8 花びら
マリスは一人、地下の途中にある完全隔離部屋の前で腕を組んでいた。
ナタリーは先に上がって行ったが、あれからずっと無言で、マリスも何も聞けないまま「じゃあ、三人を送ってくる」とだけようやく言って足を止めたのだ。
「わかったわ。丁重にね」
振り向かずにそう言った青いワンピースの背中と灰色のエプロンの結び目を、マリスはなんとなく見ていた。地下に自分を置いて、明るい地上の光に吸い込まれていく姉の姿を。
まるで、サイラスに恋をしているようだった。
心がざらつく。
マリスはふっと息を吐いて切り替えると、完全隔離部屋のドアを乱暴にたたき、昨日無茶をして院に多大なる迷惑をかけた三人の男を門の外に送るのだった。
青い顔をして憔悴した三人は、マリスに怯えながら感謝を伝え、門を開けてやると一目散に出て行った。
足は綺麗にくっついたらしく、ひょこひょことはしているが、痛みもなさそうだ。ナタリーの腕はやはり素晴らしい。
マリスは完璧な姉に嫉妬などしたことがなかった。
いつも大好きで、自慢で、あこがれの存在だからだ。
嫉妬をできるほど、自分はまだ追いついていない。
朝に輝きはじめた空を、門に手をかけたままぼんやりと眺める。
今日も一日が始まった。きっといい天気だろう。
澄み渡った空を飛ぶ一羽のカラスが空を横切る。
ふと、ひらりと何かを落としてきた。
左右にゆらりゆらりと羽ばたくように落ちてきた手紙は、門から手を離したマリスの手のひらに意志を持ったようにそっと落ちてきた。
「……なるほどねえ」
マリスは呟く。
切手を貼って送った、と言っていたが、こうして郵便受けに手紙を忍ばせていたらしい。ひらりと返すと、きちんと切手が貼ってあった。芸が細かい。
封を開けて取り出せば、いつものように薔薇の香りマリスを包んだ。
『優しい君へ』
始まりの一言はいつもこれだった。
お互い名乗らなかったからだ。
『昨日は突然申し訳なかった。あれから眠れただろうか。今日も朝早くからお疲れさま』
「まるで見てるみたいね……」
マリスが空を仰ぐ。
当然ながら、守られた院の敷地内には吸血鬼の気配もない。
彼らは朝に活動を停止すると言われている。実際は、彼らの暮らしなど見ていないので知りようがないが。
『久しぶりに会えて嬉しかった。一度だけ会った幼い頃とあまり姿が変わらなかったので、すぐわかったよ。君が元気でいてくれて嬉しい。仕事はどうだろうか。負担になっていることはない? 何もできないが、君が話したくなったときにはいつでも聞くよ。君のその役目はとても尊く、そして素晴らしく意義のあることだと思っているが、頑張りすぎないようにね』
いつものように、マリスを労り、慮る言葉が美しい文字で綴られている。
ああ、これだ。
マリスが密かに励まされていた年に二回の手紙は、いつも心を不思議と軽くしてくれた。その言葉の一つ一つが嘘ではないと思えたのだ。
いつも手紙の主は本気でマリスを心配し、勇気づけ、存在を肯定してくれる。血を全身に浴びていた少年の言葉がだんだんと大人びていくのを、マリスはくすぐったい気持ちで読んできた。それが喜びという感情によく似ていることも、わかっていた。
まさか、あんなにも存在感を増した、人離れした美しさを得ていたとは思わなかったけど。まあ、でも確かに「人」ではない。
マリスは苦笑する。
『それからアレのことだが』
と、そこから怒濤の、贄の娘に関する「誤解だ」やら「なんでもない」やら、出会いから仕方なくパートナーになったことがつらつらと長々ったらしく、二枚にも渡って必死に書き連ねられていた。
マリスは無表情にパパッと読み飛ばす。
『不本意なことかもしれないが、これからはこうして今までよりも手紙を送りたい。君からの返事はなくても構わないよ。君がいつも通り、人のために、彼らのために、そして院の家族のために生きていくことを邪魔したいわけではない。ただ、君を想っていることを知って、忘れないでほしい。浮気はしていない。絶対これからもしない。絶対にだ』
力強く「絶対」を書いてある文字に、マリスは思わず眉を下げた。
相変わらず顔や雰囲気に似合わず、感情豊かな人だ。
最後に、と書かれた四枚目には『フィンを今夜返す。彼が帰るまで、裏門を開けないように』と締めくくられていた。
「今夜、ね」
母に伝えればさぞかし大喜びすることだろう。
読み終えた手紙が、はらはらと崩れていく。
薔薇の花びらに変化したそれを、マリスはそうっと両手に閉じこめた。
自室の机の引き出しの奥に隠してある瓶に、それを入れるのだ。
枯れない花びらが詰まった瓶の中に。
そうして、ペンを取る。
『小さかったあなたへ。驚いた。でも、不思議とわかったわ。声も変わったし、背だってにょきにょき伸びていて、雰囲気だって変わってた。でも、話し方は変わってない。手紙のまんまだった。それと、元気そうでよかった。あなたを大切にしてくれる人たちが周りにいてよかった。もう一人で泣くことはないんだろうけど、それでも安心した。いい人たちだね。いつも私の心配をありがとう。私は大丈夫。仕事は相変わらずだけど、あなたの言う意義のあることを続けることに、幸せを感じているよ。あなたが幸せであるよう、遠くから祈っています』
ペンを置き、手紙に封をして、窓を開ける。
宛名も書いていないまっさらな封筒を窓際に置けば、空からふっと黒い影が降ってきた。先ほどのカラスだ。
手紙をくわえてそっと飛び立つ姿をマリスは頬杖をついて見送る。
「そういうことねー……本当に、もう」
呆れたような顔だが、しかしマリスの紫色の瞳はカラスが見えなくなるまでずっと空を追いかけていた。