10 二人きり
サイラスがナタリーを赤い目でじっと見下ろしている。
「婚約者は? 確か決まっていなかったはずだが」
「ええ。まだ決まっておりません」
「二十五までに決めなければな。ここに来る者の中で気が合う者がいたらフィンに伝えるといい。こちらから強制はしないが、長女という立場ならばどうしても必要になるだろう」
「わかっております。マリスにも必要ですしね」
にこりと愛らしく笑うナタリーは、自らの胸元に手を置いて言った。
「私かマリス、どちらがここを継いでもいいのです。マリスが継ぐのなら、婚約者が必要なのは私ではなく、マリスですわ。相手はどうしても人間を選ばなければなりませんけど、本人もその気ですし。私の目は青いので、ぜひ、力など関係はなく、素敵な吸血鬼の方と結婚したいと思っております」
マリスはその真意がわからないほど鈍感ではなかった。
青い目ならば、まだ、サイラスと共に生きることができる。
ナタリーはそう言っているのだ。
「……無礼でしたか?」
ナタリーが笑う。
今まで見たことのないような、人を射るような目だ。
マリスは隣のサイラスの表情を見ることができなかった。
居心地の悪すぎる長い無言の中、ようやく救世主が現れる。
「こらこら、やめなさい、ナタリー」
穏やかな声色で、父がナタリーの肩を叩き、さりげなくサイラスから離す。
「お父様。お姉さまたちへの挨拶は終わったのかしら」
「終わりましたよ。次はお前の話を聞かせてくれないかな?」
「あら。無粋ね」
「何を言う、救いの神だよ」
ナタリーの肩をつかんだまま、父はマリスに「あとでね」と言うとそそくさとその場を後にした。
「逃げたな」
ぼそりと言うサイラスに、マリスは思わずため息をついてしまうのだった。
「……あなたが幸せであるよう、遠くから祈っています」
なぜか手紙を朗読され、マリスは頬杖をついて睨む。
ローテーブルを挟んで向かいにソファに座ったサイラスは、ロングコートを脱いで長い足を足を組んでいる。結局コートを脱いでも真っ黒な服なので、見た目に変わりはない。
完全隔離部屋に吸血鬼を押し込むことになるとは。
マリスは今の状態に心底不満だった。
もちろん、今朝までいた人間の気配は一切ないように清掃済みだし、ここを使うこと自体五年に一度あるくらいで、困ることもない。
しかし、自分がここにサイラスと閉じこめられるというのはまた別の話だ。
目立たぬように話をする場所として、ここしかないと昨日の夜に母に言われていたが、まさか昨日の今日で使うなどとは思いもしなかったのだ。
手紙を受け取ったのだって今朝だというのに。
「サイラス、暇なの?」
マリスが聞けば、手紙を丁寧に折り畳んでソファの背に掛けていたコートのポケットに恭しくしまってから、にっこりと向き合う。
しまった。取り返すのが先だった。
「俺のことを気にしてくれてありがとう」
「嫌みだけど」
「どこが? 俺の立場でうろうろ出歩くと下の者に示しがつかない、と心配してくれたのだろう?」
「違う」
「照れなくてもいい、マリス」
「違うからね」
はいはい、となぜか向こうが上手のような振る舞いに、マリスは真正面から相手をしてはこちらの分が悪いことを察した。
よし、適当でいよう。
「それにしても、意外にも居心地のいい部屋なんだな」
「そうねー」
「昨日の三人の人間は無事に帰れたのか?」
「うん。足くっついてた」
「マリスが? うらやましい」
「私じゃない。ナタリーよ。私にされたらくっつくものもくっつかないもの」
消すことばかりが得意だ。
別に悲観的に言ったつもりはないが、ふと黙り込んだサイラスを見れば、マリスを慈しんでいるような目で見ていた。
「……なに」
「いいや」
「平気よ。採血をさせてもらえなくても、ナタリーのようにきちんとできなくても、私には私の役目があるってわかってるから」
「ああ、わかってるよ」
サイラスは目を伏せる。
子供に言い聞かせるように。
マリスはその昔、役立たずな自分のことを手紙に書いたことがあった。
姉たちもナタリーも両親も、一度もそんなことを言葉にも態度にも出したことはない。けれど、それが幼いマリスをひどく傷つけた日があったのだ。
今となっては思い出せないほんの些細な出来事たが、悔しくて恥ずかしくて、誰に言っても無駄なような気がして、サイラスに泣きながら夜に文字をつづった。
翌朝、院の外のポストに投函するのに躊躇したが、勢いで書いた手紙であろうと、サイラスへ向けたものは捨てられなかったのだ。
そういえば、その翌朝には返事が入っていた。
急いで書き、届けられたのかもしれない。
「サイラス」
「ん?」
「ありがとう」
マリスはびっくりしている美しい顔に向かって言う。
「会えたときにはこれだけは言わなきゃって思ってたの。忘れてた」
会えるとは思ってはいなかったが、いつか会えたときには、と。
まさかそれがあんなド派手な登場で、しかも当主という立場だとは思っていなかったけれど。
マリスは誤魔化すのが下手だと自覚しているので、幼い頃から伝えたかったことだけは言っておくことにした。
「あなたのおかげで、役立たずな自分の役目に意義を見いだせた。支えてもらってた。ありがとう」
「マリス……」
「だからどうか遠くでお幸せに」
「却下だ」
「ちっ」
「そもそも、その言葉の意味を聞きに来たんだが?」
意味など特にない。
ストーカー協定をどうにか破棄したくてやんわり「もうやめろ」と通達したにすぎなかった。まさか即日直談判に来るとは。
「聞くまで俺は帰らないからな」
感謝を伝えられたサイラスは、マリスと違って輝くような笑みを見せている。




