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御霊会『ごりょうえ』 第2章  作者: 紫川 凜
1/1

菩薩と死神

(菩薩 と 死神 )



その男は、夜の繁華街を、力無く歩いていた。


服は薄汚れ髪は何ひとつ、手入れがされてはいない。


男は道に出されているゴミ袋の中を手当たり次第開けていた。


そこに、男が見つけた物は腐りかけたトマトだった。


男はニヤリと笑い、そのトマトを美味しそうに頬張った。


人も疎らな裏通りだが、道行く人々は、その男を横眼で見ながら同情しているのか、顔を歪め通り過ぎていく。


そんな視線さえ男は気にせず呆気なくトマトを食べ尽くした。


しかし、まだ男の食欲は、

満たされていないのか、先ほどと同じくゴミ袋の中を探した。


その時だった、男は突然赤い吐物を嘔吐したのだ。


しかしそれは、トマトの残骸では無く男の体から押し出された血液だった。


男はその場に転がり喉元に手を添え苦しみ始めた。


しかし、誰一人その男に手を差し伸べる者は居なかった。


男も、それが解っているのか、助けを求め様とはしなかった。


男の吐血が気道を塞いでいるかの様に、男は激しく咳き込む……。


暫くその状態が続いた。


しかし、いつしか男の咳は止まり、そのまま男はピクリとも動かなくなった……。


男は首に手を当てたまま終に絶命したのである。


わずかに覗く男の背中には、青不動の入れ墨が美しく描かれていた。




[1]


あの忌まわしい、法子の事件から八か月の歳月が流れていた。


銀子は、四国お遍路の旅

をしていた。


その旅も、明日の八十八ヶ所目で、無事に二ヶ月の長旅が終わろうとしていた。


お遍路の旅とは弘法大師が四二歳の時、人々の災難を除く為に用いた霊場巡りが始まりと伝えられている。


人間には、煩悩が八十八あり八十八ケ所巡ることで、煩悩が消え願いが叶うと伝えられている。

霊場八十八ケ所を全部巡ると約1・200キロの長い距離である。




銀子は車と徒歩で、この霊場を参拝していたが、明日でようやく満願成就とる。


明日の巡業が終われば、久美と待ち合わせをして、旅の疲れを道後温泉で、癒す予定にしていた。


銀子は、携帯電話を取り出し久美に電話をかけた。


「久美ちゃん、お疲れさま……。」


銀子がそう言うと久美も答えた。


「銀子姉こそ、お疲れ様でした。

もう一人旅は終わったの?

それじゃあ、明日の夜には道後温泉に行けるわね。

久し振りに、のんびりしようね。」


そう言って、久美は電話を切った。





銀子は、あの法子の事件後直ぐに展示会の作品を仕上げていた。


この展示会が終わり次第、

巡業の旅を予定したかだ。


今回は白地の帯に、友禅を描く事にした。


銀子は題材を急遽変更していた。


それは、展示会の期限に、間に合いそうに無いからだった。


法子の事件後、暫くは何もやる気が起きなかったからだ。


しかし、展示会の出品は、講師である銀子には、欠かすことの出来ない約束事だったのだ。


銀子は、無地の帯地に伊勢菊の大輪を絵描いていた。


前回の展示会では、牡丹の花を描き、五十号の額縁を付け出品した。


すると見事、最優秀作に選ばれたのだ。


手描き友禅は美しく描く為に生地に色を載せた時、素早く刷毛でぼかしを施し、外ぼかしや、内ぼかしの技法で奥行のある絵が仕上がるのだ。


その色の出し方と、ぼかし方の美しさで、勝敗が決まると言っても過言ではない


前回の展示会場へ銀子が出向いた時だった。


銀子の作品を別のスクールの友禅講師が観ていた。


講師も様々な派閥がある。


女性が多い友禅の世界は、もの静かな口調だが酷く傷付く事も平気で言うのだ。


その時、その1人の講師が話し掛けて来た。


「銀子先生、おめでとうございます。

この作品、素晴らしい出来だわ……。

どうしたら、この色が出るのか教わりたいものだわ」


そう言うと、その講師は、銀子に微笑みかけた。


銀子は、静かにその講師に、微笑みだけを返した。


すると講師は又、銀子に言った。


「銀子先生は、まるで色盲の方の様な色合いで、私は葉の色は緑と常識的な観念が取れないから、こんな大胆な作品が描けないのよ。」


そう、嫌味とも取れる事を言うとニヤリと笑った。


そこに空かさず、銀子の師匠である講師が、その話を聞き言い放った。


「貴方は、銀子先生を、見習った方が良いわよ。

銀子先生の友禅歴は、貴方より短いのに、こんな素晴らしい作品を仕上げて、最優秀賞を受賞したのだから。」


そう言ったのである。


それを聞いた講師は、面白く無さそうに、その場から姿を消したのだ。


しかし、これ位は、この世界では日常茶飯事の様である。


今回の作品は、恐らく入賞する事冴え難しいだろう。


お世辞にも、良い出来栄えとは言えないからだ。


そう銀子が思っている時だった。


突然玄関のベルが鳴った…


久美じゃないのは確かで

ある。


久美は律儀に、ベルを鳴らさないからだ。


銀子はインターホンを取った。


「はい。どなた? 」


と、銀子が尋ねると直ぐに返事が返ってきた。


「優介です。

御無沙汰しています。」


そう聞いて銀子は、急いで玄関のドアを開けた。


「あら、どうしたの? 久しぶりじゃないの。」


そう、銀子が言うと、


「実は、銀子さんに、お願いがありまして……。」


優介は、笑顔でそう言った。


名前は、倉橋優介 (くらはし ゆうすけ) 二十三歳の男性である。


優介の母は、銀子と同じカルチャースクールのパッチワーク講師だった。


六年程前、優介の母、洋子(ようこ) から、優介の事で相談を受けたことがある。


それは優介もまた、暴走族のグループに所属していたからだ。


「日々、あの子が、変わっている気がするの……。

あんなに素直で明るかったのに……。

銀子さん、何とかお願い出来ないかしら……。」


洋子は、そう言って悩みを打ち明けて来たのだった。


銀子は優介と会い、直ぐに優介を除霊した。


銀子の思った通り、優介には動物霊が憑いていた。


その他に、女の生霊も憑いていたのだ。


女の生霊は、優介に好意を抱いていた為、思う様に離れなかった。


銀子は優介に、直接その女性と会って、その女性の好意に答える事は出来なと、きっぱり伝える事を薦めた

のだ。


その後、徐々に優介の霊現象は無くなり現在、長距離トラックの運転手をしている。


「今度、俺、親父になるのです……。」


優介は照れ臭いのか、少し顔を赤らめながらそう言った。


「あら、おめでとう。

いつ結婚したの? 」


そう銀子が尋ねると、


「式は、挙げて無いのですが、籍は先月入れました。

今日来たのは結婚の報告もですが、この背中に赤不動明王を描いて頂きたく

て…。」


そう言うと優介は、白地の甚平を紙袋から取り出した。


銀子は少し驚いたが、優介らしい発想だと思った。


不動明王は、赤、青、黄、白、黒の五種類がある。

それぞれ方角を意味していると伝えられている。

それは、東西南北と中央だという。


不動明王を守護神にする人は、短期決戦型で裏表の無い正直者だが、一本木で気性が激しく我も強くなり暴力的になるのだという。

暴力団関係者が、この不動明王の姿を、自らの体に墨を刺し守護神にするのは、その為なのだろう。



「でも、どうして、お不動様なの? 」


そう銀子が尋ねると、優介は静かに語り出した。


「実は、俺の幼い頃からの

親友に、和也かずやという奴がいるのですが、そいつが、行方不明になっているのです。

そいつは以前、俺の妻、恵美(えみ)の姉、清美(きよみ)と付き合っていた事もありましたが……。

もう別れて半年以上経つと思います。」


優介と和也は、中学時代から仲の良い友達だった。


和也の父は和也の母に、日々暴力を振っていたのだという。


和也が、その暴力を止め様とすると、和也にまで暴力を振ってくる父親だった。


その両親の離婚がようやく認められ、和也は母親と暮らす事になった。


母親は女手ひとつで身なりなど気に賭ける事無く、一生懸命に働いていた。


そんな生活が二年程続いた頃、突然母親が和也に言った。


紹介したい、男性が居るのだと……。


和也の気持ちは複雑だったが、母親にはもう一度幸せを取り戻して欲しいと願い、男と会う事を承諾したのだ。


和也は、その男と会って、驚いたのだという。


それは、父とは正反対の、想像以上に優しい良い男だったからだ。


和也は直ぐに、その男と気が合い仲良くなった。


しかし……。


和也は、一つだけ如何しても、その男を受け入れる事が出来なかった。


それは男の後ろに視える四人の女の生霊だった。


しかし、母親の幸福そうな顔を見ると、和也はその事を母親には言い出せずにいた。


それから間もなく母親と男性は結婚した。


しかし、その結婚は二ヶ月も続かなかった。


それは、男が一方的に別れを切り出したからだ。


母親は、男にすがり引き止めたが、男の意思は固かった


母親は仕方なく、離婚を承諾したのだ。


離婚後、母親はまったく笑わなくなり、夜も眠れないと訴える日々が続いた。


その理由を問いただすと、母親は、男に四百万の金を騙し取られたと泣いて訴えたのだ。


母の精神状態も気になるが和也は、以前から予定していた友達と諫早へ向かっていた。


その時、和也はこの付近に幽霊屋敷がある事を、優介から聞いていた。


その幽霊屋敷は、優介の

母が働くカルチャースクールの元生徒だと言う。


和也が、その事を5人の友人に伝えた。


すると友人は興味を示し、そこで肝試しをやろうとい

う事になった。


そして、あの法子の旅館に行ったのである。


その友人の中に、和也が交際している彼女がた。


それが優介の妻の姉である清美だった。


五人はそれぞれ順番に、一人で旅館の中を通り、裏山まで行って車へ戻るというルールにした。


和也の順番は最後だった。


先に行った友人達は、特に何も視なかったと、口々に言っていた。


和也の順番になった。


和也は、旅館の石畳を歩いていた。


多少の霊感がある和也でも、何違和感も無く通り過ぎ、今度は裏山へ続く階段を上り松林へ出た。


警察関係者が一度掘り起こしたのか真新しい土が所々盛り上がっている。


和也は祠の裏まで、足を延ばしていた。


そこは、雑木林になっていた。


様々な木が長い年輪を思わせる様にそびえ立っている。


和也が何気なく、その木に目を遣ると、何とそれは藁人形だった。


その藁人形には五寸釘が突き刺してある。


そして名前も書かれていた。


和也は興味本意に、藁人形の近くに寄ってみた。


そして名前を確認した時、和也の体が凍りついたのだ。


そこに記されていたのは、二ヶ月間だけ和也の父になった、あの男の名前だったからだ。


だとすれば、藁人形に釘を突き刺したのは、恐らく母の仕業だ……。


和也は咄嗟にそう思った。


和也は、あわてて上着のポケットからライターを取り出し、藁人形に火を点けたのだ。


すると、その火は瞬く間に藁人形を飲み込み、そこから他の木へと移り始めた。


そして、 一瞬にして辺り一面が火の海となったのである。


和也は恐ろしくなり、その場から逃げようとした、その時だった……。


燃え盛る木の中から、何かが勢いよく飛び出して来た。


しかし、それは既に力尽きたように、直ぐに動かなくなった。


よく見ると、それは猫の様だったが火は容赦なく、その猫らしき物も、呆気なく呑み込んでいた。


和也は、逃げるように、友人達の待つ車に戻った。


すると、友人の一人が和也に言った。


「和也、どうだった?

何か成果あった? 」


和也は、冷静を装い黙って頭を横に振った。


この時、友人達はまだ火事の事には、気付いていなかったのだ。


和也は急いで車を走らせた。


和也の隣には、清美だけが乗っていた。


和也は清美に問い掛けた。


「清美は、何か視たのか? 」


清美も黙って頭を横に振ったが、清美の様子は明らかに変わっていた。


もう一度和也が清美に尋ねた。


「清美、どうかしたのか?」


すると清美は、先ほどから

急に体が燃えるように熱いのだと言う。


「きっと風邪かな?

