表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心と絆本舗  作者: ゲーカー
PR
7/8

第七章

第七章 悩める犬


午前中に事務所を出て、タマを除いた(ペットが犬のため留守番)俺達一行は依頼者の自宅に向けて車を走らせていた。三十分ほど走ると、城壁のように高い壁がさっきから続いている事に気付いた。

「なぁ、この壁は何の壁なんだろ。こんな住宅街に城跡でもあるのか?」

「何言ってんのよ。この壁は依頼者の自宅の壁よ」

地図を折りたたみながら、ネコはそう言った。

その城壁のような壁が終わりを告げた時に、バカでかい門が視界に飛び込んできた。

どれ位でかいかと言うと、『バカでかい』と言う表現を使う位、と言う事だ。壁自体は門から先、まだ百メートル以上続いていて、端はかすんで良く見えない。

良く見ると、壁には等間隔で防犯カメラが設置してあり、門の周りに至っては、『死角なし』と容易に判断出来る数。

それを見た俺は、急速に不安が広がる。そんな俺とは対照的に、ネコとクロは目を輝かせている。通行の邪魔にならないように道端に寄せて、俺達は車を降りた。

ネコに目配せされた俺は、これまた馬鹿でかいチャイムを震える指先で押す。

数秒後、スピーカーから聞こえてきたのは、押し殺したような低い声。

「……はい、どちらさんで」

「あ、あ、あの、心と絆本舗の者ですが……」

「心と絆本舗? なんだそりゃ、で何の用なんだ。勧誘かなんかなら、来る家間違ってるんじゃねえか?」

来訪者に対して、この口調は普通ではない。おっしゃる通り、来る家を間違えたと認めるのが正解であり、正論である。

俺の予想が正しければ。いや、仮に予想が間違っていたとしてもだ。このまま謝って帰

ろう、そうしよう。

だって、命は一つしかないのだから。

「ちょっと、どいて! すいません、奥様に依頼されて伺ったのですが」

俺の消極的な態度とは対照的に、積極的なネコは毅然とした口調でそう言った。

「依頼されただと、てめぇ出まかせぬかしやがったらただじゃ済まされ……あ、あねさん。なんたら本舗って奴等が……す、すいやせん! あねさんが、お呼びになっていらしたんですか! ゴホン……これは大変御無礼を申し上げました。直ぐに門をお開け致します」

急に口調が変わり、大きな門が静かに開いた。玄関まで続く道はまるで一般道のように広く長い。

『あねさん』と言う発言に、俺の予想は確信に変わっていたのだが、ネコに袖を引っ張られ渋々後をついて歩いた。

 玄関のドアが近づいてくると、その扉の前にはいつの間にか、サングラスをかけた黒スーツの男が立っていた。その身長はゆうに二メーターを超えているだろう。

「先程は大変失礼致しました。奥のお部屋で、奥様がお待ちになっておられますので」

『あねさん』が『奥様』に変わり、サングラスは俺達を案内し始める。

何処まで続いているのか分からないほどの、赤い絨毯が敷き詰められている長い廊下を、二人と一匹はサングラスの後に続いて歩く。しばらくすると、大きな両開き扉の前でサングラスは立ち止まり、「お連れ致しました」と言った。

「お通しして頂戴」

 部屋の中から聞こえてきたその声に、サングラスは深々と頭を下げて扉を開く。

その大きな扉はゆっくりと開き、少しずつ室内の情景が目に入ってきた。部屋の広さは二五メートルプールほどあり、天井から吊るされたシャンデリアは見た事もないほど大きく煌びやかで、床には深紅のフカフカの絨毯が敷き詰められている。

部屋の中央には、ゆうに十人は座れるほどのソファーが置いてあり、その前には何インチなのか想像出来ない程の薄型テレビが置かれている。

周りに置いてある家具はどれもピカピカで、高級家具の展示場みたいだ。依頼者であろうその女性は、膝の上でチワワを抱き優雅に一人掛けのソファーに腰掛けていた。

「どうぞ、こちらにお座りになって」

俺だけが緊張した面持ちで、女性の正面のソファーに座った。ネコは特に緊張している様子もなく、クロに至っては既に自分の活躍を想像しているのか目を輝かせている。

「さっきは、ごめんなさいね。家の若いのが粗相をしてしまって」

そう言って、膝の上に乗せているチワワを撫でている。何処となくだが、野村監督の奥さんに似ていた。

「それでは早速、簡単なカルテを作成いたしますので、質問にお答え願えますか?」

ネコは、速やかに用紙を取り出し質問を始めた。

どうやら、チワワの小太郎は生後四年目の成犬で、子供を授かる事が出来なかった飼い主の大いなる愛情を貰い、更にはこの屋敷での権力までも貰っているようで、誰も小太郎に逆らえないらしい。

そんな小太郎は近頃食欲がなく、夜中になると窓辺で佇み悲しい表情を浮かべ遠吠えしているとの事だった。

当然過保護の飼い主は色々な病院に連れて行ったのだが、原因は分からず困り果てていた。何かヒントはない物かと色々なウェブサイトを閲覧していた時に、心と絆本舗のホームページを見つけ依頼したとの事だ。

「では先生、こちらがカルテになっております。ご覧下さい」

いつもよりも、重々しい口調だ。どうやらネコは、問題解決によって得られる成功報酬が、かなりの金額になるであろう事を見越して、慎重かつ丁寧に行っているようだ。

まぁ、依頼者がその筋の方だったとしても、俺達の仕事には関係ないと言えば関係ない訳だし。なにより、ペットは犬である。クロは、馬でさえ解決出来たのだ。

そんなに不安になる必要もないか。

「なるほど。それでは、少し質問をさせて頂きます。まず小太郎君の生活パターンを聞かせて下さい」

「小太郎ちゃんは、毎朝六時にわたくしと一緒に起床しますの。そして、近所の公園を一時間ほど散歩して、それから一緒に朝食ですわ。わたくしは、何処に行くにも小太郎ちゃんを連れて行きますから、その日によって行き先は違います。夕刻には自宅に戻り、公園に一時間ほど散歩に出かけますのよ。そして、夕食を一緒に頂きますの。就寝は二一時頃かしら。わたくし達はいつも一緒なのよねぇ、小太郎ちゃん!」

そう言って、小太郎の頭を何度も撫でた。小太郎はずっと目を閉じたままだ。

原因って、ストレスじゃないのかな……もしも俺が小太郎なら、高確率で発狂する。

が、当然そんな事言えるはずがない訳で。

すぐにでも、クロに頼んで悩みを聞いてもらい、とっとと退散したいところだけど、ネコの視線はそれを許してはくれないみたいだし。

仕方ない、もう少し何か聞くか。

「そうですか、特に変わった出来事はない訳ですね。ところで、御主人はいつも何時頃お戻りになられるのですか?」

「主人は何かと忙しいようですから、たまにしか戻りませんわ。でも、わたくしには小太郎ちゃんがいるから全然寂しくありませんの。ねぇ、小太郎ちゃん!」

「ちなみに、御主人はどういったお仕事をされているのですか?」

ウゲッ。やばい、流れでいらぬ事を聞いてしまった……。

その瞬間、依頼者の金縁眼鏡が怪しく光ったような光らなかったような。

「そうですねぇ、色んな事を手広くやっていますわ。でも、新しい法律が出来て昔みたいには稼げないみたいですけど」

そ、それは暴力団対策法の事ですか? 

