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3つのお題シリーズ

朱鷺色の涙

作者: 安住 八重

 黒い革製のパスケースをセンサーに当てると、ピッと音が鳴った。東側はかすかに明るくなってきたものの、外はまだ暗い。白い蛍光灯が、駅構内を煌々と照らしていた。


 家から最寄りだったこの駅も、しばらくは利用しなくなる。


 グレーのコートを着た背中にはリュックサック、左手には小さなスーツケース。これから彼は東京まで特急に乗り、その後羽田空港からジャカルタへ飛行機で行くのだ。長い長い単身赴任生活の始まりだった。


 特急列車のホームへ下りる階段には、暖かそうな服に身を包んだ、自分と同じくらいの年齢であろう人達がまばらにいた。もっとも、その中で一番大荷物を持っていたのは彼だったが。


 自動販売機で買った缶コーヒーの温もりが、彼の手から全身へと伝わっていく。一月の早朝は、想像以上に寒さが厳しい。


 朝早くの出発だったために、幼い息子に行ってきますと言うことはできなかった。寝ているところを見て、そっと部屋のドアを閉めたのだ。


 この春四歳になる晴翔は、長い間海外へ行ってしまう自分のことを忘れないでいてくれるだろうか。ホームの向こう側を見ながら、そんなことを考えていた。


 彼が見ている方向には、家族と住んでいたマンションがある。今日の朝六時前、妻と眠そうな長女さくらに見送られて、彼は慣れ親しんだ家を後にした。


「間もなく、八番線に上り列車が到着します。危ないですから、後に下がってお待ちください」


 薄暗い線路に、二つの明るい光が見えた。みるみるうちに近づいてきたそれは、あっという間に彼の目の前を過ぎ去っていく。一陣の風の後に、特急列車のドアが開いた。


 ドアの側にある座席表を見て、彼は自分の席を探す。

 五号車八列目のA席。数日前の予約の段階では、隣は誰も予約していない空席だった。


 新年の頭、三が日明け。まだ暗い朝の列車はがらがらに空いていた。この車両に乗っているのも、彼を含めてたったの三人だけである。


 彼は布製のスーツケースを、座席の上部にある荷物棚に入れた。機内に持ち込めるサイズのスーツケースには、一泊分の泊まりの用意が入っている。他の荷物は全て事前に航空便で送ったので、手持ちの荷物は然程多くない。


 彼が座席に座ると同時に、体が後ろに引っ張られた。ホームの景色が動き出して、リュックサックに付けたいちごのマスコットがびよんと揺れる。


 学校で手芸クラブに入っている娘が一生懸命作ってくれた、不恰好で色鮮やかなマスコットだ。ところどころ縫い目が変だったり、何度もやり直したように針の穴が空いていたりする、世界に一粒だけのいちごだった。


 結露した窓を指で擦ると、まだ起きていない街の姿が彼の目に飛び込んでくる。見慣れた街のはずなのに、特急列車の車窓から見るそれは別の街のようだ。


 リュックサックを膝に乗せてファスナーを開けると、中から僅かに海苔の匂いがした。


 これから三年ほどは食べられなくなる、妻が作ってくれたお弁当だ。特急の中で食べやすいようにと、おにぎりを作ってくれたのである。


 彼は灰色の巾着袋を取り出して、座席の折りたたみ式テーブルを広げた。巾着袋を開けると、二つの大きなおにぎりがアルミホイルに巻かれて入っていた。


 そのうち一つを手に取って、できるだけ音を立てないようにアルミホイルを剥ぎ取る。炊き立ての白いご飯をよく乾いた黒い海苔で包んだ、彼の大好きなおにぎりだった。


 一口食べると、白米の柔らかな甘みが口いっぱいに広がった。


 中の具は、折り畳んだ目玉焼き。目玉焼きのおにぎりは、コンビニでは買えない彼の大好物である。前にぽそりと言ったことを覚えていて、出発の日にこうして持たせてくれた妻を思うと、彼の目の奥がツンと熱くなった。


 香ばしい油を吸って艶を増した白米は、目玉焼きのおにぎりでしか食べられない風味を持つ。


 彼は、昔から目玉焼きのおにぎりが好きだったわけではなかった。結婚して始めて、その存在を知ったのだ。


 妻の実家で定番だというそのおにぎりは、聞いたときは不思議な組み合わせだと思っていた。しかし食べてみると、ご飯と目玉焼きを別で食べるのとはまた違った美味しさが、彼の度肝を抜いた。


 彼は弁当の中身をリクエストしたことは無かったけれど、「大事な仕事がある」と伝えた日の弁当は必ず目玉焼きのおにぎりだった。彼にとってそれは、緊張していても不安があっても安心させてくれる大切な味だ。


 あっという間に二つ目のおにぎりも、残るは最後の一口となった。


 器用にかじって取っておいた固焼きの黄身と油でやわらかくなったご飯が、海苔の欠片と一緒にアルミホイルの中で輝いている。


 もっと味わってゆっくり食べれば良かった。

 そんな少しの後悔と共に、最後の一口を大切に咀嚼する。ほろりと溶けた黄身は、いつも通りの甘さだった。


 飲み込んで息を吐くと、温かな満足感と冷たい寂寥感が同時に彼を襲う。妻が握ったこの味はもう、少なくとも次の帰国までは食べられないのだ。


 彼は缶コーヒーを開けて、口周りの油とともに喉へ流し込む。温くなったコーヒーは、いつもよりも苦味を強く感じた。


 アルミホイルを丸めて巾着袋に入れると、何かが彼の指先に当たった。摘んで取り出してみると、四つ折りになったメモが入っていたことが分かる。


 広げると、濃くて大きな文字でこう書いてあった。


「おとうさん、おしごとがんばってね。いってらっしゃい。はると」


 文字の横には、眼鏡をかけた男の顔が描いてある。きっと自分の似顔絵を描いてくれたのだろう。とても上手に描けている。


 その横にあるのは細くて赤い羽が生えた、よくわからない謎の物体。晴翔が見たこともない飛行機を、あれこれ想像して描いている光景が目に浮かぶ。


 愛おしい絵を触ると、滑らかなクレヨンの感触が指に伝わった。


 彼は頭の中に、晴翔がさくらに教わりながら必死で手紙を書いている姿を想像した。もしかしたら字を教えたのは妻かもしれないが、いずれにしても晴翔が一生懸命時間をかけて書いたことに変わりはない。視界がぼやけていく。


 抑えようとしたけれど、彼は嗚咽を止めることができなかった。灰色の巾着袋に、ポタポタといくつかの黒い染みができた。


 いつの間にか窓から、オレンジ色の眩しい光が差し込んでいた。日の出の時刻を迎えていたようだ。赤いいちごのマスコットが、昇る太陽と同じ色に染まった。


 目に当たった朝日を、涙がきらりと反射した。


 彼はポケットのハンカチで目元を拭いて、外の景色を見る。触れると冷たい窓の外には、朱鷺色の空と逆光で黒く見える山が広がっていた。


 見慣れた街の景色はもうどこにも無く、随分と遠くまで来たことを実感する。彼は自分の新しい生活がこの朝焼けのように、そして綺麗に晴れるだろう昼間の空のように、清らかで心躍るものになることを願っていた。


 少し湿ったハンカチからは、微かに柔軟剤の香りがした。

三つのお題は、「目玉焼き」「マスコット」「座席表」でした。

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