少し熱があるみたい……。」


そう言うと、清美はシートを倒し自宅へ到着するまでの間、寝入ってしまったのだ。


そして、その日を境に二人の仲は、終止符を向かえてしまったのである。


それは清美が家に引きこもり、外出する事を拒んだからだと、優介は和也から聞いていた。


その後清美は、突然家を飛び出し行方が解らないのだという。




(2)




和也は元義父である、あの男に会う為に、会社の近くで待っていた。


もう一度母と縁を、繋げようと思っていたからだ。


その為に和也は、男の働くビルの外で、男が出て来るのを待っていた。


その時……。


男が知らない女性とビルから出て来たのだ。


和也は思わず身を隠し、男の様子を窺っていた。


男はその女と、何やら楽しそうに笑っている。


その様子を窺っていた和也は、何気なく男の背後に目が留まった。


良く視ると、そこには

もう一人女が増えているではないか……。


和也は、驚いて立ち止まり、もう一度その生き霊を確認した。


その増えていた女は、な

んと和也が良く知る母の顔だったのだ。


和也は恐ろしくなり、男と会う事を諦め逃げる様にその場から立ち去った。


そして和也もまた、その日を境に、家から出る事がなくなっていた。


優介が食事に誘っても、

体の不調を訴え、優介は和也と電話だけの会話となった。


そのうちに、電話に出る事さえ、無くなったのだと言う。


優介は心配になり、和也の家を訪ねたが、和也の母親も、まったく心当たりが、無いのだと言ったそうだ。


その優介の話しを聞きながら、銀子は思っていた。


『また、大変な事になりそうだ……。』


と …。


「それで、そのまま五か月を過ぎようとしています。」


そう、優介は言った。


「それは解ったけど、何故不動明王なの? 」


と、銀子が尋ねると、優介は


「いや……。

それは特に関係無いけど、俺、十代の頃、和也と約束していたのです。

俺が赤不動で、和也が青不動の入れ墨刺そうと……。

それ程仲が良いという意味で……。

いや、俺等も若かったのです。

しかし、この俺も親父に成る事で、それは出来無いと思い、せめて甚平で赤と青の不動明王を描いて頂き、青不動は和也に贈るつもりです。」


そう言うと、優介は顔を曇らせ、続けて話しはじめた。


「しかし……。

和也はいったい、何処に行ったのか……。

妻の姉も居なくなるし

……。」


優介は、そう呟いた。


その優介に銀子が言った。


銀子は、和也の事も気になるが、まずは優介の依頼を受ける事にした。


「それじゃ、不動明王では無く観世音菩薩が良いじゃないの?

慈愛の心と、救済の心

を持つと言われているから……。

その後、和也君が帰ったら、また、お不動様を描いてあげるから。

でも、直ぐには無理だよ……。」


そう銀子が言うと、優介がすかさず言った。


「知っています、母に聞きました。

展示会があるのでしょう?

母もパッチワークの展示会の準備で、思い通りにいかないのか機嫌悪いですよ……。

展示会が済んだら四国に行かれる事も母に聞いています。

その後、銀子さんが暇になってからで良いですから宜しくお願いします。」


そう言うと優介は、仕事があるからと言い残し、帰って行った。


その優介の、後ろ姿を見送り、銀子は嬉しく思っていた。


あの十代の頃からすると、遥かに、大人の男に、成長していたからだ。


あの頃の優介だったら誰にも相談せずに、入れ墨など平気で刺していたはずだ。


しかし、これから生まれて来る、我が子を思いやり、必死になって父親になる努力をしている事が、銀子は嬉しくてたまらなかった。


優介の妻、恵美も、姉の事を心配しているだろう……。


しかし、すべては、四国巡業の旅が、終わってからだ。


と、銀子は思い直していた。


優介が銀子に会いに来て、二週間が経っていた。


展示会の作品も仕上がり、銀子は、気分転換にベランダへ出てみた。


久しぶりの、休暇の様な気がする。


明後日、四国へ発つまでは何もせずに体を休ませ様

と思っていた。


ベランダから外を眺めると、道行く人が愛犬を連れ散歩をしている。


可愛い小型犬のメス犬なのだろう、ピンク色のフリルかある服を着せられていた。


銀子は、四年前に亡くなった愛猫アンの事を思い出していた。


あれは十二年前の事だった。


銀子が仕事へ出かけようと車に乗り込もうとする時だった。


一匹の子猫が、車の下に潜り込んでしまった。


このまま車を出す気になれず、暫く様子を見ていたが、その子猫は車の下から、一向に動こうとしない。


仕方なく銀子は声を掛けた。


「こっちに追いで……。」


そう声を掛けると、子猫は暫く震えていたが、恐る恐る銀子の足元へ近寄ってきた。


その子猫の顔を見ると、このまま放って置けなくなり、その子猫を部屋で飼う事に決めたのだ。


その子猫にアンという名前を付けた。


特に意味は無かったが、メス猫だったからだ。


その日から、銀子とアンの生活が八年続いた。


アンは、日々順調に成長していたが、標準の猫よりはるかに大きい猫に成長した。


銀子は、アンを近所の獣医に連れて行き、予防接種の注射をしていたが、その時獣医が言った。


「良い猫ですね。

この猫は、クラシックトビーという品種じゃないかな?

山猫とペルシャ猫のハーフだと思いますが……。」


そう獣医が言った。


アンはキジ猫の様な縞模様だが毛並は長く体が大きいのだ。


銀子が仕事から戻ると、アンはいつも玄関で出迎えてくれていた。


「ただいま。」


と、言うと、


「二ャーン」


と、お帰り、と言ってくれている様に聞こえるから不思議だ。


銀子が名前を呼ぶと、必ず

駆け寄ってくる賢い猫だった。


仕事で帰れない時は、実家に預けていた。


最初の頃、猫嫌いな両親は、あまり良い顔をしなかったが、後からは、いつ連れて来るのかと心待ちにしていた。


そのアンも、このベランダの塀に上り、下を眺めるのが好きだった。


ある日、銀子は、カルチャースクールに五日間の休暇願を出した。


それは特に意味は無かった。


ただ何故か、休みたかったのだ。


その休日の初日、いつもの様にアンの食事を準備し、アンを呼んだ。


しかし、何度呼んでも返答が無い。


銀子は、アンの居場所を探した。


すると、アンは銀子のベッドの下へ潜り込み寝ていたのだ。


銀子は、起きて来ないアンを不思議に思った。


いつもなら、好物のエビをボイルしている時には、すでに匂いを嗅ぎつけ、キッチンに来ていたからだ。


銀子は、ベッドの下に潜り込み、アンの様子を窺うと、あきらかに元気が無い。


銀子は、急いで獣医の元へ行き、アンを受診させた。


獣医師が言うには、ただの風邪だと言う。


銀子は少し安心し、三日分の薬を受け取り、自宅へ連れ戻った。


アンに薬を飲ませると、その後、水を少量飲み、またベッドの下に潜り込んだ。


『明日になると、薬が効いて、元気になるだろう。』


そう思っていた。


しかし、翌日もアンの状態は一向に変わらなかった。


薬が無くなれば、また受診させ様と銀子が考えていた、その時だった……。


アンは声を張り上げ、ベッドの下から、勢い良く飛び出し、銀子の腕に飛び乗ったのだ。


銀子は、思わず抱き上げたが、そのアンの行動に驚いていた。


それは以前から、抱かれる

事を好まない猫だったからだ。


銀子は、アンを抱いたまま、アンの顔を覗き込んだ。


アンは、大きく二度呼吸した後、そのまま動かず、そして、もう二度と息を吹き返す事は無かった……。


銀子は、その夜一人で、アンとの別れを惜しんだ。


そして翌日、葬儀社に電話をし、葬式と納骨を終えたのである。


その納骨まで、まさに五日の休みが必要だったのだ。


アンは己の死を予期していたのだろう。


そして、最後の力を振り絞り、銀子の胸の中で命果てたのである。


銀子の父親が、五年前に亡くなり、そしてまたアンも後を追う様に、四年前に亡くなってしまった……。


そんな銀子の心は、ポツンと穴が開いた様になっていた。


何も手に付かない程、寂し

くて仕方が無かった。


余り悲しむと亡くなった者の魂が、成仏出来ないのだと言うが、そう解りながらも、悲しみの涙は止まらなかった。


父親の時もそうだった……。


銀子は、何気なく実家へ戻っていた。


実家は、銀子が住んで居る場所から、車で一時間程の距離である。


何時でも行ける距離だが、そう思うと必要以上に、実家へ戻る事がなくなっていた。


その日何故か銀子は、アンを連れ実家へ戻った。


玄関のドアを開けると、アンは其処から、勢い良く走り父の居る部屋へ向かった。


父は孫でも来たかの様に、アンに話しかけていた。


「アン、来たのか、そうか……。

そんなに爺ちゃんに、会いたかったのか……。

そうか、そうか……。」


そう言っている父親の声が聞こえてくる。


恐らくアンが、父に頬擦りし再会を喜んでいるのだろう。


銀子は、父の声をドア越しに聞き、母親が居るリビングへ向かった。


母親は、何時もの様に、趣味のレース編みをしていた。


すでに、両親は共に退職し、それぞれの趣味を満喫する日々を過ごしていた。


その時、母が言った。


「お父さんは、最近家にばかり居て……。

あれ程カメラを持って出かけていたのに、今では部屋に籠り油絵ばかり描いているのよ……。

たまには、出かけてくれたら、助かるわ……。」


そう、母が愚痴を溢した。


父は、何故か洗濯をする事は好むのだが、それ以外は全て、母任せで何もしない事を母は愚痴っているのだろう。


その母の、愚痴を聞き終わる頃、父がアンを抱き部屋から出て来た。


「銀子久しぶりだったなぁ……。

二ヶ月位、帰って来なかっただろう? 」


そう父が言った時、銀子は父の方へ目を向け思わず言葉を失った。


父の後ろには、何か得体の知れない物が憑いていたからだ。


それが何なのか、初めは認識出来なかったが、徐々にその正体を理解した。


それは、死神だと確信したからだ……。


その死神は、濃いグレーのフード付きロングコートを着ている。


そして片手には小さい鎌を持っていた。


その鎌には紙らしき物が付いていた。


そこには、数字が三つ並んでいる。


2・17と……。



死神とは、生命、即ち魂の生と死を司る、神位の高い神である。

善人な者には非常に義理固く、必ず約束を守る神で嘘が嫌いな神である。



銀子は、フードに隠れて、顔が確認出来ない神に向かって尋ねた。


『父は、その日に、亡くなるのですか?