これ以上の質問は自分の首を絞める事になりかねん。いや、現実的に首を絞められる可能性だって秘めている。

さっきのサングラスは、何かあった時の為にドアの向こうで待機しているはず。

知らぬが仏……早めに切り上げた方が良さそうだ。

「分かりました。それではクロ君、小太郎君と話して見てくれるかい?」

「待ってました! 初めまして、僕の名前はクロです。どうやら、飼い主さんは小太郎君に元気がない事を凄く心配しているみたいだよ。もし良かったら、力になれるかもしれないから、その理由を教えてくれないかな」

クロも失敗は許されないと、いつにも増して明るく丁寧だ。

すると、今まで閉じていた目を、ゆっくりと開けた小太郎は、いきなり牙を剥いてクロに凄んだ。俺には『ヒャンヒャン』と鳴き声にしか聞こえないが、小太郎はクロに向かって何事かを言っていると思われる。

すると、クロが急に背筋を伸ばした。

「こ、これは、大変失礼しました。あなたが、あの有名な核弾頭の小太郎さんでしたか! そのお名前は何度も耳にしておりました。数々の武勇伝をお持ちのようで、こうしてお目に掛かれてクロは幸せで御座います」

そう言うと、クロは深々と頭を下げた。

核弾頭の小太郎? 小太郎って、そんなに有名なのか?

まぁ、犬社会の事は良く知らないけど、話に聞くところによると体格よりも気性が重要らしいからな。

どう見ても、可愛らしいチワワにしか見えないけど、実際は恐ろしく凶暴で凶悪なチワワなのかも知れないし。

ペットは飼い主に似ると言うから、可能性は十分だろう。

クロが低姿勢で話してから、小太郎も落ち着いて話し出したようだ。

「なるほど、そうでしたか。分かりました。非力ながらこのクロが小太郎さんのお役に立てるように頑張ってみます!」

そう言って、話し終えたクロは俺の袖を引っ張り、部屋の外に連れ出した。

「どうしたんだ、クロ?」

「あいつ、自分を完全に勘違いしているよ。どうやら、この家で誰に叱られる事もなく育って、みんなが言う事を聞くものだから、自分は強くて偉いのだ、と思い込んでるよ」

「じゃあ、さっきのは演技か?」

「当たり前だろ、なにが核弾頭の小太郎だよ。角砂糖の小太郎なら納得するけどさ。そんな名前、聞いた事もないよ。まぁ、それは良いとして、理由がわかったよ。散歩に行った時に、すれ違う女の子がいるんだって。彼が言うには、その子は自分に惚れているって言ってるけど、実際はどうだか分からないね。で、彼もその子が好きみたいで行動を起こしたいけど、飼い主さんがそれを知ると、お金を積むか脅すかして勝手にくっつけられるから、それでは男がすたるんだってさ」

「やるなぁクロ、またお手柄だよ!」

「そうかい! お手柄かい!」

クロは、ぶんぶん尻尾を振って喜んでいる。

この内容なら、今回はネコに頼らず自分で解決出来そうだ、そう思いながらクロと部屋に戻り口を開く。

「奥様、問題は解決しました。どうやら、小太郎君は散歩に出かけた時にすれ違う女の子に恋をしているようです。しかし、奥様にそれをうまく伝える事が出来ずに悩んでいたみたいですね」

「まぁ、そうだったの小太郎ちゃん!」

奥様は満面の笑みを浮かべ、小太郎に視線を移しそう言った。理解出来ているのかは分からないが、小太郎は小さな尻尾を振って『ワン』と鳴いた。

ここからが重要だ。小太郎の意思を通してあげない事には、この依頼は解決しない。

「では、その子と出合った時に、飼い主さんにお話しをして、小太郎ちゃんと結婚させれば良い訳ね! ま、話しても理解を示して下さらなければ、違う方法を取れば良いわ」

奥様は口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる。

その思考が、およそ一般的ではない事は容易に想像できる。

そんな微笑みだ。

「……いえ、奥様。小太郎君は奥様に大変恩義を感じており、今回は自分の力で恋を成就させたいと望んでおられます」

「まぁ、小太郎ちゃん! あなたもいつの間にか大人の男になったのね。分かったわ、わたくしは手を貸しませんから、頑張ってみなさい」

奥様が小太郎にそう言うと、『ワンワン』と二度鳴いた。

ふぅ、納得してくれたみたいだな。後は、散歩してくれる業者にでも頼んでもらって、小太郎が告白すれば解決だ。

その結果までは、依頼の内には含まれていないからな。

「じゃあ、あなた方が小太郎ちゃんの散歩に同行願えるのかしら?」

俺が口を開きかけた瞬間、隣に座っているネコがテーブルに両手をつき、体を前に乗り出した。

「はい! それはもちろん、最後まで責任を持ってお供させて頂きます。ただ、別料金になってしまいますが、それは御了承願えますか?」

おいおい、なに言ってるんだよ、ネコ!

もしも、小太郎がフラれて弱りでもしたら、俺達のせいにされるかも知れないんだぞ! そうなったら……どうなるか想像するのも恐ろしいわ!

「ええ、それは全然構いませんわよ。解決して下さるのならお金に糸目はつけません、と申し上げましたでしょ。ただし、万が一でも小太郎ちゃんに何かがあった時は、それなりの覚悟はしておいて下さいね」

ほら、こうなるだろ。ネコの頭脳ならばこの展開は読めるはずなのに……これが、お金に目が眩む、って現象か?

俺は、その状態から断る勇気を出せずに、明日から夕方の散歩を代行する約束をして屋敷を後にした。


俺は、帰りの車内でネコに不満をぶつけた。いや、ぶつけずにはいられなかった。

だって、なくした命はお金で買い戻す事が出来ないのだから。

「どうすんだよ、もしも小太郎がフラれて落ち込んで弱ったりでもしたら。エライ事になるかも知れないんだぞ! 俺は、業者にでも頼んで散歩に連れて行かせるように言うつもりだったのに」

「うるさいわね、だってその子は小太郎の事好きなんでしょ! だったら、大丈夫じゃない。二匹がうまくいったら、飼い主さん同士で話し合ってもらえば良いわけだし。うまくいかなかったとしても、それは私達には関係ないじゃない!」

