、微睡みぼやけた顔を見せてきた。
彼女の顔がこちらに迫る。
シミ一つない白い肌、少し開かれた瞼の奥から除く奇麗な黒の瞳。
サラサラの黒髪は寝起きだから整えられていないが、それが逆に無防備な魅力を醸し出している。
そして、唇。
桜色のそれは唾液で湿ってプルプルと震えており、朝の陽ざしに反射して一部白く光っている。
彼女の顔がこちらに迫る。
もう一度言う、彼女の顔がこちらに迫る。
これは、つまるところ、そういうことか。
――そういうことなのか!?
よくない!
抱きしめられたりはまだ許容範囲内(冷静に考えるとそれもアウト)だが、そこまで行くとデッドラインだ。社会的な。私の。
彼女が寝ぼけた今何をしようか察した私は、先程までも焦っていたがさらに大きな焦りを得た。
頭の中がうるさくなる。どんな方法でもいいから彼女を止めないといけない。思考が埋め尽くされる。
基本冷静な対応を心掛けている私だけど、今ばかりはしょうがない。
近所迷惑だとかは後で考えよう。
焦りによって目を回すまま大きな息を吸い、彼女の唇が辿り着く前に――
「起きてくださいチロメさん!!!」
自分にできる最大限の大声を出した!
すると唇が触れ合うその前に、彼女の顔がぴたりと止まる。
「……えっ?」
ようやく、ようやく目の前の彼女は起きて下さったようで、目に意識を灯してくれた。
困惑の声。
私は彼女に見つめられたので、にっこり笑って彼女を見つめ返す。
密着した体、少し動けば唇同士が触れ合ってしまいそうなほどの距離。
彼女の吐息を頬に感じる。
「ようやく起きて下さいました? チロメさん」
「え、え、えっ……? げ、現実?」
「そうですね、現実です」
むぎ、と私は現在進行形で抱きつかれている。
あちらが喋ると私の顔に少し吐息がかかるくらいの距離で、互いが互いの体の感触が分かる。
随分と随分な体勢だ。あらゆる意味で。
意識が覚醒し、自分の状況を知ったのか。
彼女はさーっと顔を青ざめさせて、その後私にぎこちない笑みを向けてきた。
「あ、あはは……ど、どうしてリダムがここに?」
「あなたに呼ばれたからです。チャイムに出ないチロメさんを起こしに行こうと家に上がらせてもらいました」
微笑みを顔に張り付けたまま私が彼女の問いに答えると、「ああっ! そういえばそうだったね!」と声のピッチを上げてそう答えた。焦っているらしい。
そんな彼女に私はとりあえず冷静に言葉をかける。
「あのー……それよりこの体勢、先にどうにかしませんか? この体勢はあまりよくないと思いますし……」
「わ! ご、ごめん!――って、きゃっ!?」
バッと勢いよく私から離れる。
と、その勢いが強すぎたのか彼女は後ろに倒れていき、そのままベットから床に落ちてしまった。
急なことに反応できなかった。
「だ、大丈夫ですチロメさん?」
「う、うーん……だ、大丈夫……」
ドジだった。
もう少し落ち着いてほしい。
ベッドから落ちるのは危ない。
まあ、ベッドから落ちる際にふとんも同時に巻き込んだらしく、それが緩衝材になってケガなどはしなかったようだ。
「……ほんとにごめんね、リダム。こんな朝っぱらから」
「大丈夫ですよチロメさん。えーっと、こんな日は誰にでもありますから……」
布団で干渉できたとは言え少しぶつけたらしい頭をさすりながら、チロメがゆっくり立ち上がり、私にそんなことを言った。
そんなチロメの声は、どこまでも申し訳なさそうだった。