後三ケ月しか無いのですか? 』


と……。


そう尋ねると、神は小さく頷いたのか、フードが前後に揺れた。


銀子は、愕然とし言葉を失った。


しかし、意を決し直ぐに死神に尋ねた。


嘘が嫌いな死神は、銀子が何を言おうと死神の宣は、絶対な筈である。


しかし、銀子はこう尋ねずにはいられなかった。


『何とか、成らないのですか? 』


そう尋ねた銀子に、死神が漸く言葉を発した。


『どうにも成らない事は、お前も良く理解している筈だろう……。

しかし、死に方だけは、

希望を叶えよう。』


死に神がそう答えた。


銀子は、少し考えて死神に言った。


『父は言っていました……。

死ぬ時には畳の上で、死にたいと……。

どうか……。

せめて苦しむ事無く、あの世へ逝かせてあげて下さい。』


銀子は、死神に、そう祈願したのだ。


すると死神が答えた。


『その事だけは、お前の望みを叶えよう。』


そう言い残すと、死神は銀子の前から姿を消していた。


銀子は、溢れ出す涙を堪えきれず、両親に悟られない様トイレへ掛け込んだ。


そこで銀子は、声を押し殺し泣いたのだ。


やはり死神が宣告した、その日の朝方、父は自宅の布団の中で眠った様に亡くなっていた。


父の顔は、銀子が思うより遥かに穏やかな顔だった。


父が亡くなり、一か月経った頃、銀子は夢を観ていた。


夢の中で銀子は、自宅マンションの駐車場にいた。


そこへ、一台の黒いタクシーが、銀子の前に止まった。


黒い服と白い帽子を被り、正装した男の運転手が、銀子に一礼し、素早く後部座席のドアを開けた。


銀子は迷い無く、そのタクシーに乗り込んだ。


銀子が、車に乗り込んだ事を見届けると、男もまた運転席へ戻り車を走らせた。


間もなくしてタクシーは、山の岸壁を上り始めた。


かなり急な坂道だった。


車の窓から外を眺めると、岸壁の下は、霧が架った様に白く景色を確認する事は出来なかった。


道幅は、徐々に狭くなり始め、車一台がやっと通る位に成っていた。


しかし、運転手は通い慣れた道なのか躊躇なく進む。


その時だった……。


運転手が口を開いた。


「此処までです。

後は降りて歩いてください。」


そう言うと、運転手は素早く車を降り後部席のドアを開けた。


仕方なく銀子はタクシー

を降りたが、こんな暗い所に降ろされても……。


と思っていると、運転手が言った。


「お客さん、貴方がもう着いたと思ったら、直ぐに目的地に着きますから大丈夫です

……。」


銀子が運転手を振り返り、意味が理解出来ないと、伝えようとした時、既に運転手の姿や、タクシーさえも其処には無かった。


しかし、銀子が前を向いた瞬間、そこには大理石で造られているかの様に、白く大きな、洋館風の城が建っているではないか……。


その入口にある、三段程の広い階段を銀子は上り始めた。


その階段から、入口へ続く両脇には、人間の五倍程の大きな柱が、規則的に並んでいた。


しかし、何故か入口のドアは無く中の様子が良く見えていた。


その入口に立ち、銀子は、

中の様子を窺った。


入口の両脇には、左右対称に長く大きなカウンターがあり、中央はロビーの様だ。


ロビーには人は疎らだが、何故かカウンターの内側には、大勢の人達が忙しそうに動き周っている。


銀子は、その右側の入口カウンター付近に居る、父の姿を見つけた。


しかし、父と銀子との距離は、十メートル以上、離れているのだ。


銀子は、入口に立ちそのまま父と、会話をする事にした。


何故か銀子は中へ入る事を、許されて無い様な気がしたからだった。


父は、銀子に気付いた様子で、


『おう。銀子来たのか、お前に聞きたい事があって……。

この着物と、こちら着物、どちらが良いかな……。』


そう父は、心の声で銀子に語り掛けた。


これから、カラオケ大会へ行くのだと言う。


そう言われたが、銀子は返答に迷っていた。


父が持っている着物は、七五三で着る様な、花柄の着物だったからだ。


右手には、女の子用の赤い着物で、左手には男の子用の青い着物だった。


どちらかと言うと……。

青い着物かな……。』


そう銀子は答えると、父の予想に反したのか、父は顔を曇らせた。


銀子は、その父の顔を見てその答えを後悔し、直ぐに言い換えた。


『赤い着物も、良いかもしれないよ……。』


すると、以外にも父の顔は、喜びの表情に変化した。


父は銀子に言った。


『ありがとう。

もう帰って良いぞ。

お父さんは忙しいから……。』


そう言うと、父は素早く赤い着物を着始めた。


銀子は、こちらを見ない父に別れを告げ、帰ろうとした瞬間に夢から目覚めたのだ。


目覚めた銀子は、暫く考えていた。


『あれが天界の姿なのか……。

亡くなって間もない父は、自分の部屋さえ持つ事が許されて居ないのか……。』


父は、その日を境に時折銀子の前に姿を現す様になっていた。


それは銀子が、父を思い出す時は勿論の事、そうで無い時でも、姿を現す事があった。


その時々に父は、猫のア

ンに犬用のリードを付け、現れる様になっていた。


ある日父は、また銀子の元に現れた。


その父に銀子が、お茶を出した時だった。


『銀子。お母さんに言ってくれないか……。

最近、お母さんが入れてくれている、お茶が不味いから……。

きっと、お茶の葉を変えたのだろう……。』


そう、父が言った。


銀子は可笑しくなった。


そんな事を言う為に此処へ来たのかと思ったからだ。


アンは、生前とは違い何かを警戒しているのか、父と銀子の周辺を何度も廻り始め、落ち着かない様子だ。


そして、銀子との距離を保っているのか、アンは銀子の側へ寄ろうとしない……。


銀子はアンの名前を呼んだ。


『アン!アンどうしたの?』


銀子はアンの冷たい目線がきになっていた。


それは銀子に対する目線ではなく、何かを警戒しているのだ…。


いたたまれず、銀子は父に尋ねた…。


『アンはどうしたのかしら…

それにまた体が大きくなっているし…。

まるで、キリンビールラベルの挿し絵みたい。』


すると父は銀子に言った。


『今、アンは凄いんだ。

天界で悪魔ばらいの役目を、仰せ付けられているから…。

こいつ、優秀なんだぞ!今もおまえを守ってるな…。』


その時アンが銀子に振り向きようやく話しかけた。


『かあちゃん、ありがとう…

私…あの時、かあちゃんに見つけて貰わなかったら、きっと死んでたよ…。

そして大切に育てて頂き、本当にありがとう…。

今、私がやってる仕事が無事に終わったら、また生まれ変わって、必ずかあちゃんの元に来ますから。

それまで、かあちゃん、がんばってね…。』


そうアンは言うと、銀子から目線を放し、また警戒するように、二人の回りを歩き始めた。


そんなアンを眺めながら銀子は思っていた。


『そうか…。

アンは私のことを、かあちゃんと呼んでいたのか。』


生前アンと会話を出来なかった銀子には無理もないが、あらためてアンの気持ちを知り、銀子は素直に嬉しかった。


その時父がアンに掛け声を発した。


『アン!もう時間だ、帰るぞ!』


そういうとアンと父は、一瞬にして姿を消したのだった。


こんなこともあった…。


あれは、父の初盆の前日だった。


翌日は親戚一同が、銀子の実家へ集まる事となっている。


銀子も、料理の準備を手伝う為、実家へ戻っていた。


その時だった……。


玄関の扉が、開く音がした。


「あら、誰か来たのかしら……。」


母は、玄関に向かった。


しかし、そこには誰も居なかった……。


母は確かに、玄関の扉は、施錠していたのだという。


「可笑しいわ……。

お隣だったのから……。」


そう言いながら、母は銀子の居るキッチンへ戻って来た。


しかし銀子には、直ぐに理解出来たのだ。


それは、銀子の隣に既に亡くなった筈の父が立っていたからだった。


銀子は、父を横眼で視ながら心の声で


『お帰りなさい。

お父さん。』


と言うと、父は驚いて銀子に語り掛けて来た。


『お前、俺が解るのか? 』


銀子が頷くと、父は嬉しそうだが、少し複雑な表情をしていた。


そして、父は直ぐに自室へ向かっていた。


その父親の後を、銀子は急いで追ったのだ。


部屋へ着いた父は、生前好きだった囲碁を始めた。


銀子は父親に語り掛けた。


『明日がお盆なのに、一日早く帰る事が出来たのね。』


銀子がそう言うと、


『あれっ、そうだっけ……。

でも初盆だから良いのだよ。』


その時、そう言い放った父だったが、毎年お盆には何故か早目に帰宅しているのが、父らしいと銀子は思っている。


その時の事を銀子が話すと、父は笑いながら言った。


『今は、音がしない様に、帰宅しているだろう? 』


そう言うが、時折父の不器用な一面も垣間見えるのだ。


『アン、もう帰らないとダメだな。

銀子、また来るからな。』


そう言うと、父とアンは、音も無く姿を消していた。


父に、あの世の事を聞いた事がある。


しかし、まだ銀子には早いし、言えない事なのだと頑なに拒否し、何故か語ろうとはしなかったのだ。


その事は、生きている者に他言する事は許されて無いのだろうと、銀子は考えていた。


その父が、今年のお盆には何故か、帰宅しなかったのである。


そんな事を、思いながら銀子は、巡業の準備を始めていた。


明日から九月に入るが、ま

だ日々暑い日が続いている。


荷物は比較的、少なくて済みそうだ。


御霊も忘れる事無く、リュックに詰めた。



( 2 )





銀子は、香川に宿泊していた。


この旅の後半で、銀子には知人が出来ていた。


その知人は銀子と同じく一人旅をしている安田直子やすだ なおこという、若い女性だった。


銀子は、若い直子が一人でお遍路の旅に来ている事を、不思議に思ったが、その事を詮索する事は無かった。


「銀子さんは、今日で終わりですね。

私は、後十ヶ所程回る予定です。

せっかく、銀子さんとお友達になれたのに、今日でお別れなんて……。」


そう、直子は言った。


銀子は、名刺を直子に渡し、いつでも電話して……。


と、言い残し、お遍路の旅を終えた。


銀子は、二ヶ月間の長旅を終え、達成感はある物の体力は既に尽きていた。


早速、この旅の終了を久美に知らせる為、携帯電話を取り出した。


すると、その携帯電話の着信歴は、久美の名前が連続で記されていた。


その時初めて、気付いたのだ。


なんと着信音を消していたのだ。


銀子は、慌てて久美へ電話を入れ直した。


「ごめん、今、気付いたのよ……。」


久美は、銀子の電話を待っていたのだろう。

行き成り話し出していた。


「銀子姉、優介君が交通事故にあったらしいの。

警察から、倉橋先生に電話があり、先生は仕事を中断して、そのまま病院へ向かったのよ。

銀子姉、道後温泉お預けだね……。」


久美はそう言った。


銀子は慌てて、福岡へ向け車を走らせた。


銀子が福岡の自宅に着いたのは、すでに夜になっていた。


久美も銀子の部屋へ来ていた。


銀子は、優介の状態を聞きたいと思ったが、久美は優介の母、洋子に連絡を取っているが、電話は一度も繋がらないのだと言う。


「優介君は、仕事中のトラック事故だと聞いたわ。

洋子先生、病院に居る筈だから、携帯電話の電源切っているのよ。」


久美はそう言った。


銀子は、優介の携帯電話へ直接電話を入れた。


恐らく、誰も出ないだ

ろうと思っていると、その電話が繋がった。


「もしもし、倉橋です。」


銀子は、その若い女性の声に聞き覚えは無かったが、直ぐに優介の妻だと察した。


すると、電話の相手が話し始めた。


「銀子先生でしょう?

