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30 幸せの種類



「マリス」


 呼ばれ、マリスは足を止めた。

 

 振り返れば、忙しいはずの主役が庭で花を摘んでいる。


「……ナタリー、何をしてるの」


 マリスの驚いた顔に笑って、ナタリーは摘んだ百合を抱えてやって来た。ふわりと花の芳香が二人を包む。


「ふふ、花でも飾ろうと思って。せっかくだしね」

「私がするから」

「いいのよ。みんなが嬉しそうに準備をしてくれるのは嬉しいのだけど、暇でね。私も何かしたくて」


 そう微笑むナタリーの表情を、マリスじっと見つめる。

 寂しそうで、幸せそうで、そしてやはり、満たされていた。



 昼間の暖かな日差しの中、今日だけは東の門は開いていない。しかし、院の中は晴れやかな空気で騒がしい。


 

 ナタリーの結婚が決まったのは突然だった。

 彼女はいつものように穏やかな顔で、突然「ああ、そういえば私結婚することにしたの」とまるで明日の天気をどこからか聞いてきたような気軽さで家族に報告してきたのだ。

 母や姉たちが驚くのは無理ないが、父までも驚いていた。ナタリーは誰にも言わずに決めたらしく、その報告からたった半年で今日という日を迎える。


 ナタリーが見つけてきた伴侶は、マリスが想像していたよりもさっぱりとした好青年だった。父のように穏やかそうではあるが派手な雰囲気はなく、落ち着きのあるナタリーの隣に並ぶと、誤解を恐れずに言えば存在感が薄かった。

 けれど、ナタリーが微笑めば、彼は柔らかい空気で彼女を大きく包むのだ。

 マリスが何を言うでもなく、二人はお似合いだった。



「……本当にびっくりしたんだからね」

「ふふ。可愛いわね、私の妹は」

「私はてっきり」


 サイラスに興味があるのかと思った、という言葉を飲み込めば、ナタリーはくすくすと笑った。


「あらあら、私はあんなに派手で存在感の分厚い人は好みじゃないわよ?」

「褒めてたくせに」

「綺麗な顔は好きだもの。もちろん、尊敬だってしているわ。ただ、誰も動かせないマリスの柔らかいところを動かすのがあの人ってことが気にくわなかっただけで」


 しれっと言ったナタリーは、抱えた百合を見つめる。


「……でも、あんなに美しくて怖い人は見たことがないわ」


 その言葉は、幼いナタリーが見かけたサイラスに何を抱いたのかを、マリスはふと感じた気がした。それは確かに初恋のようなものだったと。

 マリスの視線に気づいたナタリーが、眉を下げる。


「私はマリスの相手にあの人が相応しいのか試していただけよ」

「……うん」


 マリスは相づちを打つ。

 ナタリーが純粋に姉として、妹であるマリスの相手を厳しい目で見ていたと言ってくれたことが嬉しい。

 立場など関係なく考えてもいいのよ、と背を優しく撫でてくれたようだった。


「……マリス、あなたに、一緒に背負ってもらうことを謝ればいいのか、感謝すればいいのか、私はまだわからない」


 ナタリーが百合の花びらに触れる。

 マリスはそれを奪うようにして、花を抱えた。


「何言ってるの。謝る必要もないし感謝なんてものもいらない。私がしたいことを私が決めたの。誰にも何も言わせないからね」


 わざと睨む素振りをすれば、ナタリーは青い目を細めた。どこか潤んでいる目はきらきらと青空のように輝いている。





 マリスはその晩のことを忘れられない。





 日が暮れるころになれば、院の中は白い花々があちこちに飾られ、キャンドルは灯され、ナタリーは一人だけ白いロングワンピースを着てブーケを持ち、母と父が裏門を開けると、ナタリーの夫になる人は熱烈に歓迎された。ずっと父に似ていると思っていた姉は、どうやら愛情の傾け方は母に似ていたらしい。


 マリスは悟った。

 院にいてこれからの姉を支えていくこともまた、自分の幸せであることを。

 

 顔見知りの吸血鬼たちまで祝いに駆けつけてくるので、マリスはナタリーがどれほど丁寧に彼らに接し、そして義理の兄となった人も父と同じように誰からも慕われているのかを知り、深い安堵に包まれた。


 これでよかった。

 何も間違っていなかった。


 花聖院は花で満ち、幸せで満ち、喜びで満ちていた。

 マリスの心の中と同じように。





  ○





「あ、マリスちゃん」


 呼び止められて振り返ると、庭で花を摘んでいるカノンが両手いっぱいに百合を抱えていた。

 青いロングワンピースに、灰色のエプロン。

 短い白い髪と、透き通った青空のような瞳。

 微笑む顔はとても穏やかだ。


 そういえば昔もこんな光景を見た。

 あれは確か、朝から夜まで騒がしいほど賑やかだった、ナタリーの祝福の日。マリスが思い出に目を細めると、カノンは明るい笑みで走り寄ってきた。


「どうしたの、花なんて摘んで」

「お母様に言われて」

「ふうん? 何かあったかな」


 子供たちの中で目の色が抜け落ちた子はいないし、祝い事などなかったはずだが、ナタリーが持ってこいと言ったのなら、きっと何かあるのだろう。マリスが花びらをつつくと、カノンはくすくすと笑った。


 カノンは今年で16歳になる。

 ナタリーの娘は彼女によく似ていて、しかし性格はとことん明るい。


 あれからもう二十二年。

 その間に、マリスが姉と慕ってきた者たちは順当に色が抜けて去り、今や花聖院の娘と呼ばれる子たちは、マリスよりずっと年下の「子供たち」になってしまった。

 ナタリーと生まれたばかりの子の世話ももう幾度もしてきて、その中で自分たちが人間よりも休息や睡眠を必要としないことがなんてありがたいことなのかと、初めて感謝した。そして、母の偉大さにも。


 姪を育て、青い目の子供たちを育ててきた。

 義兄はやはり父と同じように頻繁に吸血鬼の区画へと向かい「誰か」の補佐のような仕事もしているらしいし、父と母は慣習通り、カノンが五つになった頃に花聖院を出て行った。



 あなたは一人になります。



 そう言ったティアの言葉通り、着実にマリスの周辺は人が去って行っている。

 けれど不思議と悲しくはない。

 新たな出会いもあれば、約束通りいつも共にいてくれる友人もいる。髪だけは伸ばしていたかったが、あれからマリスの髪は伸びていない。白い尾の様な髪が風になびく。



 二十歳の頃から、マリスはひとつも変わっていなかった。




 

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