第0話:思い出話
遠くから吹く穏やかな風のさざめき。薄っすらと香る花の匂い。瞼の裏に微かに感じる陽光。微睡みの意識の中、ルキトはそれらを感じて静かに目を開ける。
「ん…………ここは……?」
澄み渡った青空の下、ルキトは辺り一面に咲く色とりどりの花に囲まれていた。
「やっと起きてくれた」
背後から少女の声が聞こえ振り向くと、そこには白いワンピースを着た零奈の姿があった。驚くルキトに優しく微笑む零奈。
太陽の光に反射して美しく輝く髪の黒、きめ細やかな白い肌、風に乗って香る彼女の匂い、その全てがルキトの今までの苦痛を忘れさせ、和らげてくれるような感覚に陥る。
「……零、奈…? いつッ……」
彼女を深く認識しようとした瞬間、頭に靄がかかったかのような違和感を覚え、意識が沈みかける。今度こそ寝てなるものかと必死に頭を振って意識を取り戻す。
「なんだこれ、本当に、本物……?」
「ふふ、なぁに? 私のそっくりさんでもいたの?」
屈託のない自然な笑みと彼女の瞳の奥の優しく温かい光に、ルキトは懐かしさと喜びに涙が溢れ、滲む視界を払拭しようと両の目をこすった。彼女のその仕草や表情は紛れもなく自分の知っている零奈であった。
ここはどこなのか? 目の前にいる彼女は本物の零奈なのか? これはどういう状況なのか? 疑問は尽きないが、まるで考えようとするのを邪魔する意志が働いているかのように、ルキトは今のこの状態を受け入れていた。
「うん。なんかすげえ似てた。けど冷たいっていうか、ちょっと不愛想だったけど」
「ふーん。なんかそれ、出会った頃のルキトって感じだね」
「え? そうかぁ?」
「そうだよ。ね、覚えてる? 私が同級生の男子に虐められてる時、ルキト助けに来てくれたんだよ?」
ふと、そんなこともあったっけと頭を捻るルキト。言われてぼんやりと過去の記憶が蘇り、遠い昔に公園で虐められてうずくまる零奈と見知らぬ男子二人の姿が思い浮かんだ。
「ああ、確か小学校の時か。あったな、そんなことも」
「酷い! 忘れてたの? 私にとっては凄く大事な思い出だったんだよ? その時のルキトがかっこよくてさ、王子様みたいだった」
「王子様って……夢見すぎだろ」
「その時さ、怪我はないか? ってルキトが言って、私が大丈夫って言ったら、すぐそっぽ向いてどっか行っちゃって!」
「ハハッ!」
当時の事を思い出したのか、零奈は少しむくれっ面になる。遠くの景色が僅かに赤みを帯びるが、ルキトはそれに気付かない。
「ちょっと! ここ別に笑うとこじゃないんですけど?」
「あー、悪い悪い。今完全に思い出したわ。あの時の零奈、この世の終わりみたいな顔してたっけ!」
「するよそりゃ! だって……」
「だって?」
言葉尻が小さくなり、俯く零奈。そんな彼女をルキトは少し意地悪そうに覗き込む。花畑が徐々に赤みを帯びていくが、ルキトはそれに気付かない。
「だって、初めてだったから。家族以外で私に救いの手を差し伸べてくれたの」
「零奈……」
言葉が見つからず、二人の間に沈黙が流れる。周りに咲く花々を食い尽くさんとする赤い花が地面から溢れていく。だがルキトはそれらが見えなかった。
「あー、なんつーか、その、ごめん」
「ううん。別に良いよ。こっちこそごめんね。急にいなくなったりして」
「ん? ああ、気にすんなって。こうしてまた会えたんだし。けど今までどこで何してたんだ? 探しても全然見つからねえし、結構心配したんだぞ?」
「うん、ごめん……でも、自分でも分からないの。気が付いたら知らない場所で、目に映る景色がみんな光り輝いてて、それで綺麗な女の人がいて……その人が思い出せって……あれ? これいつの記憶だろう?」
頭を抑え何かを思い出そうとする零奈。その瞳には困惑の色が見て取れる。
「そっか。まあけど、零奈が無事なら俺はそれでいい」
「ごめんね」
再び流れる沈黙。しかし先ほどよりも居心地は悪くなかった。零奈から視線を逸らしたルキトの目に、そよ風になびく草花の姿が見える。
「にしても良い所だな」
「ふふ。懐かしいでしょ?」
改めて周りを見渡して見てみると、そこは先ほどまで自分が化け物の群れと戦った交差点や街並みなどではなく、澄み切った空とどこまでも続く花畑ばかりであった。
その殆どが赤く禍々しい形をした花であるが、二人はまるでなんでもないかのようにその景色を見つめる。
「あれ、前にも来たっけ?」
「うん。ずっと前に、一度だけ」
そう言って零奈はルキトの隣に座り、そのまま仰向けに寝転んだ。それを見てルキトも同じように脱力して寝転ぶ。
「気持ち良いね。風も、太陽も」
「ん……そうだな」
「ねえ、ルキト」
「ん?」
零奈はゆっくりと上半身を起こす。彼女の背中と風に靡く黒髪がルキトの視界に現れる。
「必ず、会いに来てね」
「え? 何言ってんだよ」
不思議そうに笑うルキト。零奈はすっと立ち上がり、ルキトに向き直って右手を差し出した。微笑みを浮かべたその顔の奥には、どこか寂しさを残していた。
「待ってるから!」
「……んだよ、変な奴だな」
ルキトもゆっくりと身体を起こし、彼女の手を取る。柔らかな感触と彼女の温かさが掌から伝わる。
そしてその手に引っ張られるようにして起き上がると、一瞬で周囲に映る景色が変わった。
「零奈……?」
彼女の姿はなく、唖然と立ち尽くすルキト。
澄み切った青空はどんよりと薄暗い曇天に、どこまでも続く綺麗な花畑は消え、代わりにボロボロに朽ち果て所々が倒壊した、石造りの古く白い建物に囲まれた見知らぬ広場にいた。