私、妻の恵美です。

銀子さんの事は、優介にも義母にも聞いて知っています。

優介の事だったら、大丈夫ですよ。

一人の事故で幸いにも、巻沿いになった方も居なかったし、肋骨の骨折だけで、済みましたから……。

子供が生まれるからと、

かなり無理していたのだと思います……。

今夜は、義母が付き添う事に成っています。


そう恵美は語った。


その恵美に、明日見舞いに行く事を告げ銀子は電話を終えた。



翌日、銀子は久美と優介が搬送された、病院へ向かった。


受付で優介の部屋番号を

聞き二人は優介の部屋をノックした。


すると、女性の声で返事が返ってきた。


恐らく恵美の声だろう。


二人は部屋へ入り、優介の顔を見た。


銀子が想像するよりも、優介は明るい表情を浮かべている。


しかし、優介の首も体もギ

プスで固定され、自由を奪われていた。


「どうも、すみません。

こんな事になって……。」


申し訳無さそうに、優介が言った。


「これ位で済んだから、良かったわ……。」


そう、銀子が言うと、優介は照れ臭そうに笑った。


その優介に事故の経緯を聞いた。


「実は……。

和也から電話があったのです。

俺は福岡から、東京に向けトラックを走らせていました……。」



優介は、高速道路を走っていた。


トラックは、広島付近を通過している。


その時だった。


携帯電話のベルが鳴ったのだ。


恐らく、会社からだろう。


優介は、相手を確認する事無く電話に出た。


「もしもし……。」


すると、男の声で、


「……あ・つ・い……。

あつい……。

た・す・け・てくれ……。」


そう言って、電話は切れたのだと言う。


その声は、優介の聞き慣れた和也の声だった。


優介は、近くのパーキングに入った。


そこで、携帯電話の着信歴を調べたが、その着信歴

は存在しなかった。


優介は試しに、和也の携帯電話に掛けたが、和也の電話は不通になっている。


何度掛けても、結果は同じだった。


仕方なく、優介はまた車を走らせていた。


しかし、優介は和也の事が頭から離れなかった。


その時、トラックの前方にトンネルが見えてきた。


そのトンネルの入り口に、人が立っている。


優介は、何気なくそう思ったが、よく考え直してみると、そこに人が立っているのは明らかに不自然だった……。


ここは高速道路なのだ。


そして直ぐに、そこに居る男は和也なのだと確信した。


優介は無意識に、和也をかわそうと、ハンドルを左に切っていた。


しかし、トラックはそのままトンネルの脇に衝突し、トラックの前方は大破してしまったのだと言う。


あれは、確かに和也だった……。


銀子さん、和也はもう、この世に居ない……。

そんな気がします。

銀子さんの力で何とか、和也の居場所が解りませんか? 」


そう、優介は言った。


「そうね……。

だけど、その和也君の顔も、何も私は知らないし、写真とか生年月日があれば良いと思うけど……。」


そう銀子が言うと、写真も有るし生年月日も解るからと優介は言った。


しかし、それは優介が退院してからと言う事で、優介を納得させた。


銀子は、後日また来る事を告げ病室を出たが、病院の出口付近で恵美に呼び止められた。


恵美は申し訳無さそうに、銀子に頭を下げた。


「あのう…。

銀子さんに私……。

姉の事を、相談したいのですが…。」


前回、優介が訪ねて来た時、言っていた事を銀子は思い出していた。


「恵美さんのお姉さんも、失踪していたわね…。

その事? 」


そう銀子が尋ねると、恵美は頷いた。


恵美は身重の体で、姉の行方を、必死に探してい

るのだろう。


「恵美さん、明日でも良いから、恵美さんの都合がいい時に、私の家に来て下さいね。」


そう銀子が言うと、恵美は少し微笑んで頭を下げていた。


銀子の元に、恵美が尋ねてきたのは、それから三日後の夜だった。


久美は、銀子と恵美の為に、暖かいココアを入れてくれた。


「銀子さん、姉の行方ですが……。

私達姉妹は、両親を早くに亡くし二人だけで生き

て来ました。

私と、二歳しか離れていないのに、姉は私の事を母親以上に、面倒を見てくれていました……。

その姉が友達と諫早へ行ってから、姉の様子が変わり始めたのです……。」


そう言うと、恵美は泣き崩れてしまった。


その恵美に久美が言った。


「もう、そんなに考えたらお腹の子に悪いわ……。

後は銀子先生に、任せた方が良いわ……。」


恵美は、小さく頷き頭を下げた。


銀子は既に、神棚に向かい祈り始めていた。


「今から、火事があった、あの日に行くわ。

恵美さん、お姉さんの名前と生年月日を、教えて欲しいの。」


そう銀子が言うと、恵美は写真を銀子の前に差しだした。


その写真の裏には、姉の名前と生年月日が記されていた。


「それでは始めます。

今から恵美さんの姉、桜井清美さくらい きよみの元に行ってきます。」


そう言うと、銀子はまた祈り始めた。




( 3 )




銀子の魂は、銀子の体から離れ、細く白いトンネルに入った。


すると小さい光が、徐々に

大きくなってきた。


そこへ迷わず舞い降りた。


そこは清美が肝試しに行く、一か月前の清美の姿だった。


清美は庭の手入れをしている。


香りの強いジャスミンの花が、庭一面を赤く染めていた。


そこへ一匹の猫が、清美の足元にやって来た。


清美に良く懐いたその猫は、頬擦りする様に、清美の足に纏わり付いている。


「あら、今日も来たのね。」


そう言うと、清美は部屋に戻り、キャットフードと、煮干しの袋を持って来た。


猫は、野良猫なのだろう。


しかし、猫好きな清美は、毎日遣って来る野良猫に、愛情を注いでいたのである。


「ミー子ちゃん、あなたを飼いたいけど…。

私の彼が、猫嫌いだから、仕方ないのよ

……。

ごめんね。」


そう言いながら、清美は猫の頭を優しく撫でている。


恐らく付き合っている彼とは和也の事なのだろう。


銀子がそう思っていると……。


清美の携帯電話のベルが鳴った。


それは、和也からの電話だった。


「今度、牡蠣食べに行こうよ。」


そう、和也が言った。


「うん、行こう……。

でも、お正月が終わらないと無理だから……。」


と、清美は答えた。


すると、和也が言った。


「そうだな……。

俺も正月過ぎたら、母親を病院受診させようと思っているから……。

その後にしよう……。

友達でも誘って、来月中旬頃に予定しようか? 」


と、和也が言った。


清美は、その和也の提案に賛成し、電話を終えた。


清美は、和也の母の事が気になっていた。


和也の母が、離婚後酷く塞ぎ込み、食事さえ摂ら無いと和也に聞いていたからだ。


しかし、先ほどの電話だと、和也は母親を受診させると言っていた。


それ程、悪い状態とは思わなかったが、和也の電話から察すると、良い状態では無いのだろう……。


そう思いながら、清美は庭へ戻りミー子の姿を探したが、すでにミー子は食事を済ませ、そこには居なかった。


あの和也の電話から、久し振りの電話だった。


友人五人で、諫早へ行く、その日がきたのだ。


「車二台で、行くことにしたから……。

俺が清美を、迎えに行くからな。」


そう言うと、和也は電話を切った。


清美は和也の到着を待っていた。


すると程なくして、和也が男の友人を乗せ、車で遣って来た。


清美は、和也の車に乗り込んだ。


車内で三人は映画の話しで盛り上がり、陽気なドライブになった。


清美は、和也の母の診断結果も気になったが、他の友人の前では言い辛いだろうと察し、和也には、その事を聞けずにいた。


和也の車は、途中で他の友人の車と合流し、二台で諫早へ向かった。


清美達を乗せた車は、約二時間で目的のドライブインへ到着した。


回りを見渡すと、家族連れや団体客で混雑している。


素早く、友人の一人が、海寄りの席を確保し、五人はそこへ腰を下ろした。


五人は炭火を囲み、牡蠣を食していたその時だった。


友人の一人が、突然言い出したのだ。


「この近くに、幽霊が出る旅館が、あるらしいぜ。

この前テレビで放送があって、そこで殺人事件もあってさ……。

そこへ行って肝試しでもしたいよな……。」


そう言った友人に、和也が話し始めた。


「そこは多分、俺の友人の親が勤めている、スクールへ通っていた人だと聞いたけど…。」


その話しを聞いていた清美は、余り気乗りはしなかったが、他の四人は肝試しに賛成していた。


「それじゃー クジ引きしようよ。」


と、一人の友人が言った。


肝試しの順番を決めるつもりらしい……。


それぞれに、殻つきの牡蠣を持ち直接炭火に置いた。


その牡蠣の殻が開く順番を肝試しの順番に決めた。


暫くすると牡蠣の殻は、次々に口を開き始める。


清美の牡蠣が四番目に開き、和也の牡蠣が最後に開いた。


これで、五人は肝試しの順番が決定し、ドライブインを後にしたのだ。


その後、躊躇する事無く五人は、あの旅館へ向かった。


しかし、清美の予想では、旅館はもっと近くにあるのだと思っていたが、予想以上に旅館は遠かった。


漸く二台の車は、目的地の旅館へ着いた。


クジで決めた通りに、他の友人から順番に旅館に入るが、特に何事も無い様子で、友人達は戻って来る。


次は清美の順番になった。


清美は、石段を上り旅館の中に入った。


そして、石畳歩き始めたが、特に変わった様子も無く通り過ぎた。


清美は、そのまま旅館を出ると裏山の石段を上り、祠の場所まで来ていたが、何も目撃しなかった事に安堵した。


その時だった……。


一匹の猫が清美の前に現れた。


それは白い猫で、清美が可愛がっているミー子に似ている。


思わず清美はその猫を呼んでいた。


「ミー子。こっちへおいで。」


そう呼ぶと、猫は暫く立ち止まり、清美を凝視したが、その後は呆気なく雑木林へと、逃げてしまったのだ。


清美は何度か繰り返し、その名前を呼ぶが猫は二度と清美の前へ、現れる事は無かった。


『きっと、ミー子では無いわ。

私の顔を見て、逃げる筈がないもの……。

それに、ここにいる筈がない……。』


清美は、そう思い友人が待つ車へ戻った。


しかし清美は、先ほどの猫の事が、増々気掛かりになっていた。


次は和也の順番で、すでに和也の姿は、旅館に消えていた。


その時友人の一人がいった。


「皆、何か視たか? 」


そう聞いてきた。


すると、そこにいる全員が頭を横に振った。


特に成果が無かったという事なのだろう。


暫くすると、和也が小走りで帰ってきた。


和也はそのまま何も言わず自分の車に乗り込み、エンジンをかけた。


清美は急いで和也の車に乗り込んだ。


「何か、あったの? 」


清美は、和也に尋ねた。


「いや、何も無いな…。

清美は? 」


和也直ぐに聞き返してきた。


その和也に猫の事を話そうと思ったが、猫嫌いな和也に言う事でも無い……。


そう思い口を噤んでいだ。


その時だった……。


何故か清美は、急激な悪寒が襲ってきたのだ。


熱が出たのか体が熱くなっている。


こらえ切れなくなり、清美はシートを倒した。


「清美、どうかしたのか? 」


和也が心配そうな顔で、清美を覗き込んだ。


「牡蠣に、あたったのかな?

