過去を「なかったこと」にはできない
「記述を削るのは、できるだけ避けてくれるか? 先生」
俺の提案に、紅城はそういった。
それぞれ湯気の立つコーヒーカップを手にして、俺たちは向かい合っている。現在、原稿直しの打ち合わせ真っ最中だ。
最初に俺が話題にしたのが、米沢さんからのメールに書かれていたことだった。
原稿を修正しないといけないという事実を、紅城は認めた。
誤字脱字の修正や、足りていない説明の追加については、異論がなかった。
しかし、回収されなかった伏線について、記載を削ることには、あきらかに不快を示した。
「初期のエピソードは、先の展開に迷ってたから、あちこち無駄が多いんだ。ハーレムものにしようかと本気で悩んでたんで、登場する女の子はやたら多いし、途中で意味がなくなった恋愛フラグも残ってる」
「そんな展開にならなくて良かったな。俺は女の子をヤリ捨てするような男は、リアルでもフィクションでも嫌いだし、自分がその同類になるのも嫌だ」
ハーレムものと、女の子をとっかえひっかえする展開はイコールではない。だけど、紅城にとってこの二つは同じようなものらしい。どのみち、そんな展開にするつもりはないから、無駄な議論はしないけど。
紅城を満足させる修正ってのは、どんなのだろう。
悩んで、俺は窓の外を見る。
タワーマンションの一室から見下ろす世界は、俺が暮らしている安アパートの貧相な窓から切り取った光景とは似ても似つかない。紅城は良いところに住んでいるな。このコーヒーだって、良い豆を使ってるじゃないか。
そう。俺は今、紅城の自宅マンションに来ている。これから、打ち合わせのたびにここに来ることになるんだろう。
紅城が口を開いた。
「冒険の初期に出会った女戦士や女僧侶は、そのまんま再登場しなかったけど、あの子たちとの冒険だって、俺は経験済みなんだ。ほら、ゴブリンにさらわれた僧侶を助けに行って、その帰り道の話とかな。あれを削られちゃうと、俺の記憶も無かったことになるんじゃないかって、そんな気がするんだよ」
「そんなもんか?」
「そうだよ。自分の体験した出来事が、出版社の都合で消えたり追加されたりって、怖くないか? ある日突然、兄弟姉妹が増えたり、悪の組織の黒幕が昔の親友だったことになったりしたら、どうするよ?」
そういわれてみたら、それもそうかもしれない。
異世界転生モノは、だいたい主人公が転生するところから始まる。だから主人公に、その異世界での因縁が後から追加されるってことはない。普通はそうだ。
「じゃあ、伏線を削るんじゃなくて、活かす方向でいこう。これから作る展開で、あの二人の女性キャラを登場させるか」
「そうだな。そうしてくれよ、先生」
作るっていっても、もう紅城はこの世界にいる。彼が先の物語を体験するってことはないだろうな。
――ん?
なんで俺は、この男のことを、本気で異世界転生したという前提で話をしてるんだろう?
紅城と一緒にいると、なんだか俺も彼の言葉に引っ張られてしまうようだ。
そういえば、米沢さんや英修社の編集部は、彼のことを本気で異世界転生者だと信じてるんだろうか。売れてる動画配信者だから、商売に利用してるだけかもしれないけど。
ともかく、彼の気に入るように作らないと書籍化は実現しそうにない。これは俺の目の前にある、従うしかない現実だった。
「じゃあ、紅城くん。魔法の詠唱なんだけどね。今どきの作品は魔法にわざわざ詠唱の言葉を描写しない作品が多いから、これも削ろうかと思ってたんだけど、これも現状のままでいいんだね?」
「もちろんさ。流行なんて知ったことか。現実の異世界で、俺は詠唱して魔法を使った。だから、そのままで正しいんだ」
現実の異世界。
その言葉を頭の中で反芻する。なんて矛盾した言葉だろう。
自分では意識していなかったが、なんとなく俺は渋面を作っていたようだ。何か異常なことが起きているのに、それを気づかないフリをし続けていることが、顔に出たんだ。
「先生。前回会ったときも思ったけど、あんた、俺のことを疑ってるな?」
「え? いや、何のこと?」
「とぼけたってわかるぜ。あんたは、俺の異世界の冒険を信じてないだろ?」
紅城の目が、苛立ちを込めて俺を見据えている。俺は返事に困り、しどろもどろになってしまう。
「先生、俺の動画は見てくれたか?」
「ああ、見たよ……」
「でも信じてないんだな? あんたが作った世界の話だってのに」
「そんなこと言ったって、な」紅城の非難するような声に耐えかねて、俺も大きな声を出す。「いきなり現れて、いきなり異世界から戻って来たって言われて、はいそうですかって納得できるわけないじゃないか!」
紅城はそれに答えず、代わりに、両手で印を切った。そしてぼそぼそと、何かをつぶやく。
「アルカ・エラフ・ダルカス! 我が願いを叶えよ。この者を地に縛り付ける力を、わずかに緩めたまえ」
確かこれは、俺の小説に登場した魔法の詠唱だ。
おいふざけるな、と言おうとして俺は立ち上がり、そして、そのまま天井に頭をぶつけた。
痛みで頭を押さえる。なんだ、何が起きた? ああ、視界が揺れている。脳震盪でも起こしたのかも――。
「どうだ、先生。何が起きているか、わかるか?」
紅城はふふんと笑う。人が痛がっているのに、何がおかしい。しかし、視界が変だ。なんだ、なんで回転しているんだ?
