9 帰宅と訪問
「遠くから祈るとはどういう意味だろう」
日が暮れて早々、裏門を開ける準備もしていないといのに、サイラスはやってきた。夜の準備をしていた母や姉たちが、そのしれっとした登場に驚いて固まっている。
「サイラス」
「やあ、マリス。手紙をありがとう」
にこっと笑って愛しげに髪を撫でてくる男の手を払い、マリスは睨みあげた。
黒いロングコートの姿は昨日と寸分変わりない。
「裏門を開けていないんだけど?」
「昨夜来たときに印を付けておいた」
「やめて」
「会うことを許されたのだからいいと思って」
「……当主さま、こっそりと、目立たずにと約束したのではありませんか?」
ゆらりとやってきた母が、拳を握って言う。
さすがにサイラスに鉄拳をふるわれてはマズいので、マリスはさっとサイラスの前に立った。即座に後ろから抱きしめられそうになるので、肘で腹を狙って押しのける。
「お前の夫を連れてきたのだが、駄目だったか」
「ようこそいらっしゃいました」
「……母さま……」
「ああ、あなた! おかえりなさい!!」
しゅっと消えたかと思うと、母は裏門を外から開けて帰ってきたマリスの父に突撃をかましていた。さらさらの黒髪に赤い目の、ナタリーをより上等な紳士にしたようなそれが、マリスの父だ。
飛びつかれて驚くこともなく、さっと腰を支えて妻の熱烈な歓迎を受け入れている。
「よし」
サイラスが呟くのを聞き逃さなかったマリスは、隣に立ってコートに手を突っ込んでいるサイラスの肘をつつく。
「生け贄を持ってきたの?」
「失礼な」
と言いながらも、くすくすと楽しそうに笑っている。
「君の両親はとても仲がいいんだな」
「母の愛に潰れない父は大物よ。さらっと受け流しているんだもの」
「じゃあ、マリスのそういうところはフィンに似たんだな」
「母にそっくりって言われてるけど」
「見た目や言動や態度の悪さは院長殿に似ているが、好意の受け取り方はフィンに似ているよ。相手を悪い気にさせないし、かといって適当でもない。けど、全然感触を得られない。こう、癖になるんだ」
「変態っぽいこと言わないで」
「ほう、初めて言われた」
態度の悪さを言われても、マリスは全く嫌ではなかった。
あの手紙の中の自分と、普段の自分に差があって幻滅されていた方が嫌だったのだ。
「手紙通りの人だよ、君は」
「……」
吸血鬼は心など読めない。
けれど、十年来の文通相手には簡単に思考を読まれてしまうのだろう。隠しても無駄なので、というかその方が喜ばれそうなので、マリスは無表情で久し振りに帰ってきた父を見る。
母を下ろすと、すぐに姉たちに「ただいま、娘たち」と声をかける。
いつも姉たちへの挨拶が先で、マリスとナタリーは最後だ。
一人一人の名前を呼びながら、それぞれの仕事について、趣味について、困り事はないかまでさりげなく聞いていく。姉たちも父が大好きなので、嬉しそうに「おかえりなさい」と近況を伝えていた。
柔らかな笑顔や、細めた目元。そしてなにより圧倒的な安心感。
ただそこにいるだけで、みんながほっとする。
マリスの父は吸血鬼だ。
花聖院の娘と婚姻関係を結べるのは、極弱い吸血鬼と決まっている。
父もまた、病弱で決して強いとは言えないが、何よりも心がしなやかな人だった。ほとんど政略的な結婚だったらしいが、相手が父であれば誰でも幸せになれただろう、とマリスは思う。もちろん、そんなことを口にするのは恐ろしくてできない。
「フィンは本当に誰にでも好かれるな」
腕を組んでうんうんと頷くサイラスに、マリスは横目でちらりと盗み見る。
「父はそういうところが便利なの?」
「言い方が悪いぞ」
「当主さま、っていうのに気に入られてからと言うもの、一気に忙しくなったらしいから」
「誤解を恐れずに言うと便利だ」
サイラスの言葉は棘がない。
聞いただけでは辛辣だが、微笑んでいるような優しさがにじむ。
「フィンは人と人を繋ぐのがうまくて、今回の決着についての根回しも無事に終えてくれた。その前は……」
「?」
言葉を切ったサイラスを見れば、彼はにこっと笑って「これ以上は言わない」という姿勢を示したので、マリスも適当に流すことにする。
「それにしても、あなたの存在綺麗に消えてるね」
「そうだろう」
最初はびっくりしていた姉たちも、母も、父が現れた今はサイラスなど空気として扱っている。全くと言っていいほど気にしていない。
これは確かに約束通り目立っていないことになるのかもしれない。
サイラスは満足げだ。
見上げれば、目があってにこっと目を細めてくるサイラスから、マリスはぷいっと視線を逸らす。
ふと、父の周りの人だかりの中から、誰かが動くのが見えた。
白い短い髪に、優雅な足取り。
「……ナタリー」
「あれがそうか」
マリスが思わずこぼした声に、サイラスはいち早く反応する。
「……知ってるの?」
「フィンに聞いた。アレには気をつけるように、と」
「父さまが? ナタリーを?」
「失礼します。ご挨拶をさせていただいてもよろしいかしら」
ナタリーはサイラスの前に立つと、その美しい青い目で微笑んだ。
構わない、とサイラスが言えば、軽く頭を下げる。
「初めてお目にかかります、花聖院の長女、ナタリーと申します。始祖の血族を統べる当主さま、お会いできて光栄です」
「どうもありがとう」
硬質な声だ。
冷たいというよりは、見えない薄い壁が一枚張ってあるような、拒絶とも言い難い不思議な感じがした。
なんだろうか。
とてつもなく面倒な気配がする。