6 新たな協定
「安心してくれ、院長殿」
やや張りつめた空気を、サイラスが解いた。
マリスは肩を掴まれ、くるりと母の方を向かされる。背中にぴたりとサイラスの温度の低い温もりを感じた。
「俺は今すぐに結婚したいわけではない。もちろん力ずくなどもっての他だ。マリスが、全てを越えて俺の元に来てくれるのを何年でも待つ。一生結ばれなくても、彼女に思いを伝え続けることを許してくれないか。一応言うが、会うなと言うのは無理だ。ただ、お前の娘の身を危険にさらすことは絶対にしないと誓おう」
母が何か言い掛ける前に、サイラスは余裕のある笑みでそつなくその道を塞ぐ。
腕を組んだ母は、ガラの悪い顔でマリスの頭の上のサイラスを見た。
「……マリスの意思を尊重すると?」
「もちろんだ」
「ずっと嫌って言ってますけど?」
「言っているのは、無理、だ。嫌だなど一言も言っていない」
「マリス」
硬質な声で呼ばれ、マリスは浅く息を吐く。
「なに」
「あなたがどうしたいのか言いなさい」
結婚など嫌だと言え、とつり上がった目に、マリスは涼しい顔で答えた。
「結婚は無理」
「ほら」
顔を見なくてもわかるほど喜びに満ちた声のサイラスは、マリスの頭に顔をすり寄せてきた。すぐにさっと避ける。が、両手でがっちりとガードされた。
げんなりとしたマリスと、母の目が合う。
わかっていたが、怒っていらっしゃる。
「……マリス」
「では、マリス。俺が君に伝え続けることは嫌か? それとも無理、か?」
背後からぴったりと寄り添ってくるサイラスが、母の言葉を遮って嬉しそうに聞いてくる。
「それはあなたの自由よ」
「ふふふ、だよな」
「マリス!」
母が気が短いのは生来のもので、同時にかなり心配性で情に厚い人であることを、マリスはよく知っている。遠縁から青い目の子を預かる責任感や、自分の立場の重責を自覚しているからこそ規律と中立に厳しいことも。
それにこの状況は怒って当然だ。
マリスは自分の肩に触れるサイラスの手を払った。
よくわかっている。素直に退けられた手は、名残惜しそうにマリスの白い尾に触れてから離れていった。
「母さま、聞いて。私がサイラスを拒絶するのは問題ないけど、外側がそれに口を出すのを、あの人たちはきっと許さない」
花聖院の院長であろうと、あの吸血鬼達は主を悲しませる者に容赦などしてくれないだろう。
マリスは、彼らに人とは違う次元の誇り高い忠誠心を感じた。いくらアットホームな血族に見えても、それはサイラスと彼らの中で作り上げてきたもので、決して人や自分たちにもそうであるとは限らない。
もちろん母もそのことはわかっているのだろう。
口は閉じて、ぐっと食いしばっていた。
「だから、このままにしておいて。サイラスと私がふざけた駆け引きをしている、というままの方が双方にとって一番安全だと思う」
「その通りだ」
サイラスが頷く。
「俺の立場まで考えてくれてありがとう。マリスは相変わらず優しいな」
「中立の立場を守る為よ」
そう言ってマリスが母を見れば、思いっきり顔をしかめた母は態度の悪いため息を吐いて、ついでに舌打ちをかました。
「それを言われては……仕方がないわね」
でも、とキッとサイラスを睨む。
「娘は絶対に渡しませんから。それに、あなたは私から夫を奪った。私の唯一の人を……夫を……夫を返してください……!!」
ものすごい勢いでサイラスに食ってかかり、わっと顔を覆った母を見て、マリスはうんざりし、サイラスはきょとんとしている。
「なあ、マリス。フィンは俺の知らぬ間に死んだのか?」
「生きてるわ」
「だよな」
「何を言っているのです! 忙しくて帰って来れないのは、あなたのせいじゃありませんか……!!」
先ほどまで悪魔の形相だったが完璧な悲劇のヒロインに転じた母を見て、サイラスは指をさしてマリスを見た。これは本気か、と聞いているのだろう。マリスはうんざりした顔のまま大きく頷く。
「父のことがものすごく大好きなの」
「なるほど」
サイラスは「院長殿」と穏やかに声をかけた。
「わかった。フィンに暇を出す。愛おしいものと離れているのはつらいだろう。期間は一週間ほどで」
「一ヶ月」
「……二週か」
「一ヶ月」
「……」
「……」
「わかった」
サイラスが渋々頷くと、顔を覆ったままの母はそのままぴたりとフリーズした。
「本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
「俺も愛おしいものと離れたくないので接触を許してほしい」
「それはちょっと」
「休暇の後はフィンに残業をさせずに毎日家に帰そう」
「仕方ありませんね」
ああ、困った困った、仕方がないわあ、と母が頬に手を当てて、満面の笑みで言う。
マリスが呆れているのも全く気にしていない。
「ですが、当主さま。表だって会うことは控えていただきます」
「わかっている」
「手紙はいいですけど、それ以外の目立つ行動は絶対におやめください。マリスをここから出すことも駄目です。あなたはマリスをひっそり見守りつつ、こっそり会うことを守っていただけますか」
「もちろんだ」
「ならば許可しましょう」
「ありがとう、院長殿」
二人でガシッと握手を交わしているのを、マリスは表情のない目で見た。
なぜこうもあっさりストーカー協定が結ばれたのか、理解に苦しむ。
ぽん、と肩を叩かれて見上げれば、サイラスは無邪気な子供のような、それでいて妖艶な笑みで言った。
「全ては愛だ」
なにそれ。
マリスの呟きは、ご機嫌な二人の会話にかき消されてしまったのだった。