プロローグ
南キドニーと呼ばれるこの国には図書館や本屋が多い。
東側に広がる森林地帯には何本かの川があり製紙業で栄え、世界最古の本がある国としても有名だ。
もともと北キドニーと一つの国であったが、国王が二人の王子のために国を二つに分けたと言われている。
それが本当のことかどうかは当時の王族にしかわからないことではあるが、確かに国同士の関係は良好だ。
過ごしやすく穏やかで、国民全員がそれを誇りに思うような、そんな国の首都にある図書館で、その怒号は響き渡った。
「それはないっ!!!!!」
叫んだのは色白のぽっちゃりとした男で、一斉に向けられた視線に気が付いて、すみません、すみませんと、ペコペコと頭を下げ、ズレた眼鏡を外してため息をついている。
すぐ近くの書棚で本を選んでいた女は、男がぶつぶつと何かをつぶやいていることに気が付いた。
思わず叫ぶほどの本とはなんだろう?
なにを呟いているのだろう?
沸いた好奇心に、女は男の背後にそっと近づいて読んでいる本を確認してから、その声に耳を傾ける。
「過去に戻ったとして、貨幣は違うし、生活水準は違うし、無理に決まってるだろ。現に僕は火も起こせないし、井戸の使い方も知らないし、知ってるとして親世代か野営が趣味なヤツ……にしたって道具屋で道具が買えない状況だろ? 事故で訳も分からないまま過去に戻ってその日のうちに生活拠点を見つけるとか、ないだろどう考えても。そもそも言葉って通じる? 通じるんなら古語とか習う意味がないよな? なんであるんだよ古語の授業」
男は眉間を揉みながらかなり早口でつぶやくと再びため息をついた。
女はそうっと男の耳元に口を近づけて、言う。
「いくつかの使わなくなった単語や言い回しはありますけれど、庶民の口語はそれ程問題ではないと思いますよ?」
男は勢いよく振り返ると、口をへの字に曲げ、下顎を数度わなわなと震わせ後、先ほどの独り言と同じ声量で言い返した。
「では君はいきなり目の前の人間が全員歴史劇のような格好で、古い言い回しで、何者ぞ! とか叫び聞かれても笑わないんだな? 僕なら絶対に笑う。そしてその場で不審人物と切り捨てられて、この小説を五行で終わらせる自信がある。つまり六行目からは僕の中でこじつけの惰性だ」
ふんすと鼻息も荒く冒頭まで頁を戻し、女の方に本を寄せる。
女は髪を耳にかけて、身を屈めて文章を読み、体勢を真っすぐにしてから、男の隣席をそっと引いて、腰を下ろした。
「私は主人公と同じく、いろいろな意味を込めて『分かりません』と答えると思うからもう少し行数は稼げるかしら。ああ、でもダメね、状況確認中に後ろで悲鳴があがっても驚く程度で駆けつけないわね。二頁にいけないわ」
男は眼鏡をかけながら、意外そうに女を見る。
「悲鳴があがったらこれ幸いと駆けつけるべきだろう? 逃げ出すきっかけが作れそうだし」
「後ろから切られて終わるんですけれど」
「後ろからか。剣の長さ次第だな。長さの記述はなかったな」
「この時代ならレイピアかサーベル?」
「そもそも単純に過去戻りなのか異なる世界なのかも分かっていないんだし、この段階では想像するにも情報がないに等しい」
「まだ一頁目だもの。この先は?」
「ダメだな。悲鳴の主はひったくりにあっただけでケガもないし、事情聴取中なんだからこれ以上の接点は持てないだろう? 話が変わりそうだ」
「駆けつけるところまで行ったなら役人に彼女は任せて追って良いところでしょう? 結構あっさり捕まえられるみたいだし」
「主人公の足が速い設定か。こんなところにもご都合展開……」
「お礼に家に招かれるのはないと思うけれど。役人について行った方が安全そう」
「え? お礼ならいいんじゃないか? 役人に過去戻りを納得させるより、彼女の方が納得させやすそうだし」
「……このまま交互に選択権を譲渡し続けたら最後まで読めるかもしれないわね」
「……役人がすんなり行かせてくれると思うかい?」
「思わないわ。不審だもの。ご都合展開よ。説明もないし」
二人はため息をつき合った。
結局見開きのニ頁だけで捲ることもなく本を閉じ、男は右手を差し出した。
「クロストだ」
女は差し出された右手を握る。
「スティよ」
二人は改めてお互いを見た。
色白という共通点以外は真逆のような見た目をしている。
クロストは銀髪を耳たぶのあたりから頬に沿って切りそろえており、薄茶の瞳、身長は男にしては低めで、ぽっちゃりとした体形から中性的な印象を与える、可愛らしい雰囲気だ。
スティはゆるりと波打つような黒髪を腰まで伸ばしており、鮮やかな青い瞳、身長は女にしては高めで、クロストより高く、かなり痩せ型で、眼光の鋭さから美人ではあるが、人によっては高圧的な印象を受けるだろう。
そして眼鏡を使用しているという共通点もあったが、選んだものと使い方は全く異なった。
蔓付き眼鏡を常時かけているクロスト。
片眼鏡をぶら下げ、必要な時にかけるスティ。
先程の問答から見た目だけでなく性格も反対側だろうと、閉じた本をなでながらクロストは笑顔を作る。
「最近人気の出てきた作家の初期作品で、これだけ絶版になったと聞いて読みにきたんですが、それなりに理由があるようですね。少し興奮しすぎたようで、お恥ずかしいところをお見せしました」
スティは頷いてほほ笑み返す。
「お気になさらず。かしこまらなくて結構ですよ。大変刺激的で楽しかったので」
時間にして一秒ほど目を合わせた後、さっと視線を外して、言葉を続けたのはスティだった。
「機会があればまた」
「ええ、是非」
もう一度目を合わせて別れの挨拶を告げ、スティは貸し出し受付に歩を進め、クロストは本を戻しに歩を進める。
後にある意味大冒険をともにする二人のそんな邂逅を、
「図書館ではお静かに願います」
と司書はそっと見守っていたのだった。