気分が悪いの……。

少し横になるから……。」


そう言うと清美は、そのまま眠ってしまった。


和也の声で起こされた時は、既に清美の自宅の前だった。


心配している和也に別れを言うと、清美は和也の車を降りた。


清美が自宅へ戻ると、先ほどの事が嘘の様に、清美の体調は既に回復していた。


その後、何事も無く時は過ぎ、肝試しの日から既に三日が過ぎていた。


『あの時どうして、あれ程不快な気分に成ったのだろう。

いったい何だったのかしら

……。』


そう思いながら、清美は庭に出て、ミー子の名前を呼んでいた。


しかし、あれ程姿を見せていたミー子が、もう今日で一週間も姿を現さないのだ。


清美はいつもの様に、ミー子の名前を呼び続けたが、やはりミー子は姿を現さなかった。


『何処に、行ったのかしら……。』


清美は、急に寂しくなった。


それと同時に、何故か和也の存在が億劫に成ってきたのだ。


和也と、付き合ったばかりに、ミー子を家で飼う事が出来ないと思い始めていたのだ。


清美は、何もかも嫌になっていた。


この家に居る事も、何故か無意味に思える……。


両親が三年前に亡くなり、妹も好きな人と暮らしている。


清美だけが、この家に残され、ミー子も姿を現さなくなった。


この家に居る意味が無い……。


そう考える様になっていた。


その時、携帯電話のベルが鳴った。


清美の予想通り、それは和也からの電話だった。


清美は和也に、何故か一方的に絶縁を申し出たのだ。


「私、もうあなたの顔も、見たく無いし、電話も掛けて欲しく無いの。」


そう清美は、和也に言い放ち、和也の言い分も聞かず、その電話を切っていた。


しかし、心の中は何故か爽快だった。


清美にも、その自分の気持ちが不思議だった。


これで和也と、会わずに済むと思うと、別の楽しい未来がある様な気がしていたのだ。


『そうだ……。

私の事など、知らない人達の所へ引っ越しすればいいのだ……。

ここに居れば、和也が復縁を言い出すかもしれない……。』


清美は早速、荷物をまとめ様と、クローゼットを開け整理を始めていた。


三年前両親が亡くなった時、かなり処分した筈が、荷物はまた元の様に増えている。


その荷物の中に、昔懐かしいアルバムが目に入った。


思わず清美はアルバムを開いた。


そには、幼い時の清美と、恵美が笑顔で写っている。


母も二人の後ろで微笑んでいた。


家族で遊園地行った時、父が写したのだろう。


この時の清美は、何もかも満たされて居たと感じる。


しかし……。


『両親が交通事故に遭い、この世を去ったのも、全部私が悪いのよ。

私が、殺したのも同じ事だわ……。』


清美は、そう思っていた。


あれは、四年前だった。


清美は、以前からクマの、縫いぐるみの収集をしていた。


かわいい物から、高価な物まで、様々な形のクマの縫いぐるみだった。


ある日、叔母が海外旅行の土産にクマの縫いぐるみを買って来てくれたのだ。


五十センチ程の、大きいクマの縫いぐるみだった。


清美は、その縫いぐるみを思わず抱え抱きしめていた。


しかし、その時清美はその縫いぐるみに、何か違和感があった。


抱き上げた時、想像よりも遥かに重く感じたのだ。


クマの目もまるで、生きている様な目力を感じた。


そう思いながら、他の縫いぐるみを置いている棚へその縫いぐるみを座らせた。


清美は、翌朝いつもの様に、仕事へ行こうと準備を始めた。


ふっと、縫いぐるみに目を遣ると、昨夜と明らかに、様子が変わっていたのだ。


それは、昨日叔母がくれた縫いぐるみが、他の縫いぐるみの上に乗っていたからだ。


下敷きにされている、縫いぐるみが可哀そうに思え、直ぐに元の様に並び替え、仕事に出かけた。


その日、仕事から戻り部屋へ入った。


しかし、今度はその縫いぐるみが、他の縫いぐるみ

の頭を押さえる様に座っているのだ。


『母が、私の居ない時に、部屋に入ったのか……。』


そう思い母に尋ねたが、母は昼間出掛かけていて、今帰ったばかりだと言う。


清美は気味が悪くなっていた。


今度はその縫いぐるみを、他の縫いぐるみから遠ざけ、ベッドに近い棚へ移動した。


しかし、今度は何度置いても、ベッドへと転がり落ちてくるのだ。


仕方なく清美は、その縫いぐるみと共にベッドで寝る事にした。


それから半年程経った頃だった。


清美はその夜、寝苦しさ感じベッドから飛び起きた。


その大きい縫いぐるみが、清美のベッドを、狭くしていると感じたのだ。


清美は、急にその縫いぐるみの存在が、邪魔になってきた。


それと同時に、他の縫いぐるみも、何故か嫌になってきたのだ。


翌日、清美は全ての縫いぐるみを、ゴミに出し処分したのだった。


縫いぐるみの無い部屋は、思ったより、すっきりと片付き、それなりに、満足していた。


清美の気持ちは、縫いぐるみの処分に後悔など無かったのだ


そして、縫いぐるみを処分して三日が経っていた。


清美は仕事を終え、駅から家路へと歩いていた。


しかし、急に雨が降り出し、傘を持っていない清美は、足早に家路に着いた。


清美は、濡れた体を拭き部屋へ入った……。


そして、目の前の光景に愕然とした。


それは捨てた筈の、叔母から貰った縫いぐるみだけが、部屋の棚に座っていたからだ。


清美は恐る恐る、その縫いぐるみに近寄ると、その縫いぐるみの四本の足はすでに濡れ泥塗れに成っていた。


「キャー……。」


思わず清美は叫んでいた。


『何故、捨てた筈のクマがそこにいるの……。

まるで歩いて来たかの様に、足が汚れている……。』


清美は恐ろしくなり、コンビニのゴミ箱に捨てに行った。


しかしそれも二、三日すると、清美の部屋へ戻って来た。


清美は意地になり、今度は公園のゴミ籠に捨てた


が……。


やはり、結果は同じだった。


何度捨てても、部屋に戻るのだ。


清美は、縫いぐるみを燃やそうと思い立った。


そしてライターで、火を付けようしたのだ。


しかし、火を縫いぐるみに近付けると、ライターはガスが無くなった様に消えてしまった……。


それは、ライターを何度変えても結果は同じだった。


その時……。


家の電話が鳴った。


清美はその電話に出たが、それは、母親からの電話だった。


縫いぐるみを、くれた叔母が、交通事故に遭い意識が無いとの事だった。


清美の両親は、すでに病院にいるとの知らせだった。


しかし叔母は、そのまま意識が戻る事無く、亡くなったのだった。


『私が縫いぐるみを、燃やそうとしたからか……。』


清美は一瞬そうも考えたが、偶然なのだと、考え直していた。


叔母の葬儀も、慌ただしく終わった頃だった。


清美は、忙しさに紛れ、縫いぐるみの事をすっかり忘れていたが、やはり部屋に居ると、目の前の縫いぐるみが気になり始めた。


今度はハサミを取り出し、縫いぐるみを切り刻もうと考えた。


しかし、今度はそのハサミ

が、全く切れなくなったのだ。


その時だった……。


また自宅の電話が鳴った。


清美は急いで電話に出た。


すると、その電話は警察からの電話だった。


両親がたった今、交通事故に遭い、すでに即死だという事だった。


その時清美は、やはり、

この縫いぐるみが、原因なのだと確信したのだ。


そして、その事故の原因に成ったのは、自分の行為だと……。


その後清美は、処分する事を諦め、その縫いぐるみは、そのまま部屋の片隅に放置していた。


清美は、三日間掛けて、荷物の整理をした。


そのクマの縫いぐるみは、このまま部屋へ置いて行く事にした。


そして、東京へ上京する事を考えていた。


今の清美は、何処でも良かったのだ。


何もかも忘れて、新しい人生をスタートさせる為には、東京の様な大都市が、良いとだと考えていたのだ。


( 4 )




銀子は、そこまで清美を霊視し、銀子の魂は恵美と久美の元へ帰って来た。


そして、今視た事を恵美に語り始めた。


すると恵美が、銀子に尋ねた。


「姉は、東京へ行ったのでしょうか? 」


そう尋ねた恵美に、銀子が答えた。


「恐らく、今視た感じでは、東京だと思うわ。

だけど…。そのクマの縫いぐるみが気になるわね…。

縫いぐるみの、お祓いから始めないとダメかもしれないね……。」


銀子がそう言うと、恵美は縫いぐるみの事は、知らなかったのか、驚いた様子で銀子に尋ねた。


「縫いぐるみなのに、そんな事あるのでしょうか? 」


行きなり恵美に、尋ねられた銀子だったが、返答に迷っていた。


人形には、作る人の魂が

宿るとは、聞いた事がある。


しかしこの場合は、それだけでは無い様な気がする。


清美に関係する何かが、憑依している様に感じたからだ。


「恵美さん、一度あなたの実家へ、行きたいのだけど…。」


そう銀子が言うと、恵美は直ぐに頷いた。


「銀子さん、宜しくお願いします。」


そう言うと、恵美は頭を下げていた。


恵美が帰った後、久美は銀子に聞いてきた。


「私、解らない事が有るのだけど…。

清美さんは、どうして和也さんに、突然別れを言い出したのかしら……。」


そう尋ねた久美に、銀子が答えた。


「久美は、知らなかったのね…。

優介が友禅を依頼しに来て、和也君の事を話した事があって、あの肝試しの時、野良猫を誤って焼き殺したらしいのよ。

その事が影響して、いるのかもしれないわ……。」


そう言うと銀子は、考え込んでしまった。


暫くして、銀子は久美に言った。


「和也君の事も視に行くわ。

清美さんとは、無関係では無い気がするから……。

幸いに先ほどの霊視で、和也君の顔は確認できたか

ら。」


そう久美に言い残すと、また合掌し銀子の魂は体から離れ、今度は和也の元へ移動した。


それは、和也の自宅の様だった。


和也は諫早から帰り、夜食の準備をしていた。


和也の母親は、男と別れた後、仕事は愚か、家事も出来ない程精神が病んでいたのだ。


病院から処方された薬は、気休めの様に、母親の病状は、日々悪化している様に、和也は感じた。


母親が躁状態の時は、笑顔が多く、和也との会話も弾むが、うつ状態となれば、食事も排泄も和也任せで、母親は何一つ、自から行動する事は無かった。


今夜も母親は、和也が諫早へ行っていた間、和也の作った食事に手をつけた形跡が無かった。


その母親に和也は、夜食を作り始めた。


その時だった……。


「ギェー…。ギェー。」


母がいつもの様に、奇声を発していた。


和也はまたか…。


と思い、母親がいる居間へ駆け着けた。


「母さん、どうしたの? 」


そう、和也が尋ねると、母親は恐怖に怯える様に、カーテンの方を指している。


「そこに…いる。

そこに、誰かが……。」


そう言うと、母親は体を小さくし小刻みに震えている。


「母さん、大丈夫だよ。誰もいないから……。」


和也はそう言うと、母親をキッチンへ移動させ、食事を摂らせた。


最近の母親は、この状態が頻繁になっていた。


入院をさせようと考えた事もあったが、その事を母に伝えると、母親は号泣し和也に訴えるのだ。


「あの人がもう直ぐ、帰って来るから、家で待っていたいの……。」


と…。


仕方なく和也は、自宅介護を選択していた。


そんな和也は、清美の存在が、心の支えに成っていた。


しかし、その清美も諫早へ行った後、何故か和也の電話に出ようとしない……。


留守電に成る事が、多くなっていた。


幸い清美が電話に出ても、和也と会話をしたくないのか、忙しいのだと言って、呆気なく、電話を切ってしまうのだ。


そんな、清美の変化も気に成るが、和也も母親に振り回され、時間が取れず清美の様子を見に行く事さえ、出来ないでいたのだ。


しかし明日は仕事も休みで、清美に会う時間は、少しあるだろう……。


そう思い、清美に電話を入れたのだ。


しかし……。


その電話は、清美からの一方的な別れの宣告だった。


和也は清美の言葉を、映画の一コマの様に、茫然と聞いていた。


そしてすでに、電話は切

れていた。


和也は我に返り、直ぐ清美に電話を入れ直したが、清美の携帯電話は、二度と通じなかった。


その日を境に、和也は絶望的な日が続いていた。


今となれば母親の気持ちが、痛い様に理解出来ると感じた。


好きな男から、一方的に別れを切り出され生きる楽しみも無くなり、藁人形に思いを込めたのだ。


しかし、その母親の思いは、和也の手で呆気なく燃やされ、達成されずして、終ったのだった。


あの時、あの場所に行かなければ母親の思いは、あの男へ届いたのかもしれないのだ。


何という偶然なのか……。


そう、和也は考えていた。


その時、母親の奇声が聞こえてきた。


和也は、またか……。


と思いしばらく様子を窺う事にした。


しかし、その声はいつもより、激しさを増していた。


仕方なく母親が居る筈の、居間へ駆けつけたが、そこに母の姿は無かった。


思わずカーテンへ目を遣ると、カーテンが赤く染まって見える。


声は、外から聞こえているのだ。


和也は、慌ててカーテンを開け庭に目を遣ると、そこで目撃したのは、火だるまになった、母の姿だった。


和也は、どうして良いのか解らず、その光景を茫然と眺めていたが、はっと我に返り、消化しようと素早く上着を脱いだ。


その上着で炎を消し始めたが、直ぐにその行為が無意味だと悟った。


すでに母は、人だと認識出来ない程に、燃え尽きていたからだ。


和也は、全身の力が抜けた様に、その場に座り込んでいた。


そして茫然と、母の亡骸を眺めていたのだ。


辺りはガソリン臭に混じり、嗅いだ事の無い悪臭が、庭一面に立ち込めている。


その時、あの男に対する、憎悪が和也の中で、沸々と湧き出たのである。


「許すものか…。

母さんを苦しめたあの男を…。

殺してやる……。」


和也は、ようやく立ち上がり花壇を掘り返していた。



そして、そこへ母親の亡骸を埋葬したのだ。


和也は、母親の亡骸に手を合わせ誓っていた。


あの男に復讐する事を…。


翌日和也は、彫師の元を訪ねていた。


自分の背中に、不動明王の墨を付く為だった。


不動明王は、短期決戦で、願いを叶えると聞いたことがある。


もう墨を付く事に反対する者は、誰一人と居ないのだ。


彫師は、細身で神経質そうな男だった。


その彫師が、和也の希望する、不動明王の絵柄を持って現れた。


和也は迷わず、青不動明王に決めた。


その後、煎餅布団に寝かされた和也は、彫師に背中を向けていた。


彫師の周りには、仕事道具の筆が何本も並んでいる。


その筆は絵の具用の筆に見えるが、筆の毛先が全て、細い金属の針だった。


その筆が、和也の背中を、規則的なリズムで突き刺している。


和也は、その痛みに耐えて

いた。


そして、二時間程で和也の背中には、筋彫りの一部が描かれた。


「兄さん、今日はこれで終了です。

また少し日を空けて、来てください。」


無愛想に彫師はそう言った。


「いや、日を空ける事は出来ないので、急ぎでお願いしたいのですが……。」


そう、和也が言うと、彫師が答えた。


「兄さん、余り無理すると体が持ちませんよ。

今日だって、随分痛み我慢して……。

今夜は、少し熱が出るかも知れないが、風呂も入らない方が良いですよ…。

そうだ、これを飲むと、少しは気が紛れるでしょう。」


そう言うと、彫師は錠剤を持ってきた。


和也は、それが怪しい物だと察しはついたが、和也の気持ちは、どうでも良かったのだ。


彫師に、また訪れる事を告げ、和也は自宅へ戻った。


その日から三ヶ月の間、和也は、彫師の元に通い、和也の不動明王は、無事完成した。


その間、和也の体は、薬に依存する様に変化していた。


徐々に薬の量は増え、自らが覚醒剤を、買い求める程になっていたのだ。


あの男の居場所も、和也は探し出していた。


男は、東京の墨田区に住んでいて、婦人服の店を経営している事まで調べていた。


和也は、東京へ行く為の準備を始めた。


恐らく、ここへ戻る事は無いだろう……。


その時、携帯電話のベルが鳴った。


和也は、携帯電話を取り、着信歴に目を遣ると、優介

からだった。


和也は、優介からの電話に出なかった。


優介の事は嫌いでは無いが、もうすでに和也とは、

住む世界が違う様に感じていたからだ。


和也からすれば、優介は全てに恵まれていて、幸福に思えるのだ。


その優介には、今の自分の気持ちなど、到底理解出来ないだろ。


和也は、そう思っていたのだ。


そして翌日、和也は男を追い求め、東京へ旅立ったのである。


銀子は和也の事を、そこまで視て、魂を銀子の体に戻した。


久美は、既に食事を済ませ、テレビを見ていた。


「銀子姉お帰り、晩御飯先に済ませたから、銀子姉も早く食べてね……。」


そう言うと、久美は銀子の好きな、海老チリ作っていた。


「海老というと、アンが好きだったわね……。」


そう久美が言った。


その久美の言葉に、銀子はある事が、ひらめいた。


「そうだ、アンに聞いてみるわ。

和也君が誤って野良猫を、焼き殺したことを…。

その猫の呪いが、本当にあるのかを……。」


そう言うと、銀子は食事を済ませ、アンが現れやすい時間まで待つ事にしたのだ。


夜中の二時に成った。


この時間は、アンが現れやすいと、勝手に考えていたが、アンや父が現れる時間は、その日によって違う事に気が付き、可笑しくなった。


銀子は、アンを呼び出す為に、合掌し呪文を唱えた。


程なくしてアンと父が現れた。


「銀子、行き成りアンを呼ぶなんて、それは、許されていないぞ。」


そう、父は不機嫌に言った。


「そうなの?