「それは、そうだけどさ……」

 ネコの言い分は正しいと言えば正しい。

 しかし、正しい言い分が通用する相手ならばの話だ。

「もう後には引けないんだから、ぐだぐだ言わないの! ねぇ、クロちゃん」

そう言ってクロの頭を撫でた。何も分かちゃいないクロは、尻尾をブンブン振って自分の活躍に上機嫌だ。

まぁ、こうなってしまえば、結果は神の味噌汁(神のみぞ知る)だ。

事務所に戻ると、棚の上で丸くなっていたタマが顔だけ向けて、「おかえり」と言った。

クロは自分の活躍をしきりにタマに話しているが、タマは目を細め無表情。

ネコはパソコンに向かい、ホームページの更新をしている。俺は椅子に座り、窓から見える青空を眺めながら、明日から始まる小太郎の恋物語が上手くいく事を心から願った。

心の奥の奥の、そのまた奥の最深部から。

その日は依頼の電話も入らず、決めてある営業終了時刻に自宅に戻り、クロとタマに晩御飯をあげて、俺は両親と食卓についた。

「達也、仕事の方は上手い事行っているのか?」

父さんが、コロッケをほおばりながらそう言った。

「ちょっと、あなた! 御飯を口に入れたまま喋らないでよ。お行儀が悪い。どうなの、達也。そんなに簡単に依頼なんかこないでしょ? 早めに諦めて、お父さんの会社にもどったら? ネコちゃんの将来の為にも、その方が良いのじゃないかしら」

「なに言ってるんだよ。仕事始めてから、毎日のように依頼が来てるよ。明日も予定入っているし、かなり順調だよ!」

そう言いながらも、母さんが言った「ネコの将来の為」と言う言葉が心に引っかかっていた。ネコは俺とは違って何だって出来る。 

法学部にいる訳だし、その気になれば弁護士にもなれるし、そうでなくても才色兼備のあいつなら(性格は面接時に隠せば分からないから)どんな有名企業にだって入れるだろう。

でも、今の俺はネコがいないと何も出来ないのだ。

そんな事言ったら、とてつもなく甲斐性のない男の台詞に聞こえるが、現にそうなのだ。出来るだけ早く、全て自分で出来る様にならなくてはいけない。

実際、来月にはネコの夏休みが終わり、あいつ抜きで依頼をこなさなければいけない日が多くなるのだ。

そんな事を思いながら食事を終えた俺は、シャワーを浴びて部屋に戻り、布団の中で色々な事を考えながら眠りについた。


次の日も、いつもと同じ様に午前中にチラシを配り事務所に戻った。いつにも増して今日は蒸し暑く、エアコンのない事務所は完全にサウナ状態だ。

一応、扇風機は一台あるのだが、室温が高ければ何の意味も持たない事は周知の事実。

タマは、寝ている場所が体温で暖かくなる度に場所を移動している。さすがのクロもダウン気味。

ネコは、右手に持ったうちわで顔を扇ぎながら、言った。

「今回の依頼が上手く行ったら、それなりの代金貰えそうだしさ、そしたらエアコン買いましょうか? そうしないと、手伝ってくれているクロちゃんとタマに申し訳ないわ」

「そうだね。これだけ暑いと仕事の前にバテちゃうしね。あ、そうだ、俺にホームページの更新のやり方教えてくれよ」

「なに、どうしたの? 暑さで頭やられちゃったとか?」

「何でもネコに頼りきりじゃあ、申し訳ないしさ。ネコがいなくても自分で出来る様にならないといけないかなって思って」

「そっか、その年になってやっと向上心が芽生えたんだ。手遅れになる前で良かったわ。いいよ、教えてあげるから私の横に椅子持って来て」

どうも、しゃくに触る言い方に聞こえるのだが、屈託のない笑顔で手招きしている姿を見る限り、悪意を持って言っているようには思えないので、『こいつは、元々こう言う奴なのだ』と自分に言い聞かせ、ネコの隣に椅子を持って行き腰掛ける。

意識して、あえて少し離して座ったのだが、それでもネコとの距離はかなり近い。

「じゃ、始めるわよ。まずは、ホームページの更新の仕方なんだけど……あんた、それじゃあ姿勢きついでしょ?」

そう言うと、ネコは俺を立たせて椅子をぴったりとくっつけた。

 ここで躊躇したら、意識しているのがバレバレだから、すっと俺は座ったものの、完全に恋人同士の距離に、俺の鼓動は早くなる。

どうやら、ネコはこの距離に何も感じていないようで、テキパキと説明を行っている。

 なんの果物なのかは分からないけれど、甘くて爽やかで、ほのかに刺激的で、なんとも形容しがたいが、紛れもなく良い香が鼻腔を刺激する。

 ここで、その刺激に感激している事を察知されると、恐ろしい攻撃を受ける事は間違いないので、表情には一切出さない。

俺に指導する為に、真剣な顔でパソコンの画面に目を向けているネコの横顔が視界の隅に映っている。

その姿は凛として美しい。

が、当然その思いを表情に出す事はない。

「……あんたさ、香水付けてるから良い匂いがしてるのも分かるし、私の横顔に見惚れてしまうのも理解出来るけど、ちゃんと話し聞いてるの? それとも、私に近づきたくてそう言った訳?」

 ウゲッ! こいつエスパーか?

