019 着替えと朝ご飯
目を覚ましたエリンは、なんの夢も見なかったためか身体を起こしても眩暈を感じなかった。
ぼうっとしながら、ラベンダーが一面にあった景色とは違う様子に、ゴソゴソと動いてベッドを抜け出して立ち上がった。
「エル、おはよう。」
「ハ…ロル、ド。おは、よ…う?」
辿々しいながらも喉から発せられた自分の声が頭に響いて痛くならないことに、エリンは目を瞬く。
(声、)
エリンは左手を喉に当てて「で、た…」と言の葉を紡いだ。
優しい笑みを浮かべたハロルドは、エリンを優しく抱きしめると頭を撫でた。
エリンもまた、それを素直に受け止める。
心の何処かで、頭の片隅で。
都合よく〝侯爵家は忘れていい〟と言ったハロルドの言葉を甘受している。
物事を都合よく解釈していたのは前世の頃も同じだが、そうする事が自分を保つ為に必要なものであると分かりながらも、理不尽な階級社会や貧富の差で、いつからか諦めるようになっていた筈なのに。
麻薬かのように、都合の良い言葉はエリンを縛り付けていく。
「近くにある村に到着するまで、後少しだ。お嬢、服を着替えて。今のままだと、風邪引く。」
室内を歩くノアがソファに置かれている服を指示しながら言えば、エリンはハロルドから離れ、ゆっくりと歩いていく。
服を選ぶ合間に、二段ベッドの柱上に繋がれたロープを引けば、簡易の脱衣場が出来上がる。
木綿生地の青と黄緑の淡いブラウスに、ベージュを主としたチェックのキュロットは、動きやすいものだった。
チリーン、と室内にベルが鳴れば、扉の横に備え付けられたランプに明かりが灯り、3人に目的地に到着したことを暗示した。
ホロ付き馬車を降りた先には、簡単な柵で大きくグルっと集落を囲んだあいまに門扉の無い出入り口が鎮座し、木造の住宅が点在している。
長閑な田園風景。
牛や山羊が飼われており、村では朝の活動が始まっている。
「ご利用ありがとうございました!またお会いした時は、宜しくね!!」
魔法宿のホロ付き馬車は、首都とは違う方向にカタカタ車輪を回して離れていった。
市も出ており、補給には困らなさそうである。
「ちょー、っと出自が良さげな男と女に、下人って感じに見えてりゃ言う事ないんだけどな?」
ノアの服装はそのままだが、ハロルドもまた、魔法宿が備えていた服から適当に見繕っていたのである。
つん、と服の裾が引っ張られたノアは、裾の先にある手の先を見やった。
「ノア…は、下人じゃ、ない。」
だいぶ言葉が詰まらないで紡がれるようになってきた。
「お嬢、って呼んでるのに?」
「ハロルド…と、同じ。エルって呼んで、ノア。」
驚きを隠せなかったノアは、スッと視線をハロルドに向けた。
ノアの視線に気付いたハロルドが頷けば「あー…」と言葉を宙に浮かべながら、右手を首に当てる。
「ノ、ア?私、のこと、エルって、呼んで?」
「分かった。分かったから、エル。服の裾を引っ張るのをやめてくれ。」
パッと手を離したエリンは、ふわりと笑う。
2年余り殆ど変わることの無かった、変わったとしても、苦痛な表情にしかならなかったものの変化に、ハロルドもエリンも軽い空気を持てた。
それが歪なものであろうと。
2人にとっては、エリンの前世など知らない、脳内を侵され続けて捻れた心があろうと、傍目には分からず、引きこもりがもたらした白い肌に赤みがかったオレンジ色の髪が映えるだけの少女である。
「それじゃあ、見て回ろうか。おいで、エル。」
ハロルドが右手を差し出せば、エリンは左手を出して握りしめた。
歳が9つ離れているが、別に違和感は無い。
2人の少し後ろを歩くノアは、身長差はあるものの、腕が触れる距離感で歩く姿を見て、このまま時が過ぎれば良いとすら感じていた。
心が乱れない環境にあるのなら一番なのだが、穏やかさを崩したのは喧騒とした声。
「お客さん、お代を払っとくれよ!」
「そうなんです?『ウチのトマトは他より甘いから食べとくれ』と言われてましたから、てっきり良いのだと思ってしまいました。」
「ちょっ…!すみません、僕が支払いますので。」
金色のツンツンした髪に蒼い目をした男が、キョトンとした翠色で緩やかなウェーブをした髪の女が野菜を売り物にしていた店主と対峙している。
(おいおい、マジか?!)
2人を見たノアは、ヒヤリと肝を冷やす。
(なんでいるんだ?此処はジェノヴァ共和国だぞ?帝国は敵国だろうがよ…!)
「エル、なんか欲しいのある?朝ごはん食べてないし、食べれそうなのあったら教えて。」
「新鮮な、卵で作った、サンドイッチ。」
「うん、美味しそうだね。俺も同じにしようかな。ノアはどうする?」
「え?あ、ああ……一緒でいいよ。果実水も買っとけば栄養補給出来るだろうし。」
視界の端に気になっていた2人組を入れながら、ノアが支払いを済ませる。
近くにあるテーブル席で食べた。
(ハロルドとエルは、まだいい。イスキオスの人間だといっても、ギルドに籍はあるし、侯爵家で特許資格持ち。それに一応、俺がいる。だけど、アイツらは違う。この村に共和国で顔の判別が出来る奴が来たら終わるぞ。)
立ち回り方をどうするか、思案を巡らせる。
既に糸は絡んでいるのだが、この時はまだ誰も知る由は無かった。




