31 限られた時間の中で
マリスとは違い、ナタリーは緩やかに年を重ねている。
時折、母と見間違える瞬間があった。
マリスとカノンが並べば姉妹に見えるが、ナタリーとカノンではしっかりと親子に見える。献血に訪れた人の中にはマリスとナタリーを親子だと勘違いしている人間もいるらしいが、子供たちは一様にうまくはぐらかしてくれていた。
マリスがカノンと庭から戻ると、ナタリーの隣に初老の男性がぴしりと背を正して立っている。
「ああ」
マリスは苦笑した。
「まだ現役なの?」
「そろそろ身を引こうとしているところですよ」
男も笑う。
昔はなかった皺だらけの顔は、昔と変わらず嫌みったらしい顔をしている。
騎士団の団長を降りてもなお、彼は名誉なんたらかんたらという肩書きを引っ提げて騎士団についてこうして年に一回は顔を見せていた。
「今年で最後です。嬉しいでしょう?」
にっこりと笑う。
マリスは適当に手を振った。
「これは私が相手するから、ナタリーとカノンはいつもみたいに案内してきていいよ」
「ありがとう、そうするわ。カノン」
「はあい。じゃあ、みなさまご案内しますねー」
二人は若い騎士団を連れて「視察」へと消えていく。
廊下の隅で、二人は壁により掛かってその光景を眺めた。騎士団たちは和やかな雰囲気で慣れたように歩いている。昔の騎士団の硬質な空気が、今となっては随分懐かしい。人も変化を繰り返して、最近では吸血鬼という存在に過剰反応しない。
ようやく、長い時間をかけてこの関係が「日常」となりつつある。
「あの子はますます誰に似てるのかわからなくなりますね」
「どういう意味よ」
「容姿は母親似ですが、なんというか底抜けに明るくて健全な気がします。祖母に似て高圧的でなく、叔母に似て態度も悪くなく」
「いい子でしょ」
「ええ、本当に」
「バートは元気なの?」
男にエリカの兄の近況を聞くことも忘れない。
マリスが聞けば、何度も頷く。
「去年末娘にもう一人子供が産まれて、七人の孫のじいさんですよ。家族のいなかった者には見えないほど幸せにしています」
「そう」
「あちらはどうですか。そろそろここまで来ませんかね」
「まだよく元気に訪ねてくるわ。それぞれ別々に来るけど、昔と変わらず仲が良さそう。幸せそうよ。はい、手紙」
マリスは持ち歩いていた手紙をエプロンのポケットから取り出した。
ラーシュから「そろそろ騎士団が来るぞ」といつものように情報をもらい、翌日やってきたエリカから手紙を預かっていたのだ。
エリカとバートの兄妹は花聖院を仲介して、手紙のやりとりをしている。
この男がここに来るもの、この手紙を預かるためだ。
「受け取りました」
そう言って大切そうに懐にしまう。
自分の範疇の者を大切にする主義らしい。それは、マリスに誰かを思い起こさせる。男は老獪ににやりと笑って、皺だらけの手を差し出した。
「他に、預かりものはありませんか?」
これもいつも聞かれることだ。
マリスは顔をしかめて鼻で笑う。
「ないってば」
「預かりますよ?」
「書いてもいないものをどうやって預けるの」
「そうですか、書いていない、と」
悲しそうではない、どこか晴れやかな笑みだ。
「……誰も彼も、本当に世話焼きね」
「いいじゃないですか。心配されるというのは愛されている証拠ですよ。まあ、あなたたちが大変焦れったいのもありますけど。不器用ですよね」
「じじいの言葉は重いわあ」
「悪態も変わらずのようでなによりです」
マリスはしんとした廊下をぼんやりと見つめる。
人は、自分が思っていたよりもすごい速度で年を重ねている。マリスがあれから二十二年だとしても、彼らにとってのこれまでの時間は四十四年。同じ朝が来て同じ夜がきていても、老いるスピードは倍だった。
今までは外側に気を向けていなかったせいで彼らの生きる時間を考えたこともなかったが、いつの間にか誰かさんのせいで、人との関わりが増え、彼らが自分よりも驚くほど早く時を駆け抜けていくことを本当の意味で知ってしまった。
老いていくエリカや、輸血をやめて黒髪が褪せていくラーシュ。
けれども彼らはこれ以上なく幸せそうだ。
寄り添っているところを見たことがなくても、彼らの瞳は満たされている者のそれだった。
「あなたでさえ家庭を持った。人は強いのね」
マリスが言えば、男は笑う。
「強いですよ」
男はもう一度懐に手を差し入れて、マリスが渡した手紙とは違う手紙を出した。
「バートから妹へ、です」
「……だから今回が最後だと?」
「ええ、まあ」
マリスはそれをそうっと受け取ると、皺にならぬようにエプロンのポケットへとしまう。
バートももう、先は長くないということらしい。
手紙のやりとりもこれが最後だ、と。
「と、いうわけで、あなたの様子を報告できる人がここで一人消えることになりますから、大事なことを伝えておきますね」
まだ報告会とやらをしているのか、とマリスが苦々しい表情をすれば、当然です、と目を細められた。
「これから先、贄の娘が選ばれることはなくなります。昨日、そう決まりました」
男が見たこともない穏やかな顔で言う。
マリスが驚きもしないところを見て、くすりと笑った。
「知っていましたか?」
「いいえ。でもいつかそうすると思ってた。昔、手紙で、いつか自分たちに受け継がれる流れを変えたいと書いていたから」
「ふ。それを実行に移すために、自分が贄の娘を手に入れて、そして手放すということをしたかったそうですよ。エリカは可哀想ですけど、結果アフターフォローも万全だったので、どうとも言えませんね」
「……本当にどうしようもないわ」
マリスの声に呆れはなく、慈しむような響きすらある。
それを見なかったことにしてくれて、男はつらつらと語った。
そもそも贄の娘とは、吸血のためではなく、人と恋をした吸血鬼が、想い人と一緒にいられる理由として用意されていたのが始まりだったこと。
吸血鬼と人間が、双方にとって争いのない日常を送れるようになった今、弱点だ贄の娘だ何だというものは自然と不要になったこと。
この形をどうにか整えるために、当主はそれはそれは恐ろしいほどの忍耐力と、辛抱強さと、先導力を持って、綿密にあちこちに根回しをして回ったそうだ。
「誰でもどんな相手でも、一対一で話せばどうにかなる、と言って本当にそうなったのですから、なんていうか、あなたの言う通り、本当にどうしようもない人ですよ。あの人は」
男の言葉に、マリスの表情がふっと解けた。
自分の役目を全うして、慕われている。
彼の周りに味方がいる。
マリスはそれが自分のことのように嬉しく、そして誇らしかった。




