目覚め Ⅱ
漆黒。
暗転した意識。
落ちて、落ちて、落ちて行く。ひたすら漆黒の中へと沈んで行く感覚―――だがそれは途切れる。誰かに、何かに腕を引っ張られるように引き上げられるような温かみを感じた。誰かに救われたような気がした。
知覚出来たものはない。
今、この瞬間までは。
「けほ、けほ」
咳き込む勢いで意識が覚醒した。
飛び起きるように体を持ち上げるも、全身に軽い痛みを感じる。僅かに熱を帯びた体はまるで風邪を引いた後の様な感覚だった。だが生きて、無事だというのが解った。起き上がったのと同時に体から落ちるベッドシーツで自分の体が人の形をしているのが解った。人の姿をしている、という事は夢だったんだろうか? あれは。
「いや、違う……」
喉から上がってくる自分の物とは思えない声。これは現実だ。あの逃走劇は間違いなく存在していた事で、自分はあの滝から投げだされて何とか生き残ったのだ―――マジで? 人間、割と何とかなるもんなんだあ……俺、人間じゃないっぽいけど。
「そうだ、人間。俺、人間じゃなかった筈だけど」
目覚めて早々、自分のボディチェックに入る。両手を見れば自分が人間だって解るし、首に触れても人間の肌の感触が―――あ、違う。首の横、筋の辺りを触れてみる。そこには鱗がくっついていた。すべすべとした感触は触れてみるとくすぐったさと心地よさがある。どうやら完全に人間になった訳じゃなく、龍人とでもいうべきものになっているようだった。状況が状況なら両手を万歳しながら喜んだり楽しむようなシチュエーションなのだが、
今は素直にそうやって喜ぶ事も出来なかった。
ただただ、純粋に恐ろしい。
自分が何なのか、何を見たのか、何でここにいるのか、どうして助けられたのか。何も解らなかった。ただ解るのは自分が日本とは全く違う、魔法やドラゴンのいるファンタジー世界へと連れ出されてしまった事だ。自分の姿も、記憶にある姿とはまるで違う。
目の前に視界を遮るようにかかる長い髪は白く見えるのに、ハイライトがかかるように右の髪の一部は黒く染まっている。吐き出したあのブレスの様に白と黒で髪の色は染められている。こんなファンタジーな色合い、絶対に現実では無理だ。それに鱗の生えている人間なんて存在しないし、頭を触ってみれば角だって生えている。
こんな人間がいてたまるか。
それに、
「俺、女になってる」
出てくる声が明らかに男のそれじゃなくて、少女のそれだ。それも年のころは8とか、9とか、それぐらいの。手も小さく、子供の手になっている。記憶の中にあった育った男の手とはまるで違う。若返った事を喜ぶべきか、それとも男じゃなくなったことを嘆くべきか。それとも怪物として転生してしまった事実に絶望するべきか。何もかも飲み込めずにいて決断を下す事が出来ずにいた。ただ今、柔らかく清潔なベッドの上にいて、着ている物も新品のパジャマの様に思える。つまり誰かが助けてくれた、という事なのだろう。
「やっぱり女の子だ……」
パジャマの胸元を持ち上げて軽く浮かせて中を確認し、それから下の方も軽く引っ張って確認する。やっぱりあるべきものがない。完全に女になっている……とはいえ、体の構造は鱗と角がある事以外はどうやら普通に人間と同じらしい。あの龍の体だった時と同じような翼や、尻尾は見えない。それがない事だけは救いだろうか。
「どうしたら、良いんだろうなあ……」
ベッドの上で膝を抱えるように蹲る。異世界転生とか異世界チートとか、そういう事で盛り上がる様な段階は既に通り過ぎていた。あるのは異世界という現実の厳しさと恐怖だった。今はまだ助けられたようだから良い。だけどこれが何時反転するかは解らないのだ。思い出すのは悪だと断じて殺しにかかってくるドラゴンスレイヤーたちの姿と、無慈悲な死の宣告。
もう、2度とあんな目にはあいたくない。
でも自分もここもなんなのかが全く分からない。そんな混乱と失意の中、ベッドの上で膝を抱えていると、扉が開いた。
『あ……』
「あ」
扉を開けたのは幼い、銀髪の少女だった。長くウェーブのかかった銀髪にリボンを付けた、令嬢の様に見える少女は扉を開けて此方を見ると、大きく目を開いてから勢いよく飛び出した。
『お父様ー! お母さまー! アンー! 起きたー! あの子起きたー! 起きたー!!』
