ゆうしゃがあらわれた!
編集者との約束の当日、俺は有給をとった。
何年かぶりにビジネススーツを身につけて、いつもは使わない革の鞄を手に、電車に乗り込む。
何度も時間を確認する。そわそわして落ち着かない。スーツなんて着慣れていないから、なんだか場違いな仮装でもしているかのようだ。いつも着ているジーンズや安物のシャツやジャケットよりも、もうちょっとマシな服装をと考えたら、これしか思い浮かばなかったんだ。
ああ、こういうときのために、もっとオシャレな服装ができたらいいのに。そう悔やんでも、いまさらどうしようもなかった。
編集者との約束の場所は、英修社の近所にある、ありふれた喫茶店だ。行ったことのない場所だったけど、事前に地図アプリで下見もしたし、道に迷う心配はない。
最寄りの駅で降りて、喫茶店へ続く表通りを突き進む。すれ違うのは、スーツ姿のサラリーマンたちだ。
俺は、学生時代の就職活動を思い出す。確かあのときも、名前を聞いたこともないような企業の正社員の座を得るために、見知らぬ街を走り回っていたっけ。
ま、結局は正社員になれず、非正規としてずーっと先の見えない生活を送る羽目になったんだけどな。
予定よりちょっと早く、喫茶店の前まで来た。
落ち着け。落ち着け。
俺は深呼吸をして、自動ドアのボタンを押そうとして、ためらう。メールの文面を一言一句、思い起こす。大丈夫だ。何も間違いはしてないはずだ。
後ろから現れた女性客が、邪魔そうに俺をよけて通り、ドアを開け、店に入っていく。入口を塞いで立ち止まっていたら、俺は不審者そのものだ。
意を決して、ドアをくぐった。
店内を見渡すと、意外に早く、求める人物は見つかった。テーブル席の一つに、何冊か、目立つように英修社の雑誌が置かれている。そのテーブル席には、スーツ姿の女の人と、もう一人、俺と同い年くらいの男がいた。
あのスーツ姿の女性は編集者さんだろうか。名前は米沢晶さんというらしいけど、男性か女性か、確認してなかったな。
それで、もう一人は何だ?
別の編集者? それともイラストレイターだったりして。
いやいや、まだイラストレイターを呼んで打ち合わせするような段階じゃないだろ早まるな。
「あの」と、テーブル席の二人に、思い切って声をかけてみる。二人が振り返る。
自分のペンネームを告げると、スーツ姿の女性が、営業スマイルを浮かべて立ち上がった。
「どうも先生。私は英修社・ノヴァノベルスの米沢と申します。よろしくお願いします」
米沢さんは、綺麗な角度で礼をした。いかにも頭を下げることに慣れているみたいな所作で、下げられた俺の方が恐縮してしまう。
眼鏡をかけた、小奇麗な人だ。二十代後半くらいだろうか。外見通りに仕事ができる人だったらいいな。
自然な手つきで差し出された名刺を受け取って見てみると、そこには、確かに英修社のロゴが印刷されている。掲載されているメールアドレスも、連絡に使ったものと同じだ。やはり、本物の編集者のようだ。
ちなみにノヴァノベルスというのは、英修社のライトノベルレーベルの一つだ。他にもいくつかレーベルはあるけど、その中で、Web小説を扱うのがこれだ。質のいい書籍化をしてくれる編集者がいると評判だけど、その一方で、打ち切りの判断も早いという話も聞く。
この人が、俺の将来を握っている。
そんな認識が実感とともに浮かんできて、俺は大きく頭を下げて挨拶した。
そのとき、もう一人の人物が立ち上がる気配がした。
「鏡先生。お会いするのは初めてですが、あなたには大変感謝しています。まずは、お礼を申し上げます」
その男。俺と同年代くらいの男が頭を下げた。そして、下げた頭が戻ると同時に、それが誰なのかに気が付いた。
「え?」
俺は虚を突かれる。男が言った。
「紅城直哉です。先生の作品どおりに行動したら、異世界の冒険が上手くいったんです。帰ってこれたのは、先生のお陰です」
「え、あの……なんで?」
助けを求めるように、米沢さんを見ると、彼女はスマイルを崩すことなくこう言った。
「紅城先生には、私も編集部もお世話になっております。今回の書籍化の件は、紅城先生のたってのお願いによるものです」
「え? 紅城……先生って」
ぽかーんと口を開けたまま、俺の脳みそがフリーズする。
紅城直哉(と名乗る正体不明な男)は、俺の肩をポンと叩き、一転、くだけた口調でこう告げた。
「突然のことでビックリしてるんだろうけど、しっかりしてくれ。鏡先生、あんたの指先に、俺の将来と、この世界の未来がかかってる」
「将来? 未来? 何のことですか? 何をしろっていうんです?」
意味がわからず、混乱し続ける俺。紅城直哉はその俺の耳に口を近づけて、囁いた。
「俺の冒険の続きを書いてくれ」