知らなかったわ。」


銀子は呆気なくそう答え、アンに話しかけた。


「アン、猫の呪いってあるの? 」


銀子は、和也と清美の事を、全てアンに話した。


すると、アンが答えた。


「人間だって、人を呪うのだから、

畜生だって同じだよ。

そういう事もあるわ……。

恐らく、清美が可愛がっていた猫と、旅館の裏山にいた猫は同じ猫だと思うよ。それは、その猫に確かめないと、確かな事は、解らないけど……。

一度確かめて帰って来るから、爺ちゃんと母ちゃんは、ここで待っていてね……。」


そう言うと、アンは銀子の前から姿を消した。


そして、父が言った。


「アンは、何だか嬉しそうだな。

銀子の役に立てる事が、嬉しいのだろうな……。

アンはお前の事が、大好きだからな……。」


父の言葉は、素直に嬉しかった。


その時、冷たい風が銀子を横切った。


アンが戻って来たのだ。


銀子が思うより、遥かにアンの帰りは早かった。


アンは、行き成り語り始めた。


「やはり、同じ猫だったわ……。

そのミー子は妊娠して、生む所を探していた時、食糧の詰まったトラックに思わず飛び乗ったの。

すると、その車が、動き出してしまった……。

しばらくしてミー子は無事車を降り、行き着いた所が偶然にあの裏山だった訳だよ……。

清美に会った時、清美の側へ行きたいと思ったけど、その時、子供達の事が気がかりで、急いで子供達の所へ戻ったのよ……。

その時、和也の顔は見なかったけど、微かに和也の匂いがしたとも言っていた。

和也の事は、ミー子は嫌いだと言ったよ……。

一度ミー子が、清美の庭へ行った時、清美の観えない所で、ミー子の体にタバコの火を付けたらしいのよ。

そして、今回も子供達は、全部焼け死んでしまい、和也の事は絶対許す事は、出来ないのだと、言っていたわ……。」


アンが銀子に伝え終わると、アンは自分の仏壇の前へ行った。


「母ちゃん、久美ちゃんに、お礼言ってね」


そう言いながら、アンは、仏壇に供えてある、海老を食べていた。


久美がアンの為に、海老チリの海老だけを、別にボイルして、アンの仏壇へ、供えてくれたのだろう。


銀子は、久美の気持ちが、嬉しかった。


アンは、海老を食べ、銀子の元へ戻り、また語り始めた。


「私達は、良くされた事も悪くされた事も、簡単に忘れる事が無いのよ。

だから執念深いと、言われるのかも知れ無いわね。

和也の事で、ミー子を止める事は、残念ながら私には出来ないわ。」


そう言うと、アンは父と連れだって帰って行った。


翌日銀子は、事の成り行きを久美に話し、恵美と共に恵美の実家に行く事にした。


話しに聞いていたクマの縫いぐるみは、銀子の予想通り、眼球はまるで生きているかの様に、怪しく光っていた。


銀子は、その縫いぐるみの除霊に取り掛かった。


いつもの様に御霊を取り出した。


そして結界を引き、縫いぐるみの前へ座り合掌した。


銀子が呪文唱えると、その縫いぐるみは、直ぐに揺れ始めた。


やがて、縫いぐるみの中に宿る霊に、銀子は語り出した。


しばらくすると、その中に宿る霊が、姿を現わしたのだ。


それは、五十歳位の男性の生霊で人形師の職人だった。


男はイギリスに在住し、名前をディビットと名乗った。


男は腕の良い職人で、彼の作る人形は人気があり、高価な値段で取引されていた。


男は、友人の少ない一人娘の為に、娘の好きなクマの縫いぐるみを作った。


娘は、その縫いぐるみを、とても大切にしていた。


しかし、その娘が、十二歳の時大病を患い、不幸にも、この世を去ったのである。


男はその日から、娘が大切にしていた、そのクマの縫いぐるみを娘と思い、作業場に置き、常に語り掛けていた。


しかし、作業場に出入りしている業者の一人が、その縫いぐるみを盗み、骨董店に売買したのだ。


その骨董店に、展示されていた縫いぐるみを、清美の叔母が偶然にも、海外旅行の土産として、買ったのだった。


その縫いぐるみには、その娘の霊も入り込んでいた。


銀子は、その娘を、呼び出すことにした。


娘は、直ぐに銀子の前に、姿を現した。


「あなたは、いったいどうしたいの? 」


そう銀子が尋ねると、娘は父の元に帰りたいのだと言う。


「解ったわ。

その変わりに、清美の事を、守ってくれるかしら…。

だったら、あなたの帰りたい所へ、希望通り返してあげるわ。」


銀子はそう言って、娘と約束を交わした。


娘は泣きながら、何度も頷いていた。


銀子は除霊を解き、事の成り行きを、久美と恵美に話した。


そして、娘に聞いた住所へ、クマの縫いぐるみを送ったのだった。


「銀子姉、次は清美さんの居場所だね……。」


そう久美が言った。


銀子はまた、合掌し呪文を唱えた。


銀子の魂は、清美の元へ辿り着いていた。


清美は、アパートの一室に一人で住んでいた。


それは、東京江戸川区周辺で、総武線沿いのアパートだった。


近くに小岩駅が視えている。


銀子はしばらく、清美を観察する事にした。


清美は、幼い頃から、顔にコンプレックスがあった。


体は細身でかなりの長身だが、顔は妹とは違い、目も細く小さい。


顎のエラも張り、可愛げの無い顔がとても嫌だった。


清美は、東京の誰も知らない土地で、新しい顔に生まれ変わる事を決めた。


そして、美容整形外科へ行き、顔の殆どを変えたのだった。


顔の腫れが減ると、清美は見間違う程の、別人に生まれ変わっていた。


道行く人が、清美を振り返る。


それだけで清美は、充分満足だった。


清美は、リクルート雑誌で仕事を探した。


そして見事に、宝石販売の会社へ就職したのだった。


それは清美が、新宿の宝石店へ配属され、一か月過ぎた頃だった。


その宝石店に、一人の

男が来店した。


「いらっしゃいませ。」


清美は、その男を笑顔で出迎えた。


その男は高価なスーツに身を包み、四十代後半位で、

誠実そうな紳士に観える。


「男性用の指輪を探しているのだが……。」


そう言われ、清美は商品ケースから、男に似合いそうな指輪を取り出した。


男は、その指輪を視て苦笑し、清美の顔を覗き込んだ。


男はその指輪が、気に要らなかったのだろう。

清美は、即座に店の奥から、高価な指輪を選び、再度その男に差し出した。


すると、男はその指輪の一点を手に取り、自らの手に付けていた。


その指輪の金額は、今の清美が一年間働いても買えない程の、高価な指輪だった。


男はあっさりと、その指輪を買い求め、サイズ直しを依頼した。


それから三日後、その男は指輪を引き取りにやって来たが、まだサイズ直しが、出来ていない事を伝えた。


「川島様、ありがとうございます。

しかし、まだサイズ直しが……。」


そう、男に伝えると、


「いや、解っているよ。

今日は別の物を買う為に来たのだよ。」


川島と名乗る男はそう言うと、女性物のネックレースや、イヤリングを視ている。


今度は、女性にプレゼントなのだろう……。


そう思い清美が、男に語り掛けた。


「プレゼントで、ございますか?


川島は、直ぐに答えた。


「そうなのだが……。

女性物はどれが良いのか解らないから、君が選んでくれないか?

