040 旅立ち
イナンナが、マスタング公爵領に向けて出発する日。
エリンは最後までジェノヴァ共和国の軍服で、ハロルドやガイと共に警護の任務についた。
見慣れたもので、イスキオス大使館の騎士達は表情を変えることはない。
ただ、マスタング公爵家の者達は同じには至らなかったが。
『君はクリスのことを恨んでるか?』
ルートヴィヒに問われたとき、エリンは何も言葉を発さずに微笑って会話を終わらせた。
恨むより関係を断ちたいと言い切るのも考えたが止めおいたのだ。
姉の為にした事ではあるが。
そもそも、王族と姻戚関係になるのは自由に生きていくには邪魔になる可能性があった。
エリンにも、阻止に参加するに足る理由はある。
家の為、ひいては自分の為。
2年近く足枷になった事実は消えないが、今は前を向いて歩いている。
義兄との要らぬ会話で、姉との関わりを増やすのが面倒だと感じたのも一因である。
『いいんじゃない、エルが思う通りにしたら。僕なんて、姉上からの連絡なんて全然ないよ?あの人、公爵家に嫁ぐまでは何かと喋ってきたけど、嫁いでからは音信不通だもの。必要性ないんでしょ、クロノスの影。』
ユージーンは嘲笑に近い表情だった。
キーナ公爵家を追い込んだのが、現クロノス侯爵家当主シルヴィウスの弟シリウスである事をないがしろにしている。
マスタング公爵家というプレミアム感は、これまでの生活を置き去りに出来るものらしい。
これには、ハロルドも苦言を呈していたが。
『義兄上が割と自由にさせていたようだからね。恋は盲目とかなのかな。』
仕方ないのかと思いつつ、ある程度の家族愛があった筈のクロノス侯爵家に暗い影が落ちている現状にある。
そんな重く暗い空気を払拭すべく、エリンは魔法具作りに精を出した。
寝る間も惜しんで没頭した。
魔法具作りで、チマチマと細かい作業をしてイナンナの出発までに間に合わせたのは、簡単な通信機器だった。
個人の相手先に対する通話と、文字メール機能。
既読か未読か分かるのは、前世のスマートフォンで使用していた有難いアプリを流用するが、スタンプ機能なんて可愛らしいものは無い。
但し、録音録画機能は付けた。
電池の概念はなく、個人の魔力を登録すれば持ち主本人しか使えない代物である為、悪用されない。
イナンナはエリン同様、空間収納能力がある為、普段手持ちにしなくて良いようにと説明を受けており、その存在はルートヴィヒには教えていない。
ユーリによって封じられていたイナンナの魔力は解放された。
不慮の事に巻き込まれる際、自らの防御力が明らかに落ちてしまう為である。
連絡ツールは、ある程度の試験運用が出来れば、グループ内での通話を可能にするつもりだ。
販売権は、ウルク・マルシェに専売させ、利益の3割がエリンに分配される事になる。
「本当は、貴女にマスタング領までついてきて欲しいんですよ?」
「アナ様には、ピースミリオン子爵家とリドレー子爵家の御令嬢方が侍女につくと聞いております。更に幾つかの家門からも呼ばれているとのこと。私などが出しゃばる隙は無いかと。」
「私の目で見て感じたこと、必ず伝えます。都度の返事は不要ですが、シャルロッテ辺境伯令嬢に会う段取りは楽しみにしていますね。」
「シャルに連絡をつけ次第、調整します。彼女は私と異なり、王都にある学院に通っていますので、授業や単位も関わって参ります。アナ様のお会いしたい気持ちは勿論大切なのですが、其方を優先させて頂いても構いませんか?」
「当然です。転移のように不要な巻き込みは、二度としないように気をつけます。」
イナンナが笑いながら言うので、エリンも「そうして下さい」と笑って返すしかなかった。
ルートヴィヒがレオナルドとの挨拶を終え、イナンナのエスコートをするべく、イナンナとエルの方に歩いてくる。
「エル、また会えることを楽しみにしています。」
「アナ様も旅の道中、お身体には充分ご留意を。マスタング公爵領までの道のりは長いですので、イスキオス王国の魅了を十分お楽しみください。」
「ええ。途中で王都にも立ち寄り、陛下にも拝謁する予定なんです。帝国の皇女として、エドワード様とレオナルド様に良きように計らってくださったこと、丁寧に御礼申し上げるつもりです。」
スッと胸に手を当てて礼をしたエリンは、踵を返して護衛の列へ戻る。
入れ替わるようにして歩いてきたルートヴィヒの手を、イナンナは取った。
そして。
優雅なカーテシーで礼をすると、マスタング公爵家の煌びやか馬車に乗り込み、イナンナはルートヴィヒと共にダウナント地区を出発した。
「終わったね、ハロルド。エリン嬢も、ジェノヴァ共和国の軍人にまで扮しての任務、ご苦労だった。それと、ダウナント地区における生活水準向上の為に労力を費やしてくれて感謝するよ。ディエゴ侯爵からも報告が上がってきている。」
「殿下、恐れ入ります。」
ハロルドが答える。
すると、レオナルドは微笑いながら言葉を続ける為に口を開いた。
「褒美を与えたいんだけど、何か望みは?」
一度エリンを見たハロルドは、すぐにレオナルドに視線を戻す。
「離島への上陸許可を頂くために、ロタール大公様に謁見出来るよう繋いで頂けませんか。」
「まさか、それだけ?」
「はい。」
ハロルドが言えば、レオナルドの視線がエリンにも向けられ「他にないの?」と訊く。
しかし。
エリンもまた、ハロルドと同じだった。
「他には御座いません。」
侯爵家とはいえ、当主でもなければ、エリンは成人すらしていないのだ。
レオナルドの推薦は、喉から手が出る程に欲しい褒美。
「うん、分かった。この私……レオナルド=フォス=アステーラス=イスキオスが必ず、叔父上に君達を繋げよう。」




