037 皇女の想い
イナンナ=ニンメシャル=サルゴンの嫁ぎ先は、エルンスト王から正式にイスキオス王国中に触れが出た。
勿論、サルゴン帝国に於いても。
ジュードの戴冠式を終えると同時に、イナンナの輿入れとイシルドゥアに嫁いでくるカタリナ=メンドーサ公爵令嬢の発表がなされた。
王国、帝国、共和国。
それぞれの国の生きる民達が、戦争という負の連鎖を断ち切り、平和な世界を目指すために。
象徴たる代表者らの婚姻に、祝福ムードが漂う。
そんな中。
ダウナント地区に居座ったままのエリンは、ハロルドが借りた家に住み、黙々と魔法具と向き合っていた。
作業着を纏い、工具を使いながら、隊舎の模型を作ってミニチュアサイズの魔法具を展開させ、快適に暮らすための検証を続けている。
「気候に見合った涼しさじゃないと、寒暖差による体調不良は嫌だよな。」
冷房の効きすぎで、外温との差についていけなくなるのは避けたいところであった。
前世でいうところの〝クーラー病〟は長引くと面倒なのは、エリン自身がよく分かっている。
既存の建物を壊さないで、各部屋に繋がるパイプに冷気を通す。
乾燥した空気を少しでも和らげるために、ミストを建物の周囲に出るように調整して、それを隊舎のみならず、ダウナント地区全体の事業として公益化させ、管理する部門の立ち上げと、利用する居宅からの使用料を徴収する利率を計算する。
エリンは数式が元々苦手なので、経費や収益の計算はハロルドや専門家に丸投げしている為、出された数値から改良を続ける作業に只管明け暮れた。
「ふぅん、中々細かく再現されていますね。」
不意に影が出来た顔の横から声が聞こえて、エリンは作業の手を止める。
「アナ様。今日は、マスタング公爵様との顔合わせと婚約の調停式ではありませんでしたか。」
「あら、エル。よーく覚えてくれてるんです?支度がありますのに来てくれないから、遊びに来てしまいました。」
調停式は、午後開始。
現在の時刻は、午前7時半。
風呂に入り、肌を磨き上げてから香油を塗り込み等々、時間はかかるはずであるが、イナンナはそれを望まなかった。
ちなみに。
エリンがイナンナの事を〝アナ〟と呼ぶようになったのは、ここ数日のこと。
呼び捨てにするより、サルゴン帝国の皇女自らが呼んで良いと認めた愛称に様付けをすれば、よりプレミアム感が出るのではないか、というイナンナの案に、エリンは苦笑するしかなかった。
なぜ、イナンナがエリンの周辺にある事情を汲んだ行動をしているのか。
明らかにされてはいないが、イナンナはエリンに対して一言のみ伝えている。
『主だった中身が違えど、台本通りにいかないことを教えて差し上げることが大事なんです。』
イナンナが放った言葉。
きっとエリンが知らない流布があるだろう言葉。
どう受け取るかは本人次第だが、それは本来、エリンが避け続けていた〝可能性〟でしかない。
俗に言う。
転生+ざまぁ展開+続編+???という展開。
「今日は、ルートヴィヒ=マスタング公爵様しかお見えになられないそうです。エルはまだ、義兄を直接見てはいないのでしょう?」
「はい。」
「ならば、敵になり得るか、味方になり得るか。エル自身の目で確かめなければなりません。私のことを利用してください。そうすれば、貴女の選択肢にすべき材料は増えるはずです。」
エリンは眉根を寄せる。
訝しがるエリンをよそに、イナンナは微笑う。
「貴女は不文律な存在です。ハロルド=クロノス、ユージーン=クロノス、シャルロッテ=ラディースやフィリップ=ラディース。そして何より、エドワード=ノア=ガルディオスや、その兄であるラファエル=シア=ガルディオスも同じく。私は、私の選択した事が間違っていないと信じます。貴女には、いずれ全てお話したいのです。」
「アナ様?」
「ふふ……貴女様を巻き込んだのは、間違いなく私です。ですので、クリスティ=マスタングがどれ程の存在たるか、見極めるつもりですので安心なさってください。」
浮かべた笑みと、下がった目尻は虚言を言っているようには見えなかった。
イナンナは満足したような表情を浮かべると、エリンの手を取る。
「さあ、行きましょう?貴女自身の目で、いろんなものを見て下さい。私とは異なる角度に映る人の形は、この世界で私が生き抜く為の糧となります。」
「この……世界で?」
抜粋したエリンの言葉は、イナンナにとって一番欲しいものだった。
満足そうな笑みは、更に破顔する。
それはきっと。
今まで見てきた誰よりも綺麗で、嘘偽りの無い笑顔。
エリンは、暫し瞬きを忘れる。
「勝ちとりましょう、エル。悪役令嬢である因果律から抜け出した悪役令嬢が〝ヒロイン〟であると北叟笑む粗末な方から……自由に繋がる道筋を。好きな道を進むために、必要な戦いは直ぐそこです。」




