6ヶ月目
思えば先月の私は暑さでどうかしていた。
この木の幹をわし掴むなんて本当に頭がおかしいと思う。私は自分のうかつさが心底恐ろしくなった。
いつもそうするように、葉の表面をするりと撫でる。滑らかなそれはひんやりと冷たくて、美しくて、そして不思議と柔らかかった。この指先から伝わるものがなにかあればいいと、私は最近毎日葉を柔く撫でている。
今日は、行きたい店があるけれど1人では入りづらいので付き合って欲しいとレオヴァルトさんに言われている。私はもしかしたら、もしかしたらなのだけれど、レオヴァルトさんに食いしん坊だと思われているんじゃないかと疑っている。
§
「今日はここに予約を取ったんだ」
そういってレオヴァルトさんが指し示したのは、大通りに面した1等地に建つ、可愛らしい外装に可愛らしい内装をした、可愛らしくない値段がする洋菓子店だった。
「ここ、有名店で人気店だね……?」
「一度は行ってみたかったんだ」
「女の子にすごく人気なお店だね?」
「だから行っていなかったんだ」
レオヴァルトさんは重々しく頷いた。
「いいかいリナリア、貴女は今日、僕が合法的にあの店に入って飲み食いをするための、いわば盾だ」
「さすがに法には触れないと思うよ……?」
私は恐る恐るそう答えた。まさか高級店には私の知らない法があるのだろうか……私は不安に胸を押さえた。
「あそこは僕にとっての敵地だ。リナリアだけが頼りなんだ、僕の盾になって欲しい」
レオヴァルトさんは真摯な眼差しでそう願った。
「盾になります……!」
私は勢いに飲まれて頷いた。
レオヴァルトさんは鷹揚に頷いたあと、私の鼻をつまんだ。
「そうそう来る決意が出来ないだろうから、僕は今日思う存分食べ尽くそうと思う」
店内に入り、案内された席について、レオヴァルトさんはそう高らかに宣言した。
「リナリアも好きに注文してね、代金は僕が持つから」
「お財布は持ってきたので……」
私は不安に声を震わせながら主張した。レオヴァルトさんとは屋台や気安いお店にしかいかないから油断していたのだ。レオヴァルトさんがわざわざ「行ってみたい店」と言った時点できちんと考えればよかった。事前準備が不足していたのだ……
「いいかいリナリア」
レオヴァルトさんは真剣な顔つきをした。
「リナリアが注文する分は、誤差だ」
「誤差……」
「あるかないかの、わずかな差でしかない」
「なんていうこと……」
私はレオヴァルトさんの本気を感じ取り、ごくりと息を呑んだ。
「だから、心のままに注文して欲しい。僕はそうする」
レオヴァルトさんはなにか重大ごとの指令書を渡すかのように私にメニューを渡した。
「わかった……!」
私は勢いに飲まれて頷いた。
「リナリアはどれにするか決まった?」
しばらく経ってレオヴァルトさんがそう聞いてきた。
「私は……っ私はこの『夢みるガトーショコラ〜ホイップとジェラートを添えて〜』にする……!」
私は決意を込めて宣言した。
「レオヴァルトさんは決まった?」
「何を頼まないかが決まらない」
レオヴァルトさんは真面目な顔でそう言った。
「まさかと思うんだけど、メニューの上から全部くださいって、しないよね?」
私は恐る恐るたずねた。
レオヴァルトさんはしばらくきょとんとこちらを見つめて、それはいいね、と頷いた。
レオヴァルトさんはまるで名案だと言うような顔をしたけれど、一般人にとってそれは名案じゃない。血迷った案だ。提案をしたわけでもない。
私は止めればいいのか伝説をこの目にできることに感動すればいいのかしばらく考えて、レオヴァルトさんなら、彼ならば成し遂げるだろうと見守ることに決めた。レオヴァルトさんは店の人に声をかけて、そして本当にメニューの上から順に全部、と言った。
結論から言うと、レオヴァルトさんは本当に最初から最後まで食べ尽くした。なんなら気に入ったものは追加までした。お店の人の目は泳いでいた。
店を出ても、まだ日が高い時間だった。
レオヴァルトさんは食べるのが早い。ケーキなんて3口で消えていった。でもぜんぜんがっついて見えない。なんでだろう、顔がいいからだろうか。
夢みるガトーショコラは本当に夢に見るほどおいしかった……今夜の夢に出るかもしれない。きっとすてきな夢にちがいないと私はうっとりした。
レオヴァルトさんは特においしいと思ったものを、これは食べたほうがいい、と言って少し分けてくれた。ご相伴に与ってしまって、私のおなかは夢の材料でぱんぱんだった。
私は夕飯が入りそうにないほど膨らんだおなかを大事に抱えてふと横をみると、あんなにたくさん食べたのに、レオヴァルトさんのおなかはいつも通りだった。
ぺったんこ……いや、石壁のおなかを見て不思議に思った。一体どこに消えたのだろうか、と。
「レオヴァルトさんのケーキはどこに消えたの……?」
レオヴァルトさんは、何を言われたんだろうという顔をした後に私が抱え込んだおなかと自分のおなかを見比べて、得心がいった、というように頷いた。
「深層に行くほどこうなるんだ」
レオヴァルトさんは思いがけない言葉を発した。
「たぶん、そう変わっていくんだと思う。深く潜る者は、多かれ少なかれ皆そうだ。一度にたくさん食べて、逆に数日食べなくても生きていけるように」
レオヴァルトさんはふんわりと笑った。
「怖いと思う?」
「すごいと思う……!」
私は尊敬に瞳を輝かせてそう言った。
そっか、と言ってレオヴァルトさんはいつもみたいに笑った。