 完全に図星なのだが、しらばっくれる、俺。

「は? 何言ってんだよ。お前の髪に虫が付いてるから、それを言おうかどうか考えてたんだよ!」

当然、虫なんか付いてはいません。

仮に虫が付いているとするのならば、犬山達也と言う悪い虫でしょうか、とかなんとか思いながらしらばっくれる、俺。

「え、え、虫が付いてるの! い、いやあぁあぁあぁぁぁ――――――!」

ネコは、俺の苦し紛れの嘘を信じたようで、何度も頭を振ったかと思うと、いきなり俺に抱き付いた。

その想定外の出来ごとに、俺は驚きそのまま固まってしまった。

これか……ギャップでキュンとくるって奴は。

今まで聞いた事もない、消え入るような可憐な声。

「……まだ付いてる? ねぇ、付いてるなら取って……お願い」

「いや、もう付いてないよ。どっかに飛んでったみたいだ」

なんだか、小さな虫に怯えて抱きついてきたネコが、とても可愛らしく愛おしく思えて、その肩に手を添えようとした瞬間。

いきなり突き飛ばされた。

椅子ごと吹っ飛んだ俺は、床にしこたまお尻をぶつける。

その痛みよりも、その行動に驚く、俺。

「いつまでくっついてんのよ、いやらしい!」

そう言うと、顔を真っ赤にしたネコは、トイレに駆け込んで行った。

「いてて……なんで俺が突き飛ばされるんだよ。あ、これが自業自得って奴か?」

しばらくして、トイレから帰って来たネコは、一言も口を聞いてくれなかった。

当然ながら講義は幕を閉じる。と言うか、幕さえ開いてはいないのだった。

そんな俺を、クロとタマは呆れ顔で眺めていた。


約束した時刻に奥様のお宅に行き、リードを付けられた小太郎を預かった。

「じゃあ、小太郎ちゃんを宜しくお願いしますね。小太郎ちゃん、頑張ってねぇ」

と、優しい笑みを浮かべた奥様に散歩コースの地図を貰い、俺とネコはクロと小太郎を連れて告白散歩に出発。

ほんのつい先ほどまで、シカトを決め込まれていたネコの機嫌が戻ったのは良かったが、俺は歩くたびにお尻が痛む。

嘘をついた俺が悪いとはいえ、抱きついてきたのはネコである。そう思うと、お互い様のように思えてきて、お尻の痛みが怒りに変わる。

が、しかしだ。

それを口に出すと、ブチ切れられるのは目に見えているので、口には出さない。

が、ムカつく事に変わりはないので、思考を切り替える為にも、

「クロ、小太郎にいつもどの辺りでその子と会うのか聞いてくれるか?」と、聞く。

「小太郎さん、いつもどの辺りでその子とお会いになられるんですか?」

昨日と同じく敬語だ。その問い掛けに小太郎が答えている、と思う。

「殆どが、公園の中だって。飼い主とボール遊びをしている事が多いらしいね。彼女が一心不乱にボールを追い駆ける姿は、まるで天使の様に可愛いんだってさ」

クロは小太郎に見えない様に舌を出した。俺は、それを横にいるネコに伝える。

「天使みたいに見えるのなら同じ小型犬かしら?」 

「クロ、彼女の犬種を小太郎に聞いてみてくれよ」

その言葉に頷き、クロは小太郎に聞いている。その答えを耳にしたであろうクロが、驚いた表情を浮かべ、小太郎に怒られているように見えた。

「……たっちゃん、彼女はセントバーナードだって。僕が驚いたから、恋に体格なんか関係ないだろって怒られたよ」

「ネコ、彼女はセントバーナードだって。恋に体格差は関係ないってさ」

「はぁ? セントバーナードって、救助犬の? フランダースの? その彼女が小太郎を好きなの?」

ネコは天を仰いだ。俺も同じ気持ちだ。告白の結果は見えているような気がしてならない。願わくば、その彼女が小太郎に対して酷い断り文句を言わないように祈るだけだな。

しばらく歩くと、広い公園が見えてきた。小太郎の指示に従い中央にあるベンチに腰を降ろす。どうやらその天使は、いつもこの辺りで飼い主とボール遊びをするらしい。

小太郎はきょろきょろしながら彼女が来るのを待っている。しかし一向に、体格の良い天使は現れない。

そのまま二時間ほど待って見たが、彼女は現れないし日も落ちてきたので、今日は諦めて帰る事にした。奥様に今日の内容を伝え、明日も同じ時間に伺う事を約束して、車に乗り込み屋敷を後にした。

「でもさぁ、チワワとセントバーナードの恋って成立するの? ちょっと、無理があるんじゃない? ま、小太郎には悪いけど、フラれてすっきりするかも知れないし、取り敢えずさっさと告白してもらって、この依頼を終わらせましょ」

「そうだな」

 ルームミラーに写るクロも、頷いている。

まぁ、その体格の良い天使ちゃんとも、明日明後日には会えるだろ。


その思いとは裏腹に、次の日も、その次の日も小太郎を連れて告白散歩に行くのだが、目的の彼女は現れなかった。

その翌日、約束の時間に屋敷を訪ねると、

「もしかしたら、お引越しか何かでこちらにいらっしゃらないのかしら?」と奥様。

「そうかも知れませんね。でしたら、これ以上散歩を続けても意味がありませんし、小太郎君には諦めてもらって、今回の依頼は終了と致しましょうか?」と内心微笑む、俺。

 まさに、これが最良の解決ではないですか?

 はい、そうです。最高に最良で至高の結果です!

 とかなんとか、心の中で囁いていると。

「それでいいの? 小太郎ちゃん」と、奥様。

すると小太郎は、その内容を理解したのかどうか分からないが、奥様の膝上から降りて窓際まで歩いて行き、悲しい声で遠吠えをし始めた。

嫌な予感がした。いや、直感と言い換えた方が良いかも知れない。

しかし、その行動の直後に依頼者に頼まれた、『小太郎の気持ちを聞いてくれ』と言う頼みを断る事は出来ない。

不本意ながらも、クロにそれを頼んだ。

「小太郎さん、何処に引っ越したのか分からない訳ですから、残念ですが今回は諦めるしかありませんね」

いいぞ、クロ! その誘導的なトーク、お前は賢い!

小太郎が何事かを告げると、クロがうな垂れた。

項垂れたまま戻ってきたクロに、聞きたくはないのだが、聞かない訳にはいかないので、その内容を聞いてみる。

「絶対に諦められないってさ。彼女は何処かで、俺が迎えに来てくれる事を願っているはずだから、お前達の力で彼女を探し出してくれって。報酬はババァに言えばいくらでも出すから頼んだぞ、だって……」

はい、ビンゴ。

そのまま伝えれば、間違いなく依頼される。それを断るほどの勇気は持ち合わせてはいない。しかし、探すと言っても俺達は探偵じゃないし、仮に見つかったとしてもその恋の行方は見えている、と思う。

その結果次第では、俺達が被害を受ける可能性は否定できない。心は痛むが、ここは嘘をついて乗り切るしかないでしょ。まぁ、嘘も方便って言うしね。

そう思い、口を開こうとした瞬間。

「そうだわ、一つ言い忘れていた事がありましたわ。わたくし、非常に異常に尋常じゃなく、嘘に敏感ですの。だから、初日に小太郎ちゃんの気持ちを教えてくれた時も、嘘じゃないと感じたから依頼したのよ」

「………………」

「で、小太郎ちゃんは何て言っているのかしら?」

流石に、多くの修羅場を潜り抜けて来た方の奥様(多分だが)だ。俺の雰囲気で察したのだろうか。

そう言われても、嘘をつける勇気があるのならば、政治家か詐欺師にでもなっている。

結果、正直に小太郎の思いを告げる、一般的な庶民である、俺。

「流石は小太郎ちゃんね。男はそうでないといけないわ。困難な事があっても、途中で諦めたり投げ出したりするのは男じゃないわ。貴方もそう思うわよね?」

それは、俺に対する言葉のようにも聞こえるし、断れないように仕向けられた内容だと思えて仕方がない。

奥様は、笑顔を浮かべてはいるものの、その迫力と言うかオーラは、一般的な主婦のそれとは明らかに違う。

逃げられない、そう心の中で呟いた時。

今の今まで、一言も喋らなかったネコが口を開いた。

「奥様、その犬を探すのには、かなりの日数と時間がかかると思いますし、その依頼をお受けすると、他の依頼を受けられなくなってしまいます。他のお客様に御迷惑がかかります。ですから……」

こいつ……この状況で断ろうとしている。この発言は、有名な歴史上の人物の発言に勝るとも劣らない、と俺だけは思える。

俺には応援する事しかできないが、頑張れネコ! 