「さっき詠唱した呪文は、あんたが小説で出しただろ。何の呪文か思い出したか?」
ええっと、最初のアルカ何とかは大地の精霊への請願の言葉だ。そう設定している。後の言葉は確か……。
「これって、重力制御の魔法か!」
「そうだよ、先生」
俺の視界は、空中で横向きになっている。重力が消えて、手足を動かすたびに身体ごと不規則に回転を続けているのだ。
さっき天井に頭をぶつけたのは、立ち上がろうとして床を蹴ってしまったからだ。空中で手足をバタバタさせるが、無様に空中を漂うばかりだ。俺の手にしていたコーヒーカップも、中身もろとも空中をふわふわと漂っている。
「おい、降ろしてくれ。わかったから。君は魔法が使えるんだ、そうだな?」
「そうだよ。先生」
紅城は、柏手を打つように、パンと音を立てて両手を合わせた。その拍子に俺にかかった魔法が解除されて、俺は床に投げ出される。
「いてて、もうちょっと優しく降ろせよ」
「先生こそ、もうちょっと自分が作ったものに敬意を払え。この魔法は、俺がマタフの絶壁をショートカットしたり、オーガに投げ飛ばされた仲間を助けるのに使ってただろ?」
異世界では、重力の概念が発見されておらず、風の精霊を利用して空を飛ぶ魔法は存在していたが、重力制御の魔法はなかった。この魔法は、紅城が思い付きで開発したという設定だった。現代人の知識のある人間が魔法を使ったらどうなるのか? と想像するうちに思いついたのだ。
「驚いた。ここは異世界じゃないのに、魔法は使えるんだ」
「ああ。俺も何度も実験して確認した。魔法を使うには精霊に請願しないといけないって設定だけど、この地球にも精霊がいるんだ」
「現実に!?」
「そうだ」
紅城は俺のコーヒーカップを空中から回収する。そしてスッと手で押すと、カップは音もなく俺のすぐ近くまで漂ってきた。
重力制御に限らず、簡単な魔法は、自分の周囲の空間に対してかけておくと、一定時間の間、追加の呪文詠唱をせずとも自在に操れる。風を吹かせる魔法や明かりを灯す魔法もそうだ。こういう設定にしたのは呪文の描写ばかりが続いて物語の進行が遅くなるのを恐れてのことだけど、いざ実際にそれが有効に働くさまを見てみると、なるほど便利だ。
コーヒーカップを手に取ってみると自動的に重力制御の魔法は解けた。
「その……米沢さんは知ってるのか? 君が魔法を使えることを」
「知ってるよ。動画配信を始めたのは最近だけど、それ以前から、魔法で人の悩みを解決するサービスはやってたんだ。そこからコネを広げたのさ。今は出版社や広告代理店にもツテがある。今に、政治家だって資本家だって俺に依頼するようになるさ。魔法が使えるのは、世界で俺一人だけだ。俺なら、何でもできるぞ」
平凡な男が異世界で大活躍の末に、成功者になる。これは、王道のサクセスストーリーでは有り得るだろう。
だが俺は、彼の言葉に、何か不吉なものを感じていた。