俺は異世界の冒険者、ではない
女性が鋭い正拳突きを打ち出す。俺は意味がわからず、ただ木偶のように突っ立っていることしかできない。
拳が俺の顔にめり込む寸前に、紅城の手が伸びて俺を後ろに放り投げた。
「アルカ・アリル・ルパロス! 我に力を! 見えざる拳にて敵を打ち倒せ!」
紅城が詠唱すると、彼の手から衝撃波が放たれた。しかし、女性――いや、アレクトーは伏せてかわし、衝撃波は彼女の背後にあった棚を粉砕しただけだった。置かれていた紙の資料が宙に舞う。
「戦いの準備を何もしてないだろう? それでこの距離まで近づかれて、お前に勝ち目があるものか!」
アレクトーは笑い、両手を組む。手の間から、光の剣が出現する。これは確か、俺の小説の中では彼女の主要な武器として描写したものだ。
剣の猛攻が繰り出された。魔法を主な武器とする紅城にとって、これは分が悪い。攻撃をよけながら、何か魔法を詠唱しようとするが、そのたびに剣に襲われ、中断させられる。
「先生! 一時退却だ」
紅城が出口に向かって走り出す。俺もそれに続く。部屋を出て、ドアを閉めると、近くにあった本棚を倒してバリケードにした。だがドアも本棚も瞬時に剣で寸断され、打ち破られる。おいおい、冗談だろ。時間稼ぎにもならないのか。
俺たちはマンションの玄関を転がるように走り抜け、共用通路に逃げた。
エレベーターホールに向かおうとしたが、紅城に襟首をつかまれた。
「こっちだ。エレベーターを待つ時間はない」
うながされるままに進んだ先は、非常階段だ。うんざりするほど長い無機質な階段が、螺旋を描いて折り返しながら下に続いていた。
「ここを降りるしかないのか。キツイなぁ」
「走って降りるつもりか先生。ここは地上二十階だぞ。徒歩じゃアイツから逃げきれない。俺にまかせろ」
「どうすんだよ?」
紅城は質問に答えることなく、俺の身体を抱えると、螺旋階段の中央のすき間に身を躍らせた。飛び降りる気か?
「待て、待てよ正気か? 絶対死ぬだろ」
「先生、自分の小説を思い出せよ。似たような展開があっただろ?」
俺たちは引力の法則に従い、急加速しながら落ちてゆく。
これは駄目だ。もう俺は死ぬ。そう思ったその時、紅城が叫んだ。
「アルカ・ダナン・ルパロス! 我に翼を授けたまえ! 大気よ、巻き上げよ!」
下から激しい上昇気流が吹きあがり、俺たちの身体を持ち上げて速度を相殺する。一階に到達したころには、羽毛が地に落ちるかのようだった。
紅城は俺を床に下ろしてくれた。みっともない話だけど、腰が抜けて、床にへたり込むしかない。紅城の笑う声がした。
「ほら、先生。小説の五十話だったかな? 俺が教会の鐘楼から飛び降りた場面。同じことをやっただろう? 今回もうまくいったぜ」
「うまくいったけど、こんなの生きた心地がしないよ! 現実でやるなよ!」
「現実? 俺は異世界でこれをやったんだぜ? 忘れたのか?」
言い返そうとしたが、頭上で何かが破壊される音がして今の状況を思い出す。アレクトーが追ってきているのだ。
「さて先生、ここは逃げの一手か? それとも戦うか――」
「逃げの一手だよ!!」
紅城はつまらなそうな顔をした。彼は戦いに慣れてるらしいが、俺はそうじゃない。何より、ここは現代日本だ。戦闘なんかやったら警察に捕まる。
「警察に捕まる心配をしてるなら無用だよ、先生。日本の法律じゃ魔法使いを取り締まる法律もない。俺は一度はアレクトーに勝ってる。今は使い魔も味方の援護も道具もないが、勝ち目がないわけじゃない」
「それでも、死人でも出たらMooTubeどころじゃないだろ? 俺たちの未来は無茶苦茶になるぞ!」
そうだ。たとえ正当防衛だろうとなんだろうと、暴力事件なんか起こしたら、俺の小説はどうなる? 書籍化はどうなる?
俺は異世界の冒険者じゃない。
日本の小説家なんだ。もうすぐそうなる男なんだ。
「じゃ、先生、ここの近くの地下鉄駅に行こうか。あそこなら手早く身を隠せるし、人も多い。そうそう見つからないだろう。それから――」
紅城はそこまで喋ったあと、上を向いて詠唱する。
「アルカ・エラフ・ダルカス 我が願いを叶えよ。この地、この場所にありし物すべてを縛り付ける力を、しばしの間、緩めたまへ」
今のは重力制御の魔法だ。ただし、人ではなく、場所に対して使っている。
頭上を見れば、アレクトーと思われる人影が、空中に身を躍らせ、まっすぐこっちに落ちてくる。やばい、さっき紅城がやったのと同じ手段で降りるつもりか。案の定、風の音が頭上で聞こえてきた。きっとあの女が魔法を唱えたんだ。
だが、アレクトーの落下軌道は、途中で急速に遅くなり、やがて彼女は、上に向かって弾き飛ばされていった。悪態をつく声が遠ざかっていく。
「なんだ? 戻っていったぞ?」
驚いていると、紅城が教えてくれた。
「ここの重力を弱めたから、落下スピードも遅くなったんだ。アレクトーはそれに気が付かずに、上昇気流を作る魔法を唱えた。重力に対して気流が強くなり過ぎて、アイツは上に弾かれたのさ。さあ、行こう」