1ヶ月目
本日3話分公開です
心の木は、神が与え給うた愛の奇跡だ。
人は心の底から誰かを想うと心の木を芽吹かせる。その木は想われた者だけが干渉することを許され、木を厭う気持ち以外では決して枯れず、想いをそそぐことで実を実らせる。
想われた者がその実をもいで芽吹かせた者に与えたとき、その実が真実互いに想いあった結晶であれば、互いの手の甲に神の御印が浮かび上がる。手を重ねれば共鳴し淡く光るその御印は、神が婚姻をお認めになった証だ。
どんな立場も身分差も覆し、決して異議を唱えることは許されない。
神の恩恵を受けて栄え、神に拝謁を賜ることさえもできるこの世界において、神がお認めになったことに逆らうことができる者などいはしないのだから。
とはいえ、通常心の木をそのまま人に捧げる事など考えられない。心を丸ごと誰かに託すなど、恐ろしくてできないからだ。それを傷つけ、壊すことさえできるのだからなおさら。
芽吹かせた者が木を大切に保管し、捧げられた者が心の木に触れられることを見届人が確認すれば婚約と成り、そして捧げられた者は婚約者のもとに日参し木に想いをそそぐ。日々交流を深め結実を待つのだ。
そんな大切で尊い、ここにあるはずがない木を背にし、扉にしっかりと鍵をかけ、私は3日ぶりに家を出た。
§
「リナリアさん大丈夫ですか……?」
冒険者組合のカウンターで、依頼を受けに来た人間とは思えないほどしなびた私に、ミイナさんが気づかわしそうに声をかけてくれた。
「私……あの木が家にあることが怖くて、目を離すことも怖くて、でも私、稼がないと……」
「それはわかるんですけれど、酷い顔色ですよ?隈だってくっきり……休んだほうがいいですよ、ね?」
「わたっわたひっかせがないと……っこのままだとあの木を抱えて無一文で野宿……っ」
「やめてくださいよ!!」
ミイナさんがかぶせ気味に叫んだ。
「待っててください、待っててくださいね!?補助金を出せないか組合長に確認してきますんで!!」
ささやかな蓄えしかないことを知り尽くし、その遠くない未来に恐れをなしたミイナさんが上階に向かって駆け出した。補助金……英雄の心の木保管代なんて、通るんだろうか……前代未聞じゃないだろうか……
「リナリア嬢」
呆然と立ち尽くす私に後ろから声がかかった。のろのろと後ろを振り返れば、すべての原因である人物――英雄様がそこに立っていた。
「この3日間姿も見えなくて、僕は、貴女に酷い負担をかけてしまったんじゃないかと思っ」
「うぷ」
疲労と睡眠不足とストレスと、そして極度の緊張が私に襲いかかり限界を迎え――
「リナリア嬢!?」
「おえ……おええ」
私は英雄に向かって盛大に吐き戻し、昏倒した。
§
「すみません……すみませんでした……」
気がつくと私は組合本部の救護室に寝かされていて、枕元で英雄が心配そうにこちらを見つめていた。
「謝るのはこちらの方だよ、リナリア嬢。どうして貴女が謝ることがあるの?」
「だって私さっきあなたにゲ……」
……ロをひっかけた、は取り繕ってなんと言えばいいんだろう……
「そんな事。普段から魔物の血と臓物に塗れているんだから、想い人の吐瀉物くらい気にもならないよ」
私にはその一片すら手に出来ないすごくすごい鎧にゲロをひっかけられたのに、英雄は気にしないでと笑う。
「それよりも、僕は貴女に謝りたかった。心を捧げたことに嘘偽りも後悔も一切ないけれど、それが貴女に酷い負担をかけてしまった。本当にごめん」
3日間、私が部屋に閉じこもってあの木から目もそらせずに震えている間、彼は私と交流を深めようと、話をしようと私を探してくれていたのだ。彼の心を持ったまま姿を見せない私をただ案じて。自分の心のありようよりも私の事が心配だったと言外ににじませて。
「……どうして」
私は3日間ぐるぐると考えていた事を口にした。
「どうして、私だったんですか?その、関わり合いも、なかったじゃないですか」
「どうして、か……時折見かけて、可愛らしいなと思ったのが最初なんだけど」
英雄は真面目な顔をして私に向き合う。
「浅層の草原で、みんなが気付かずに踏みつけにしたり適当に引きむしったりする薬草を、丁寧に採取する貴女を見かけたんだ。その時の貴女はとても真剣で、視線を奪われて……そうして見ていると、貴女は満足そうに笑ったんだ。その瞬間に、ああ、いいなって」
心を奪われた、とそう言って英雄は優しく微笑んだ。
その言葉は、微笑みは、疲労と睡眠不足とやらかした事ですっからかんになった私の心に驚くほどすんなりと、すこんと落ちて染み渡った。
「あの、私は、リナリアと言います」
ベッドの上でできるだけ居住まいを正し、私は彼を初めてきちんと見つめてそう言った。
「ああ、そうか、そうだね。僕はレオヴァルトと言います」
英雄も、レオヴァルトさんも居住まいを正し私に名乗った。
「貴女が好きです。僕の心を受け取ってください」
そうして、私とレオヴァルトさんの新しい関係が始まった。