そんな勇敢なネコが話し終える前に、奥様はゆっくりと、だけど重い口調で話し出した。

「えぇ、それは重々承知しておりますわよ。この依頼を受けて頂けるのであれば、必要経費は全てこちらが持ちます。それとは別に一日の報酬として十万お出しするわ。これでどうかしら、杉浦さん?」

「お受け致します」

もしも、ストップウォッチで計っていたならば、その表示は一秒を切っていたはずだ。俺とクロは口を半開きにして、そう答えたネコから視線を逸らせずにいた。

「それは良かったわ。では、今後とも宜しくお願いしますね」

 奥様とネコは固い握手を交わしていた。そこには、まるで親子の絆でもあるかのように。


帰り道の車内。

「一瞬でも、おまえを凄いと思った自分が情けないよ。金に目が眩みやがって」

「あんたは、ほんっとに先が読めないわね。いい? あんたの両親が私達を認める物は何なのかを考えて見なさいよ。あんたバカだから、答えは私が言ってあげるわよ、売上しかないでしょうが。どうせあんたの事だから、両親から私の将来の事を考えたら、早く辞めたほうが良いとか言われてさ、それもそうだ、とか思うでしょ? バカだから。売上さえ上げれば何も言われないのよ! いくらバカでも言ってる意味は分かるでしょ!」

ネコさん、もしかしてなんらかの衛星を使って、自宅内部の映像をキャッチしているのですか?

しかし、バカバカバカバカ言いやがって、的を得ているだけに何も言い返せないのが、さらに頭にくる。

こうなったら、もうどうにでもなれだ!

「はい、はい、やりますよ。やればいいんでしょ!」

「じゃあ、さっそく明日から捜索開始よ。そんなに心配しなくても、クロちゃんとタマにも手伝ってもらえば直ぐに見つかるわよ」

ネコは、どこからその自信がくるのか分からないが、自信満々の表情でそう言った。

俺は、その自信が揺らぐほどの大きな地震でもくれば捜索打ち切りになるのに、とか思いながら、フロントガラスから見える夜空を眺めていた。


次の日、出社時刻に事務所に行くと既にネコは準備を終えていた。

指揮官であるネコの指令。

その一 タマには、単独で動いてもらい近所の猫達に聞き込みをする。

その二 ネコは女の子だし警戒されにくいので、近所の家庭を訪問して聞き込みをする。

その三 俺とクロは、公園に散歩に来る飼い主や犬達に聞き込みをする。

と言う物だった。

車を走らせて、公園に着いたのは午前十時。付近の駐車場に車を停めて、それぞれが聞き込みを開始した。

俺とクロは公園に入ったのだが、この時間はあまり人がいないみたいだ。暫くベンチに座って待っていると、クロと同じラブラドールを連れた二十台半ばらしき女性が現れた。

深くキャップを被っていて、はっきりとは表情が見えないが、色白で顔は小さいし鼻筋もすっと通っている。唇は薄いピンク色で小さくまとまり可愛らしい。

これは間違いなく美人だ。

じっと彼女を見つめている俺に、クロが言った。

「たっちゃん、目的が違うのじゃないかい?」

クロは何でもお見通しだ。クロはすっと、彼女の犬に近寄って行った。彼女は突然の来訪者であるクロを優しい笑顔で迎えている。

まるで、いつの間にかリードが外れてしまったかを装い、

「あ! こら、駄目じゃないか、クロ。彼女達に迷惑だろ!」と、声をかけ近付く。

「クロちゃんって言うんですか? 同じラブラドールですね。賢そうな顔してるわ」

そう言った彼女はキャップを取って、改めて挨拶をしてくれた。

ストライ――ク!

「あ、おはよう御座います。お姉さんの犬はなんて名前なんですか?」

「ドイルって言うの。コナン・ドイルの小説が好きだから、この名前にしたの」

「ドイルか、かっこいいですね。俺なんか、色が黒いからクロにしたって言う、おバカ命名ですからクロに申し訳ないですよ」

なんて素敵な状況なんだ。やっぱり持つべき物はペットだな。

もしかして、こういう出会いを運命と言うのじゃないか?

「学生さんかな? 今日は学校お休みなの? それともサボり?」

彼女はそう言って、少し意地悪そうな笑顔を浮かべた。

か、かわいい。ネコとはまた違うかわいさだ。

初めて付き合うのは年上が良いって言うしな。取り敢えず連絡先を聞いて、まずはメールから初めて仲良くなって、時間が合えばここにクロを連れて来て一緒に散歩出来るし。

「まぁ、そんなところです。はい。お姉さんはお仕事お休みですか?」

「うん。私は薬剤師をしているの。室内にいる仕事だから、休みの日にはこうやって、ドイルと散歩に出掛けるのよ」

そう言うと彼女は、綺麗な指先でドイルの頭を優しく撫でた。

薬剤師か。あの長めの白衣に身を包んでいるんだな。似合うだろうなぁ、白衣を来た彼女がその綺麗な指先で薬剤を選び、薬袋に詰め込み手渡す時に笑顔でこう言うんだ。

「お大事に」

いやぁ、その薬局に行きたい!

「たっちゃん、そろそろ本題に入りなよ」

気が付くと、聞き込みを終えたクロが目の前に立ち、呆れた表情で俺を見つめていた。すっかり忘れてた……。

「あ、あの、この辺りでメスのセントバーナードを見かけた事ありませんか?」

「セントバーナード? うーん、私は週に一度位しか、ここに来ないからなぁ。ちょっと、見た事ないわね。その子が、いなくなっちゃったの?」

「あ、はい。知り合いの犬なんですけど、脱走したみたいで」

「そうなんだ。でも、わかりやすい犬種だし、すぐに見付かるわよ。飼い主さんも心配しているでしょうし、早く見付かるといいわね。私も注意して見ておくわ。あ、主人もきたみたい、それじゃまた」

彼女はそう言うと、少し離れた所からこちらに向かって歩いて来る人影に声を掛け、ドイルと一緒に駆けて行った。

そんな俺を、笑いながら見上げていたクロが、

「どうやら、ドイルは彼女を見掛けた事はあるけど、何処に住んでいるかは知らないみたいだ。飼い主さんはどうだったんだい?」

と言ったので、俺はただ無言で首を横に振った。

それから、昼過ぎまで何人と何匹かに聞き込みをしたが、見掛けた事はあるが何処の犬かは知らないと、口を揃えたように言うだけだった。

一四時には一旦合流する事になっていたので、俺とクロは合流場所であるペット同伴可能のカフェに向かった。

カフェの扉を開けると、既にネコはテーブルについていて、タマはその膝の上に座っている。俺とクロは、そのテーブルに近付いて声をかけた。

「どうだった?」

「何人かの奥さんは、見かけた事はあるみたいだけど、何処の犬なのかは知らないみたいね」

「あっしの方も、メスのセントバーナードは見かけた事はあるけど、それがどこの家の犬なのかは知らねぇってさ」

その時、後ろから猫の鳴き声が聞こえてきた。気になり振り向くと、少し離れた席で、飼い主と御飯を食べていた三毛猫がこっちを見ている。

どうやら、その視線はタマに向けられているようで、ほんの今まで眠たそうにあくびをしていたのに、急に真顔になり、「ちょいといってくる」と言い残し三毛猫の元へ。

しばらくして戻って来たタマは、軽やかに空き椅子に飛び乗りニヤリとして言った。

「この情報は、マタタビ一袋に匹敵するぜ!」

「で、何を聞いてきたんだ、タマ!」

 と、はやる気持ちを抑えきれずに聞いたのだが、当然小声で言っている。

 猫にそんな事言ってたら、痛い人だと思われるのは確実だ。

「二週間位前の話しみてぇなんだけど、ミケさんが隣町に用事があって出掛けた時に、駅前のペットショップを通りかかったら、停まっていた車からバカでけぇ犬が出て来て、しこたま吠えられたみてぇなんだ。考えて見たら、そこの公園で何度も吠えられてて、いつか仕返しするつもりでいた奴だったらしい。ムカついたミケさんは、そいつの顔を思い切り引っかいてやったらしいぜ。で、そいつが探してるセントバーナードじゃねぇかって話しだ」