どたどたと足音を立てて走って行く少女の姿に一気に毒気が抜かれた。少なくともあんな子がいる家が酷い事をするとは思えない。ふぅ、と息を吐いた。とりあえず……命だけは助かったのだろうと思う。これから自分がどうなるかは解らないが、それでも一安心出来たのかもしれない。
そう思ってしばらく、誰かが来るのを待っているととんとん、と扉にノックがあった。
『失礼するよ』
男の声に体を強張らせる。扉を開けて入ってくるのは黒髪のメイドを連れた男だった。娘と同じ銀髪をローポニーで纏め、眼鏡を付けた細身の男。どことなく優しそうな雰囲気を持った男の足元をよく見れば、その後ろに隠れるようにさっきの娘がいた。
『君、3日間も寝ていたんだけど……大丈夫かな?』
男は部屋に入って数歩という所で足を止めた。ベッドの上で体を強張らせたのを見たからかもしれない。まあ確かに、あんなことの後じゃちょっと男は怖い部分もある。どうしても斬られた痛みを思い出してしまい、首元へと手を伸ばしてしまう。
『あぁ、うん。君には近づかないし、乱暴もしない……だから安心して欲しいんだ。その、僕が言っている事解るかな?』
その言葉に頷きを返した。
「解り……ます」
『言葉は通じるけど言語が違うか、参ったな……でも、話が通じるならなんとかなるか』
『本当に? お父様?』
『本当だともリア。まあ、ここはパパに任せてごらん―――まあ、僕は近づけないから世話はアン任せなんだけどね!』
『旦那様、情けない事を堂々と言うのはどうかと思います』
『無理な事は無理という、出来る事は出来る人間に任せる! 我が家はそうしてるのさ! 領地もない弱小貴族だしね、見栄を張る必要なんてないんだ』
えっへん、と胸を張る姿は情けないが……幸せそうだった。普通に幸せそうな人。それがその人に抱いた初めての印象だった。だからだろうか、自分が少し前まで経験してきた事とは違う人の姿にくすり、と笑いを零してしまったのは。
『あ、笑った。笑った! やっぱり笑う姿の方が遥かに良いわ!』
父の足元に隠れていた少女は飛び出してくると、一気にベッドまで近づいてくる。両手をついて目を輝かせながら視線を合わせてくる。その姿と父親の姿を見比べ、呆然とするが、
「この親子こんなキャラなの……?」
『何を仰っているかは解りませんが……えぇ、我が主たる方々はまあ、この様な感じかと』
『ま、ウチは緩くやってるんだ……君も、早く元気になって馴染んでくれると良いな』
「お、おう……?」
そう言うと家の主と娘が退室し、メイドだけが残された。どうやら、自分の世話を見てくれるらしい。黒髪、というのは日本でも見慣れている髪色なだけに中々安心の出来る髪色の持ち主なのだが……顔立ちがヨーロッパ系だったりするとやや違和感が強い。
やっぱり、異世界なんだなあ……と、どこか納得してしまう。部屋から親子が去ってからメイドの……確かアン、だったか。なんかの略だとは思うのだが、そのメイドが近づいてくると失礼します、とベッドの前で一度止まって手を伸ばしてくる。
それに体が一度、びくりと震えた。
そこでアンの腕が止まる。
『申し訳ありませんでした……ですが、お加減を確かめたいので、宜しいでしょうか?』
「あ、う、うん」
『ありがとうございます』
此方が抵抗の意思を見せないと、アンは手を伸ばしてパジャマを脱がしてきた―――今更ながら、見知らぬ少女の体で服を脱がされ触診されているという状況に頭がおかしくなりそうだったが、アンは手を伸ばして鱗の状態や肌の状態を確認する。首から撫でるように胸元まで指を滑らせるのは、そこに剣で斬られたような傷痕があるからだ。あの龍殺しにつけられた傷だ。くっきりと痕になっている。
『斬撃ですね……それも相当な手練れの。深い筈でしたがもう既に閉じ切っている……痕は残りそうですね。それ以外の傷は見当たらない……3日目を覚まさなかったにしては活力の満ち具合や状態は良好ですね。これだけの生命力があるとなると有角魔族辺りでしょうか? ふむ……』
アンはそう言って脱がしたパジャマを着せてくれると、軽く一礼をしながら下がった。
『ありがとうございました。これなら今にも動けそうですが……まずは落ちた体力を戻す為に何か食べられるものをお持ちしましょう。それでは』