年齢は、君と同じ位だ。」


そう言われ清美は、自らが欲しいと思った、高価なダイヤのイヤリングと、ペンダントを選んだ。


川島は、又あっさりと決断した。


そして川島が言った。


「指輪が出来た時に来るから、その時まで預かっていてくれないか。」


そう言うと、足早に店を出て行った。


これで、清美に与えられた個人売上のノルマはクリ

ア出来たのだ。


何もかも清美にとって、順調に思えた。


それから五日後、川島から宝石店に電話があった。


川島の担当である、清美が電話を受けた。


「はい。安本です。川島様ですか? 」


川島が語った電話の内容は、急用が出来て、宝石店へ出向く事が出来ないのだと言う。


「申し訳ないが……。今日必要なんだ……。

その宝石は宿泊しているホテルへ、届けてくれないか。」


と、川島は言った。


清美は心よく引き受けたが、そのホテルは横浜だった。


そのホテルまで、川島の指定通りタクシーに乗り、清美は横浜へ向かった。


ホテルへ到着すると、すでに、川島はロビーにいた。


清美が駆け寄ると、川島は笑顔になり、申し訳無さそう言った。


「ありがとう。助かったよ。お礼に一緒に食事でもしないか…。

もうすでに、予約してい

るから。」


そう言うと、断る清美を強引に、ホテルのレストランへ誘導した。


二人は、レストランの予約席に座った。


清美は、数々の洋食のコースメニューと、高価なワインを目の前にして驚いていた。


こんな贅沢は、生まれで初めてだったからだ。


川島は、日々これ程、贅沢な食事をしているのだろう。


川島の馴れた手つきが、それを物語っていた。


川島の話す内容は、楽しく笑える話題で、清美にとって、この日は久し振りに、心が和んだ日となった。


川島は、名刺を清美に手渡した。


それを視ると、名前は、川島かわしま あきら

IT企業の、代表取締役と書いてあり、他にも数々、女性相手の商売を、手がけているとのだと語った。


そして、清美が持って来た、ダイヤのペンダントとイヤリングを、なんと清美に、プレゼントしたのだった。


清美は、素直に嬉しかった。


しかし……。


幸せに馴れていない清美は、少し怖くも感じていたが、しかし…。


やはり全て、清美の選択は間違っていなかったのだと思っていた。


東京に来た事も顔を変え、新たに生まれ変わった事も……。


何もかも間違いでは無かったのだ、清美はそう思っていた。


その日を境に、二人は時折会う様になり、愛し合う様になった。


やがて二人は、錦糸町に

ある、新築のマンションへ、移り住んだのだった。


清美は彰と生活をする事で、ひとつ気に成る事があった。


それは、彰が夜寝ていると、必ず奇声を発し、飛び起きることだった。


清美はその度、彰に理由を問いただすが、彰は何も答え様としなかった。


その彰は、日々やつれた顔になり始め、体の不調も訴える様になっていた。


清美は、そんな彰を心配になり、病院に受診させたが、特に異常は無いという事だった。


しかし、彰の食は徐々に細くなっていく。


そんな彰が、突然フカヒレスープが、食べたいと言い出したのだ。


食欲が出てきた彰を嬉しく思い、清美は直ぐに食材を買いに行こうと、マンションを出た……。


その時だった。


人の気配を感じ、清美は後ろを振り返った。


そこには一人の男がマンションを見上げ、じっと凝視していた。


清美は、その男を観て驚いていた。


男は良く知る和也だったからだ。


しかし、その和也の顔はどす黒く目は鋭く光っていた。


それは清美がかつて知る、和也の顔では無かったのだ。


和也は、清美の顔を一瞬見たが、直ぐに目をそらし、再度マンションを見上げた。


『和也は、私を追ってここまで来たのか……。』


清美はそう思ったが、幸いにも、和也は清美には、気付いていない様子だった。


清美は平静を装い、車庫から車を出し、デパートへ向かった。


清美は先ほど観た、和也の表情を思い出していた。


すると徐々に、恐怖が増してくる。


『何故……。

和也が此処に居るのか、何故…。

私の居場所が解ったのか…。

何故…。』


考えれば考える程、和也の行動が、理解出来なく成っていた。


清美は,そう思いながらも、買い物を済ませ,マンションへ戻った。


マンションの周辺を慎重に見渡すと、もうそこには,すでに和也の姿は無かった。


清美は素早く車を降り、彰の待つ部屋へ帰り着いた。


しかし……。


部屋には、彰の姿はなかった。


『あんな体で、何処に行ったのかしら……。』


そう思い、清美は彰の携帯電話に、連絡を取ろうとしたが、携帯電話は繋がらなかった…。


そのうちに、帰って来るだろうと思い、清美は夕食の準備に取り掛かった。


しかし、いくら待っても,その日を境に、彰が帰って来る事は、無かったのである。


『そう言えば最近、彰の後ろに灰色の靄が架っているのは、何なのだろう……。』


それは先ほど視た、和也の後ろにも同じ物があった。


時折ベランダにも、女の顔が視える事もある。


清美は、その事も気に成っていた。


しかし、二人が住むマンションは十二階の部屋だし、人が立つ筈が無い……。

この物件は、新築のマンションだ……。

以前誰かが、住んでいた訳でも、ないのだから……。

清美はそう思いたかった。

しかし……。


あれは、彰が入浴中の事だった。


「ギャーウーウッー」


清美は慌てて風呂場へ向かった。


彰は、風呂場の鏡を指さし、怯えていた。


清美は、その鏡に目を向けたが、その鏡に映っているのは、清美と怯えた彰の姿が、映っていただけで、何も不思議な事は無かったのだ。


すると彰は苦笑いを浮かべ、


「いや……。

もういいよ。」


そう言うと、いつもの彰に戻ったのである。


その状態は、その後頻繁に、彰を悩ませていた様だったが、彰は、その事について何も語らなかった。


彰が居なくなって、三日が経っていた。


清美は、徐々に不安に成っていた。


こんなに長い期間、彰から電話が無い事は、今までに一度も無かったからだ。


清美は、彰の会社を訪ねる事にした。


しかし、すでにそこは、彰の経営する、会社では無

かったのだ。


いったい、どうなっているのか、理解出来なかった。


そして、清美は仕方なく、彰の行方を探せず、自宅に戻っていた。


だが、不思議とその日を境に、女の影も人の気配も無く成っていたが、一人でこのマンションに居る気がしなかった。


何か恐ろしく、感じていたのだ。


そう思うのは、和也の姿を、目撃していたからだろう。


和也の形相は、恐ろしく変化していた。


そして、それは全て清美に向けられて居る筈なのだ。


清美は、そう思っていたの

である。


清美は、1人でマンションにいる事が辛くなり、しばらく旅へ出る事に決めた。


そして、旅行会社が薦めた

四国への旅を決定したのだ。


清美は、二週間の旅を終え自宅に戻ったが、やはり彰が帰って来た形跡は無く、清美が出掛けた時と、何も変わらなかった。


清美は、増々不安になり、警察署へ彰の失踪届けを提出したのだった。





( 5 )





銀子は、そこまで清美を霊視し、久美と恵美の元に帰ってきた。


そして、今視た出来事を

全て二人に話し、恵美に言った。


「恐らく、私の霊視が正しければ、ここに電話が有る筈だわ。」


そう言うと、恵美が驚いた表情をして尋ねた。


「どうしてですか?

何故そう思うのですか? 」


恵美は、訳が解らないのだろう。


銀子は、その訳を話し始めた。


「私はすでに、あなたのお姉さんに、四国で会っているのよ……。

相談事があったら、いつ

でも電話してね、って言ったから……。

しかし、名前は安田直子と言ったわ。

偽名を使ったのよ……。

お姉さんには、悪気は無かったと思うわ。」


そう言うと、恵美が言った。


「そんな、偶然があるのですね。」


その言う恵美に、銀子が言った。


「全て、この世に起こる現象には、偶然は存在しないのよ。

全てが必然なのよ。

神は必然的に、お姉さんと私を、会わせたとしか思えないわ。」


そう言うと、恵美は少し安心したのか、笑顔になっていた。


銀子と久美は、恵美に別れを告げ、自宅に戻った。


そして久美が言った。


「銀子姉、和也さんは、どうして清美さんの所へ、行ったのかしら……。

縁りを戻す為にしては、少し変だし……。」


そう問う久美に、銀子が答えた。


「和也君は、恐らく清美さんと暮らしている、男性を探していたのよ。

以前、優介がここに来た時、話した事を考えると……。

そう思うわ。

二ヶ月間だけ、和也君の父親になった人の事だけど。」


そう言うと、久美は驚いていた。


「それじゃ、清美さんの彼は、元和也さんの義父だったって事? 」


久美は、驚いた様子で、銀子の顔を覗き込んだ。


「恐らく…。

そうだわ、しかし…。

清美さんの彼も、和也さんも、もうこの世には居ない気がするのよ……。」


銀子がそう言うと、久美も小さく頷いていた。


それから二日後、銀子の予想通り、それは清美からの電話だった。


「銀子さん。

あの……。

私、四国のお遍路で、御一緒させて頂きました……。」


そこまで言った清美の言葉を、銀子は遮っていた。


「清美さんでしょう?

嘘の名前は必要ないわ。

あなた、一度こちらへ戻って来なさい。

私の名刺に書いていた住所は、あなたなら検討が付く筈でしょうから……。」


銀子はそう言うと、清美が言った。


「…。銀子さん…。

私……。

解りました。

今から直ぐに、こちらを発ちます。」


それ以外、清美は何も語らず、銀子は清美との電話を終えた。


清美は翌日、銀子の家を訪ねていた。


「清美さん、驚いたでしょう?

でも事の始まりは、すべて貴方の妹、恵美さんの依頼から始まったのよ……。

貴方が此処に来たのは貴方の彼の行方の事でしょう? 」


そう銀子は清美に言った。


すると清美は小さく頷いた。


「清美さん、彼の事は霊視してみるけど…。

その結果、貴方の希望通りの結果になるとは限らないけど…。

それでも構わないかしら…。」


そう銀子が言うと、清美が言った。


「解りました。私も何か、嫌な予感がしています。

しかし……。

もし、最悪な結果だった

ら……。」


そう言うと、清美は込み上げる感情を堪え、俯いてしまった。


その清美に銀子が言った。


「それでは、川島彰さんの、霊視を始めます。」


銀子の魂は、彰が失踪した日へ遡っていた。


清美は、買い物に行くと言って部屋を出た。


彰は、今日が清美の誕生日だと知っていた。


その為に花とケーキを、店に予約していたのだ。


それを、清美に悟られない様に、わざと買い物を頼み清美を驚かせ様と思っていたのだ。


彰は急いでスーツに着替えていた。


このところ、体調が悪く外で食事が出来ない事を、清美に申し訳無いと考えていた。


今の彰に出来る、精一杯のサプライズのつもりでいたのだ 。


彰が電話で予約したタクシーは、すでにマンションの駐車場に待機していた。


そのタクシーへ乗り込もうする彰に、運転手が奇妙な事を言った。


「お客さん。

その女性達、全部は乗れないから、もう一台無線で呼びますか? 」


彰は、またか……。


と思ったが、運転手の申し出を断った。


以前も同じ様な事があった。


あれは彰が一人で、レストランへ行った時だった。


ウエイターが注文を取りに彰の元に来ていた。


彰は、ランチ定食を頼んだ。


しかしウエイターは、そのまま彰の側から離れなかった。


しばらくすると、そのウエイターが不愉快そうに言った。


「皆さん、同じ物でいいですか? 」


そう言うと、彰の顔を覗き込んだ。


彰は理解出来なかったが、仕方なく頷いた。


すると、四つのランチ定食がテーブルに並んだのだ。


その時彰は、何か異様な物を感じていた。


その出来事が気になり、霊能者にお祓いを依頼した。


しかし、霊能者が語った事は、生霊はお祓いが難しいのだと言う。


その生霊達が誰なのか、彰にも察しが付いていた。


しかし彰の中には、その度に真剣だったのだ。


「俺は、悪くない……。

金も貸してくれと、頼んだ事は一度も無い筈だ。

彼女達が自ら出したではないか……。」


彰が女性を愛すると、何故か事業が上手くいかず、結果的に女性達が資金援助をし、その後、結婚を要求するのだ。


彰はその事が耐えられなくなり、その女性達と別れてきたのだ。


しかし、清美だけは違っていた。


清美の境遇が彰と似ていたからだ。


彰も早くに、両親を亡くしていた。


清美は、今までの女達の様に、彰の金を目当てに、贅沢な要求をしない女だった。


清美とは、親子程の歳が離れているが、清美と居ると自分の心が落ち着き、何故か安心出来るのだ。


彰は運転手に言った。


「その先に、花屋があるから、そこで少し待って居てくれないか。」


彰は予約していた花を受け取り、次のケーキ屋を指定した。


その時だった……。


行き成り運転手が、甲高い声で笑い出したのだ。


彰は訳が解らず、思わず運転手を見た。


しかし男だった筈の運転手は、いつの間にか女の姿に変わっていた。


「誰だ。お前は……。」


すると、運転手は振りかえらずに言った。


「私の声忘れたの? 」


そう言うと、その女はゆっくり彰に顔を向けた。


彰は思わず悲鳴を上げた。


「ヒィー……。

だ、誰だ……。」


その女の顔は、黒く焼け爛れ眼球が飛び出ている。


彰は声を出す事冴え忘れていた。


すると、その女が語り始めた。


「妻の顔を忘れたの?

私はこの日が来る事を、待っていたのよ……。

貴方が、幸せを感じた時に、迎えに来ることを…。

たった二ヶ月の結婚生活なんて寂し過ぎるわ…。

漸くこの日が来たのよ…。」


そう言うと、車は増々加速し始めた。


彰はドアを開けようと必死に抵抗するが、ロックがかかりドアは全く開かない。


「あなたが逃げようとしても、所詮無理なことよ…。

もう二度と逃がさないわ…。」


そう、女は言った。


「止めてくれー。

俺が何をした…。

君の嫉妬深く、その暗い性格に俺は付いて行けなかっただけだ…。」


そう彰は言った。


すると女は、薄気味悪い表情を浮かべ、言い放った。


「もう、何を言っても無駄よ、貴方と私はずっと一緒よ…。

あの世でも…。」


そう言い放つと、彰の悲鳴と共に、そのまま車ごと海へ飛び込んだのだ。


車は静かに、海の底へと沈んでいった……。


そこまで視て、銀子は清美の元に帰ってきた。


そして、清美に言った。


「もう、彰さんの魂は、そこで途切れているわ…。

悲しい結果に成ってしまったわね…。」


そう言うと、清美は予期していたのか黙って俯いた。


暫く沈黙した清美が漸く口を開いた。


「あの人は、恐らくこうなる事を予期していたのだと思います…。

でも、その女の人が、あの和也君の母親だったなんて…。

何か恐ろしい縁を感じます。

そう言えば、マンションの前で和也君を見たのです。

しかし、それは私が知っていた頃の、和也君では無かった…。

凄く痩せて恐ろしい目をしていたのです。

きっと私を、探しに来たのだと思い、私は隠れましたが……。

その和也君の後ろにも、彰

さんと同じ灰色の靄が架っていました。」


そう清美は語った。


その清美に銀子が言った。


「そうなの…。

しかし、貴方を探しに来たのではなかったわ。

彰さんに、会う為だったのよ。」


そう銀子が言うと、清美は既に納得した様に頷いた。


そして、清美は言った。


「私、彰さんの遺体が見つかったら手厚く供養します。

そして福岡へ帰って来ようと思っています。

妹も子供が生まれますし、ここへ来る時に、妹には連絡を取りました……。」


清美は涙を浮かべ、肩を落とし銀子の部屋を出て行った。




( 6 )




久美が仕事を終え、銀子の元へ遣って来た。


「銀子姉、おでん作ったから食べよう。」


銀子は、暗い話しの後に久美の顔を見ると、何故か心が落ち着く…。


銀子は久美が作ったおでんを食べながら、今日の事を久美に話していた。


「銀子姉、清美さんが視た二人の後ろに居た物は、死に神って事でしょう? 」


そう尋ねた久美に、銀子は小さく頷いた。


「じゃー和也君も……。

恐らく……。」


と久美が、口籠ってしまった。


その久美に銀子が言った。


「明日、優介君に会いに行こうと思うのよ。」


そう言うと、久美も頷いた。


翌日銀子は、出掛ける準備を始めていた。


すると電話のベルが鳴った。


それは優介からの電話だった。


「銀子さん、今日伺ってもいいですか?