タマは話し終えると、三毛猫に向かってお辞儀の姿勢で、「助かりやした」と鳴いた。

「タマ、なんて言ってるの?」

「どうやら向こうの三毛猫が、隣町の駅前にあるペットショップで、良く公園で見かけるセントバーナードを見たらしい。それが、小太郎の好きな子かどうかはまだ分からないけど、その可能性はかなり高いね。あと、この話はマタタビ一袋に匹敵するだろってさ」

「マジで! タマに、帰ったらマタタビ好きなだけあげるって言って!」

ネコは、貴重な情報を入手出来た事に大喜びで、タマを抱き抱えて頬ずりをしている。

 俺達はすぐにカフェを出て、そのペットショップに向かい車を走らせると、ほんの五分ほどでその店は見えてきた。一階が駐車場で店舗は二階と三階に分けられているようだ。

「結構大きな店ね。どうやら、二階に犬猫コーナーがあるみたいね。取り敢えず、あんたと私で店に入って、店員さんに聞いてみようか?」

「そうだね、クロとタマはちょっとここで待っていてくれるか?」

返事がないので振り向くと、いつの間にか二匹共ぐっすりと眠っていた。

俺達は、エレベーターに乗り込み、二階のボタンを押す。扉が開くと、至る所から動物の鳴き声が聞こえてくる。

店内はかなり広く、動物の種類でコーナーが別けられているようだ。俺達は犬のコーナーに向かい、そこにいた店員さんに声をかけた。

「あの、すいません。ちょっとお聞きしたいんですけども、二週間ほど前なんですが、メスのセントバーナードがこちらに来ていませんか?」

「メスのセントバーナードですか? それは、どう言った内容の御質問ですか?」

どうやら質問の仕方がまずかったのか、彼女はきょとんとしている。

えっと、こう言う時はどう聞けば適切な答えが帰ってくるんだ?

「あ、あの、小太郎って言う犬がいまして、その小太郎が好きな子がその子でして、その子に告白したいと小太郎が言っていまして、それで、あの、探しているんですよ」

自分でも何言っているのか分からなくなった。隣のネコの表情は見ないでもわかる。

……またバカにされる、確定。

「すいません。この人、生まれつき会話力が乏しいもので。私の叔母が、オスのセントバーナードを飼っていまして、叔母は良く犬を連れて公園に散歩に行くんですが、そこでその犬の飼い主さんと出会いまして、何度かお見合いのお話しはしていたみたいなんですけど、ここ最近公園で見かけなくなってしまったそうなんですよ。連絡先や住所はお聞きしていなかったようで、叔母も諦めたらいいんですけど、どうもその子はかなりの血統書付の犬だったみたいで。私達が叔母に頼まれて探しているんです」

ネコがそう言うと、彼女は簡単に理解した様子で、ペットフードを配送している御家庭が多いので住所も分かるかも知れませんし店長に聞いてみます、と言って店の奥に入って行った。

なるほど、その言い方だと理解してくれるのか。

しかし、生まれつき会話力が乏しい、ってなんなんだよ。生まれた時は、誰も会話力なんてないっての。

すぐに彼女は、店の奥から顔を出し店長を連れて戻って来た。

「内容はお聞き致しました。ただ、二週間ほど前に来られたお客様でセントバーナードをお連れの方は五人ほどいらっしゃいまして、性別までは存じ上げていないもので……」

と、店長は申し訳なさそうな表情を浮かべている。

さすがに、五匹全ての住所を聞き出すのは無理がある。視界の隅に映るネコも、落胆の表情を浮かべている。

と、その時思い出した。

「あ! あの、その中に顔に引っかき傷があった犬はいませんでしたか!」

「あぁ、そう言えば一人の飼い主さんが、店の前でネコにやられたとおっしゃっておられましたね」

「それです! その子です! その方の御住所は分かりませんか?」

「確か、そのお客様はうちからドッグフードを配送致しておりますので、データがパソコンに入っていると思いますよ。しかし、無断でお教えする訳にはいきませんので、私から一度連絡を入れさせて頂いて、了承を得てからでも宜しいですか?」

「はい、それで結構です。お手数掛けますが、宜しくお願い致します」

 どうだよ、って表情を浮かべた俺は、胸を張ってネコを見る。

 しかし、その目には軽蔑の色。

「その情報もタマから聞いてたんでしょ? 最初からその事を私に話してれば、二度手間にならなかったんだけどね」

 おっしゃる通り。

しばらくすると店長が戻って来たのだが、その表情は曇っている。

「お引越しをされているのかもしれませんね。本来、お引越しをされる場合は、事前に知らせて頂く事になっているのですが……」

詳しく聞いてみると、電話は既に不通になっていたようで、ドッグフードの配送は三ヶ月単位の後払いで受けていて、既に二度配送しているので、もしも引っ越していれば料金が回収不能になってしまうとの事だった。

店長も回収出来ないと困るらしく、引っ越しているのかどうか確かめたいので、住所を教える代わりに確認してきて欲しい、と頼まれた。

それを了承し、名前と住所が書かれたメモを受け取り車を走らせた。

十分ほど走ると、閑静な住宅街が見えてきた。ネコが番地を確認して、その家の前に車を停める。

確かに表札には、『鈴木』と書いてあるし、この家で間違いないようだが、どうも人の気配が感じられない。車を降りた俺は、門に付いている呼び鈴を押してみた。

応答はない。

もう一度鳴らす。

やはり応答はない。留守なんだろうか、と思い玄関に背を向けると、一人の女性が立っていた。

「鈴木さんは、そこにはいらっしゃらないですよ」

見た感じ近所の奥さんみたいだが、その表情は暗い。俺は、訪問した理由を伝え、何処に引越しをしたのか聞いてみた。

「一週間位前からかしら、柄の悪い人達が何度も鈴木さんのお宅に来ていてね、ずっとドアを叩いているのよ。本当に留守だったのか、身を潜めていたのかは分からないけど。それから何日か同じ事が続いてて……三日前かしら、お隣から夜中に物音が聞こえたから、カーテンの隙間から覗いて見たの、そしたら……」