アンも去った。1人きりになった部屋で再びベッドに倒れ込む。
「なんなんだよ……」
はあ、と溜息を吐きながら悪態をつく。
「異世界転生ってもっとイージーなもんじゃないのか? 神様に慈悲って奴はないのか……それともこれがそう、って事か?」
真面目に泣きそうだ。
片腕で顔を覆うように隠しながら頭を動かそうとするが、頭から生える角が枕に刺さりそうだったり、壁に当たって頭が動かせなかったりしてちょっと不快。角が生えてるのって結構不便だな。
「……」
数秒間、横になったまま無言で過ごして、秒で飽きた。起き上がると胡坐を組む様にベッドの上に座り直し、両足の裏を合わせてからそれを両手で掴んでふぅ、と息を吐く。とりあえずリラックスできるポーズに自分の姿勢を整えた事でなんとか自分の頭を落ち着かせて、
「とりあえず今の所何が起きているのかを整理しよっか」
そうでもしないと永遠に状況が頭に入ってこない気がする。
「まず、俺は元日本人男性だった。今喋っている言語も日本語だから日本人だったのは間違いがない」
まずここは大前提だ。俺のアイデンティティーが揺らぐともう精神崩壊するしかないしな。もう半ばしてるような気もするけど。とりあえず俺には日本での記憶がある。大学にも行ったし、ネット小説も読んでいる。だから異世界転生のお約束とかテンプレートもちゃんと把握している。
だからもっとまともな状況だったらテンプレじゃんとでも笑っていただろう。
転生直後で特効持ちエネミーガン揃いでリスキルスタートでもされない限りは。改めて思うとババを引かされた感じが凄まじい。とはいえ、運任せで何とか生き残れたのも事実だ。ただあの龍殺し達は色々と重要な情報を零していた気がする。
まず、龍。俺の事だ。俺を見て龍だと言っていた。それ以外にも亜竜というのが存在するけど、最後の龍と名指ししていた以上は、純粋な龍には何らかの価値があるのだろう。そしてその価値は恐らく、宜しい方向にではない。悪、そう呼ばれていた。龍は悪であり、生かしてはおけないと。身勝手な理屈を展開し、龍は絶滅したとも言っていた。
駆逐されたと。駆逐されるべきだ、と。
つまり種族的名声がプラスではなくマイナスに突入している種族。それが真実であるかどうかはまた議論の余地があるが、龍……つまりはドラゴンであるとバレれば即座に狩られる様な立場に自分はあると概ね認識しておけば良いだろう。
幸い、ここの人たちは俺が龍ではなく、魔族とかいう種族だと思っているらしいし、しばらくは安全かもしれない……或いは龍が人の姿になれるという事は知られてないのかも。俺だって何時の間にか人の姿になっていて驚いているのだから。
「はあ……」
今はまだここがどこかとも、何故いるのかも解らない。ただ善良な屋敷の人たちは拾った俺を態々治療してくれているらしいし、今はその優しさに甘えておこう……ただし、完全に信じ切ってしまうとあの龍殺し達を呼ばれる可能性もある。
解らない事が多すぎてどう判断すれば良いのか、それが解らないのが一番辛い。
「どうしたもんかなあ」
予定は空っぽ、頭の中も空っぽ。何も予定はなく、そして何をしたいという気持ちもない。転生した、というべきなのだろうか? その直後は死にたくないという気持ちで溢れていたから即座にアクションに移れた。だが今は命の危機もなく、とりあえずは安全かもしれない場所にいる。そのせいで何をすれば良いかというのが解らない。
「何がしたいんだろうなあ、俺は……」
腕を組んだままごろり、と転がった。地味に角に気を遣わなきゃいけないのが鬱陶しい。
とはいえ、人生に目標のないまま生きて行くというのは難しい。とりあえずは何かをする、という指針がないと人という生き物は簡単に迷ってしまう。何になりたい、何をしたいという考えから大学や科目の選択を行って就職先を決めるのだ。
そういう指針がない人生というのは実に危ない。
とはいえ今は特にやる事もないからなあ、と思ってしまう。
「うーん……とりあえず、様子見しかないかあ」
再びはあ、と溜息を吐く。幸せを逃がしてしまいそうだが、それでも今の自分に出来る事はこれぐらいだった。
ともあれそうやって、改めて俺の異世界生活が―――始まった。