昨日、清美が病院へ見舞に来てくれたのです。

そこで和也の事も聞いて…。

俺、外出の許可出ましたから……。

大丈夫です。」


そう言って電話を終えた。


程なくして、優介は恵美と連れだって銀子の元へ遣って来た。


「銀子さん、今までの和也の事は恵美と清美に聞いて知っていますが…。

その後の和也の行方を知りたくて…。」


そう優介は言った。


その優介に銀子が言った。


「解ったわ……。

霊視しましょう。」


そう言うと、銀子は何時もの様に神に合掌した。


銀子は和也の姿を追った。


すると徐々に和也の姿が、脳裏に浮かんだ。


和也は、東京の上野公園の近くで佇んでいた。


その時、和也の側に一人の男が近寄り何かを渡した。


和也は数枚の金を、男に渡した。


それは、銀子にも理解出来た。


覚醒剤の取引なのだ。


和也はそのまま公衆トイレに駆け込み、注射針を自らの腕に刺していた。


和也は暫く静止していたが、その後水を得た魚の様に活発に歩き出し、上野駅から電車に乗り込み錦糸町へ向かっていた。


錦糸町の駅へ着いた和也は、地図を片手に辺りを見渡し、また歩き始めた。


和也は、目的のマンションを見つけ薄笑いを浮かべた。


『このマンションの、一室に川島彰が居る筈だ…。

あの野郎ぶっ殺してやる…。』


その時だった。


マンションの住人らしき長身の女が、そのマンションから出て来た。


和也は、顔を見られては困ると思い、駐車場の影に身を隠したが、その女の運転する高級車は、素早く駐車場を出て行った。


一瞬和也は、その女に顔を見られた様な気がしたが、


『モデルの様な派手な女が、俺を視たところで、何も覚えていないだろう。』


和也はそう思い、胸元に隠し持っていた登山ナイフを確認した。


しかし、オートロックに

なったマンションは、和也の侵入を拒んでいた。


『このまま、此処に居れば何時か、あの男は出て来る筈だ。

其れまで此処で待てばいい

……。』


その時だった。


一台のタクシーが、駐車場へ入ってきた。


和也は目を凝らし、人が出て来るのを待っていた。


しかし、中々タクシーに乗り込む客は現れない。


和也は、タクシー運転手の顔に目を移した。


その時、腰を抜かす程驚愕したのだ。


その運転手は、亡くなった母親だったからだ。


『母さんは、生きて居るのか…。

そんな事は有りえない…。

母さんは、俺の目の前で

焼け死んだのだから……。』


和也は、しはらく、そのタクシーの運転手を凝視した。


すると、すでにタクシーの客はそのタクシーに、乗り込んでいた。


その客の顔を見て、初めてその客が彰と確認したが、それは、かつて一緒に居た頃の彰では無く、やせ細り活気も無く今にも倒れそうな男だった。


タクシーは呆気無く、和也の前を通り過ぎて行く……。


和也はそのタクシーを、追いかける気力をすでに無くしていた。


『母さんが何故……。

これがシャブの幻覚症状なのか……。』


和也は、力なく歩き出した。


どれ位歩いただろう。


和也は、ここ三日何も食べて無い事に気付いた。


しかし、先ほど覚醒剤を買った事で全ての金を使い果たしていたのだ。


和也は、道に出されているゴミの中を手当たりしだい食べ物を探していた。


そにはコンビニ弁当の食べ残しがあった。


和也はその弁当を貪った。


しかし、和也の空腹は満たされる事は無かった。


そこから和也は食べ物を求め、ひたすら歩いていた。


すると繁華街の裏手に出た。


そこには沢山のゴミが出されている。


そこで和也が探した物は、熟したトマトだった。


思わず和也は其れを頬張った。


トマト嫌いな和也にも、意外に美味しかった。


しかし、その時だった。


急に胸が熱くなってくると同時に、激しく咳き込んできたのだ。


最近頻繁に此の症状が出るが、しばらくすると嘘の様に治まる事を和也は知っていた。


しかし……。


その症状は治まらなかった。


それどころか、息苦しさは何時もより激しさを増し

ている。


『助・け・て・く・れ……。

優介……。』


そう言い残すと、和也は呆気無く息を引き取ったのだ。


やかて、道行く人の通報により、救急車とパトカーが遣って来た。


しかし身元不明で、和也の遺体は警察預かりとなっていた。


銀子は、そこまで視て優介と恵美の元へ戻った。


そして全てを二人に話した。


すると優介が言った。


「それじゃ、もう和也は亡くなったのですね…。

あの時、俺が事故に遭った、あの日に……。」


そう言ったまま、優介は黙って俯いた。


「優介君、和也君のお母さんの居所を、警察に知らせないと…。

自宅の庭に埋めてある

わ…。

警察が何処まで信じてくれるか解らないけどね。」


そう銀子が言うと、優介は、


「俺、警察へ行って、全て有りのまま、話してみます。」


そう言って、優介と恵美は警察署へ向かった。




( 追憶 )




優介は、一か月の入院後無事退院した。


その直後、東京湾から一台の車が引き揚げられた。


その車は彰が乗ったタクシーだった。


そこにあった二体の死体は、男性のタクシー運転手と、川島彰だった。


警察の調べでは、車のブレーキ痕が無かった事から、運転手の居眠り運転で片付けられていた。


同じ頃、和也の実父が立ち合いの元で、自宅の庭が堀起こされた。


検視の結果、そこにあった遺体は、和也の母だと確認された。


和也親子の遺体は実父が引き取る事で、事件は幕を閉じたのだった。


銀子は、優介と久美を伴い、和也の自宅庭に佇んでいた。


母の霊を鎮める為の御霊会である。


そして三人は、その足で東京に向かったのだ。


和也が亡くなった路地と東京湾へ行き、そこで又、御霊会を行ったのである。


帰りの機内で優介が言った。


「銀子さん、俺、先ほど行った路地裏で、和也の声を聞いた気がしました…。

優介ありがとう、心配掛けて悪かったな…。

そう和也が、言った気がしました。

俺、まったく霊感無いから、気のせいだと思うのですが…。

和也はこんな事に成ってし

まったけど、和也は…。

人を殺さなくて、良かったと思っています。」


その優介に、銀子は黙って頷いた。


銀子は考えていた。


何故人々は怖い物観たさに、肝試しなど遣るのだろうと……。


もし和也達が、あの旅館へ行かなかったら、こんな悲惨な終り方は無かっただろう。


肝試しで、仮に何も目撃しなくとも、成仏出来ない霊は様々な霊障を起し訴えてくるのだ。


和也の母もそうである。


藁人形で人を呪った、しかし、その事で自らの命を落とす事に、なってしまったのだ。


人を呪えば、必ず自分に帰って来ると言われている。


いつも前向きに、人を呪わず生きる事は難しい事だが、過去に振り回される事なく勇気を持ち、希望の明日へ目を向け生きる事の方が、執着心を持って生きる事より、何倍も幸福に成れる筈である。


そして、何事も気を許せる友人や家族に相談する事で、多少は回避出来るのでは無いのか…。


自らの命を絶つ事は、最大の罪である。


それは、神の思想に反する事だからだ。


どんなに生きる事を希望しても、生きられない者も多くいるのだから…。







以前、二度呼吸が停止した事がある。一度目はこの世に生まれて一日経った時だっ

た。

医者と看護師が忙しく、銀子の周りに居た。その光景を、銀子は天井から眺めていた。

医者は生まれて間もない銀子の口へ、管を差し込み吸引していた。

すると、酸素欠乏で真っ黒になっている銀子の体は、徐々に赤見を差し始めた。その時、

銀子の魂は己の人体へ素早く入り込んだ。そして、その医者が、安堵した顔を、銀子は忘

れる事はない。

二度目は、子宮全摘の手術の後だった。予定より、二時間も長い手術になった。

その後病室に運ばれ、ベッドに寝ていたが、天井から、白く輝くゴンドラが降りてきた。

そのゴンドラに触れると、術後の痛みが軽減されるのだ。銀子は何も考えず、片手で強く

ゴンドラを掴んだ。すると先ほどより、遥かに心地良く、痛みが無くなったのだ。

今度は両手で掴むと、ゴンドラは、ゆっくりと上へ登り始めた。しかし、その時急激な喉

の渇きを覚えた。

床頭台の上を見ると、ミカンが並んでいる。そのミカンを取ろうと片手を離した。すると

急激な痛みが、再度襲ってきた。

仕方無く、一度はミカンを諦めかけたが、やはり喉の渇きを潤したいと思った。

痛みを我慢しながら、ゴンドラから両手を離した。その時、銀子は我に返ったのである。

そして、そのゴンドラは既に消えていた。

あの時、喉を潤す事を諦め、生きる気持ちが薄れていたら、銀子はゴンドラに乗り、あの

世へ旅立っていたのだろうか……。

銀子は思う……。人がこの世に誕生した意味を……。人々がもっと己が誕生した意味を考

えれば、生きる物全てに優しく出来、そして命を大切にするのでは無いのか……。

辛く悲しい事も、楽しい事も全て己が、生きる為に意味のある事なのだと、己が理解した

時、本当の幸福が訪れる筈だと、銀子は思う。

和也の母が、彰との執着を絶ち、明日に向かって生きていれば病に侵され、自ら命を絶つ

事も無かった筈なのだ。

たった一つの、神に与えられた大切な命を、死に神が訪れるその日まで、勇気を持って生

きていきたい……。

銀子はそう思ってい



私は以前、二度呼吸が停止した事がある。


一度目はこの世に生まれて一日経った時だった。


医者と看護師が忙しく、私の周りに居た。


その光景を、私は天井から眺めていた。


医者は、生まれて間もない私の口へ、管を差し込み吸引していた。


すると、酸素欠乏で真っ黒になっている私の体は、徐々に赤見を差し始めた。


その時、私の魂は己の人体へ素早く入り込んだ。


そして、その医者が安堵した顔を私

は忘れる事はない。


二度目は、子宮全摘の手術の後だった。


予定より、二時間も長い手術になった。


その後、病室に運ばれベッドに寝ていたが、天井から白く輝くゴンドラが降りてきた。


そのゴンドラに触れると、術後の痛みが軽減されるのだ。


私は何も考えず、片手で強くゴンドラを掴んだ。


すると先ほどより遥かに心地良く、痛みが無くなったのだ。


今度は両手で掴むと、ゴンドラは、ゆっくりと上へ登り始めた。


しかし、その時急激な喉の渇きを覚えた。


床頭台の上を見ると、ミカンが並んでいる。


そのミカンを取ろうと片手を離した。


すると急激な痛みが、再度襲ってきた。


仕方無く、一度はミカンを諦めかけたが、やはり喉の渇きを潤したいと思った。


痛みを我慢しながら、ゴンドラから両手を離した。


その時、私は我に返ったのである。


そして、そのゴンドラは、すでに消えていた。


あの時、喉を潤す事を諦め、生きる気持ちが薄れていたら、銀子はゴンドラに乗り、あの世へ旅立っていたのだろうか……。


私は思う……。


人がこの世に誕生した意味を……。


人々がもっと自分が誕生した意味を考えれば、生きる物全てに優しく出来、そして命を大切にするのでは無いのか……。


辛く悲しい事も、楽しい事も全て自分が生きる為に、意味のある事なのだと自分が理解した時、本当の幸福が訪れる筈だと私は思う。


和也の母が、彰との執着を絶ち、明日に向かって生きていれば病に侵され、自ら命を絶つ事も無かった筈なのだ。


たった一つの、神に与えられた大切な命を、死に神が訪れるその日まで、勇気を持って生きていきたい……。


私はそう思っていた……。

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