元お隣さんに遠慮してか、はっきりとその単語を使う事はなかったのだが、内容を聞く限りでは、夜逃げのようだ。

これは、どうしようもない。お手上げだ。

その女性にお礼を伝え、車内に戻ろうと扉を開けた。

「さっきの話し聞こえてたわ。せっかく、ここまで辿り着いたのにね。残念だけど、これ以上は探しようがないから、奥様と小太郎にこの事を知らせて諦めてもらいましょ」

ネコは残念そうにそう言った。いつの間にか目を覚ましていたクロとタマも、

「仕方がないね」と俺に言った。


報告のために屋敷に戻った俺達は、いつものサングラスに案内され、奥様と小太郎の待つ部屋に通された。いつも同様、バカでかいソファーに座り、奥様に今日一日の出来事を報告する。

「そうなの、大変だったわね。小太郎ちゃんのために、頑張ってくれて本当に感謝しますわ。小太郎ちゃんも同じ気持ちのはずよ」

そう言って、奥様が膝の上に乗せている小太郎に視線を移すと、その言葉とは裏腹に、牙を剥き怒っている。

「小太郎ちゃん、納得出来ないの?」

あぁ……また嫌な感じになってきた。

「ちょっと、小太郎ちゃんに聞いて頂けるかしら?」

「……はい。クロ君、小太郎君に聞いてみてもらえるかい?」

「……う、うん。小太郎さん、彼女は何処かに引っ越したみたいで、探そうにも何の手掛かりもないんですよ。お気持ちは察しますが、これも運命だと今回は諦められてはどうですか?」

いいぞ、クロ! お前のトークは一級品だ!

クロの発言に対して、いつにも増して怒っているように見える、小太郎。

直後、クロがうな垂れた。

「……たっちゃん、絶対に諦められないってさ。もしも、依頼を受けないのなら、窓から飛び降りるって……」

……終わった。そのシナリオは、最悪中の最悪であり、それ以上の最悪は考えられない。

しかし、奥様に嘘は通じない訳で、事実を伝えると依頼される訳で、それを断る勇気もない訳で。

いったい、どうしたら良いのですか、神様仏様イエス様?

「小太郎ちゃんは、どう言っているのかしら?」

「……はい。諦める事は出来ない、と言っています。しかし奥様、これ以上は探しようがありませんし……」

そう言いかけて、小太郎に視線を移すと、いつの間にか窓辺に佇んでいて、小さな口を使って器用に窓の鍵を外していた。

オーマイガッ!

その時、不意に奥様が立ち上がった。

「少し、席を外しますわ」

そう言って、奥様は静かに部屋の外へ出て行った。

その瞬間から、部屋の中に静寂が訪れた。

誰も喋らない。小太郎はまだ窓辺に佇んでいるし、クロもタマも目を閉じて剥製のように動かない。ネコは打開策を考えているのか、じっと一点を見つめ動かない。

どれだけの時がたったのか分からなかったが、ドアが開き奥様が優雅にソファーに腰を降ろし、人差し指を縦にして口へあて、そっと一枚のメモを差し出した。

俺とネコの視線は、自然とメモに移る。

『ええぇ―――――!』と、胸中で驚く。多分、ネコも同じだろう、そんな顔だ。

そのメモには、鈴木さんの新しい住所が書いてあった。

どう言う事だ? 俺達が今までやってきた事の意味は? 

「今回は、小太郎ちゃんの男としてのプライドを尊重してあげたいの。ですから、わたくしは一切手助けを致しませんの。引き続きあなた方に依頼致しますわ」

そう言って奥様は、俺達にウインクした。


帰り道の車内。

「奥様ってさ、結構良い人だね。本当に小太郎の事を大切に思ってるんだわ」

「そうだね、なかなかあそこまで出来ないよな」

確かにその通りだ。自分で動けば直ぐに解決する事なのに、小太郎のために俺達に大金を出してまで、小太郎のプライドを尊重してあげている。

小太郎は幸せ者だ。結果はどうであれ、小太郎には男のプライドを賭けて告白させてあげよう、そう胸に誓った。


次の日は、久しぶりに雨が降った。クロは何が嬉しいのか分からないが、飛び跳ねて喜んでいる。逆に雨が大嫌いなタマは、頑なに出勤を拒んだが、何かの時に役に立つのでマタタビ一袋で了解を得た。

鈴木さんの新しい住所は神奈川県川崎市だ。車で約一時間って所だろう。ナビには到着予定時刻十時三十分と表示されている。

「でもさぁ、正直言って小太郎のお陰でかなり助かってるわよね。だって、他の依頼全然ないんだもん。ま、この依頼に掛かりっ切りだから、チラシ配りが出来てないってのも理由の一つかもしれないけどさ、ギャラが破格だから仕方ないよね」

「そうだな、今はネコの言う通り売り上げ重視で行くしかないし仕方がないけどな」

 この依頼を終わらせれば、それなりの売り上げになるし、両親も納得せざるを得ないだろう。まだ始めて間もないのに、これだけ順調に行っているのは紛れもなくネコのお陰だし、協力してくれているクロとタマのお陰でもある。

 俺は、それに見合う仕事が出来ているのだろうか。いや、お世辞にも出来ているとは言えないだろうな。

 適当にやっているつもりはないけれど、もっと自覚を持って真剣に取り組まないといけないな、そんな事を考えながら車を走らせていた。

ふと気が付くと、ナビは目的地付近に到着した事を音声で告げていた。

近くにあったスーパーの駐車場に車を停めて、まだ雨が止んでいないので傘をさし、メモに書いてある番地を探した。

タマは、「必要な時に呼んでくれ」と言うので、窓ガラスを出入り出来る程度に隙間を開けて車に残してきた。

「これだよな? でも、室内でセントバーナード飼えるのかな?」

目の前にある建物は、木造二階建ての老朽化したアパート。室内の間取りは、二部屋あればいい方だろう。

一〇二号室とメモには書いてあるので、玄関の前まで行ってはみたが表札は掛かっていない。かすかに室内から物音が聞こえるので、どうやら誰かはいるようだ。

ネコと顔を見合わせてから、俺は玄関のチャイムを押した。さっきまで聞こえていた物音が、チャイムの音と共に聞こえなくなる。

しばらくそのままで待っていると、僅かにドアが開き隙間から消え入るような声が聞こえてきた。

外気はムッとしているのに、その声を聞くと何だか寒気がする。よほど追い詰められたのだろう。

「突然お伺いしてしまい申し訳ありません。少し前に、杉本町の公園に良く散歩にいらしてましたよね? 実は、知り合いの者が、お宅のセントバーナードをすごく気に入っておりまして、自分の犬と是非お見合いをさせたいと言っているのです。その用件で伺わせて頂きました」

「そ、そんな事よりも、どうしてここが分かったのですか!」

ほんの少しの衝撃で壊れてしまいそうな、薄いガラスのように張り詰めた声。

その問い掛けに、どうやって鈴木さんの住所を奥様が調べたのか分からなかったので、返事に困ってしまった。

「……まぁ、あなた方がこうして尋ねて来るくらいですから、簡単に分かってしまう物なのでしょうね……残念ですが花子はもう家にはおりませんので、申し訳ありませんがお引取り下さい」

そう言って、少しだけ空いていた隙間を閉じかけている。

慌てて閉じかけた扉のドアノブを持ち、ほんの僅かな隙間を確保した。

「ちょ、ちょっと、待って下さい。どちらか御親戚に預けられたのですか?」

「とにかく、家にはもうおりませんから、お引取り下さい!」

その声と同時に、ほんの僅かな隙間さえも無くなってしまった。

 閉められたドアの前で、茫然と立ち尽くしていた俺の脳裏に、一つの推測が浮かぶ。

 それは、最悪の展開であり、仕方がないとは言え飼い主として最低の行為である。

どうやらネコも同じ事を考えていたようで、不安が表情に表れている。

「ネコ、保健所に連絡してみた方が良いよな?」

「そうね、そうでない事を祈るしかないけど……」

すぐに、以前の住所を管轄している保健所に電話してみたのだが、「この一ヶ月間でセントバーナードは引き取っていない」との事。

続けて、この地域の保健所に電話をかける。

「すいません、ここ二週間で鈴木さんと言う御家庭から、セントバーナードを引き取られていませんか?」

「鈴木さん、セントバーナード、はい、はい。少し前にうちで引き取らせて頂きました」

「あ、そ、それで、花子はまだ生きていますよね!」

「本来なら、もう処分されてしまっているはずなのですが……」

「本来ならって、それはどう言う事ですか!」

「じつは、鈴木さんのお宅から車で搬送したのですが、我々の不注意で檻に入れようとした隙に外へ逃げ出してしまったのですよ。すぐに近所を探したのですが、まだ見付かっていない様ですね」

「そうですか、分かりました。すみませんが、もし見付かれば連絡を頂けないでしょうか」担当者に連絡先を伝え電話を切った。ネコが心配そうに俺を見ている。

 何処にいるのかは分からないが、これで最悪の展開だけは免れた。

ネコに会話の内容を伝えると、ほっとしたようでその場にしゃがみ込む。

「しかし、問題はこれからだよ。花子が処分されていない事は確認出来たけど、一匹の犬を探すってのは簡単ではないだろうし……さすがの奥様も、相手が犬じゃね」

「でもさ、取り敢えず報告してみたら? もしかしたらもしかするかもよ?」

俺は携帯電話を取り出し、そのもしもに賭けて、鈴木さんの家に着いてからの経緯を、出来る限り詳細に説明した。

『まぁ、そんな事になっていたの。でも、生きているのが確認出来ただけでも良かったわね。ただ、さすがにわたくしでも、犬の所在は掴めませんわ。ここからが、あなた方の腕の見せ所ね。良い報告をお待ちしているわ』

そう言って、一方的に電話は切られた。

 やはり、相手が犬では探しようがないのだろう。

俺は不安を顔に浮かべたまま、奥様との会話をネコに伝える。

「そっか……考えてみたらさ、もしも近所にいるとしたら花子は目立つし、保健所の人達が捕獲してるはずじゃない。でも捕獲されてない訳でしょ、これはちょっと厳しいんじゃない?」

確かに、ネコの言う通りだ。現実的に考えると無理なのかもしれない。

人を探すのにも一苦労するのに、その対象が犬ならば尚更だ。

ここで諦めてしまえば楽だと言う事は理解していたのだが、そうは思えなかった。

奥様や小太郎の為ではなく、自分自身のこれからの為に、やり遂げなければならない、そう思っていた。

「取り敢えずさ、ここまで辿り着いたんだし、やるだけやってみようよ。ネコ、クロ、明日からまた頑張ろう!」

 その声に、ネコもクロも力強く頷いてくれた。

気が付くと、降り続いていた雨は上がり雲の切れ間から太陽が顔を覗かせている。

俺達は車に戻り、タマに内容を説明して、この近辺の聞き込みを開始した。前回と同じように、俺とクロで近辺に住んでいる犬達の聞き込みをし、ネコはスーパーや駅前での情報収集、タマには近辺の猫達に聞き込みをしてもらう。

「クロ、まずは近所を歩いてみて、話せる距離にいる犬達がいたら聞いてみてくれよ」

「うん、わかったよ。あ、あそこの門の中にいる彼に聞いてみるよ」

クロの視線の先に、庭の中で離し飼いにされている犬がこっちを見ていた。クロと俺が門の近くまで近寄ると尻尾を振っている。友好的な犬みたいだ。

クロの問い掛けに、彼は首を傾げて何かをクロに話している。

どうやら仕草を見る限りでは、良い返事は期待できそうもない。クロから聞いた彼の返事はやはりそうだった。

しばらく近辺を歩き、決めていた集合時刻まで聞き込みを続けたのだが、何一つ情報を得られる事はなかった。

集合場所であるスーパーの駐車場に戻ると、車の屋根の上でタマが丸くなっていた。ネコはまだ戻っていないようだ。俺に気付いたタマが顔を上げて起き上がり、背伸びをして話し出した。

「なんか情報は得られたかい? あっしの方は、見掛けたって言うのは聞いたが、それ以上の情報はなかったねぇ」

「俺達は、その見掛けたって情報さえなかったよ」

俺は車の鍵をポケットから取り出し、後部座席のドアを開けた。

クロとタマが乗り込んでドアを閉め、俺も運転席に乗り込んだ。

もう、この街にはいないのかも知れないな、そう考え込んでいると、助手席のドアが開いた。

「有力な情報は得られた? あたしの方は、見掛けたって人は二人いたけど、それ以上の情報はなかったわ」

「いや、こっちも同じようなもんだ」

そう言って、一つため息をつき車を発進させた。助手席で、ネコが携帯電話を取り出し、奥様に今日の報告を入れている。

その口調や表情には、不安の色が見て窺える。

俺まで弱気になってどうすんだ。やり遂げると決めたじゃないか!

「何人かの人や猫が、花子を見掛けている訳だし、明日はもっと有力な情報が得られるよ!諦めずに頑張ろう!」

そうは言って見たものの、本当に見つける事が出来るのだろうか、と心の中は不安で一杯だった。


その不安が物の見事に的中し、次の日もその次の日も、目撃情報は得られるものの、それ以上の情報は得られない。

捜査を開始してから三日目の聞き込みを終え自宅に戻り、クロの御飯をお皿に入れていると、ポケットの中の携帯電話が鳴りだした。

急いで携帯電話を取り出し、耳にあてる。

『もしもし、犬山さんですか? この前お伺いしたセントバーナードの件で、お電話差し上げたのですが』

「はい! 花子が見付かったのですか!」

『お探しの犬かどうかの確認は取れてはいないのですが、管轄している地域で野犬の被害が相次いでいまして、住みかである日高山で野犬狩りをしていたのですが、そこで一匹のセントバーナードを見掛けたと聞いたもので』

「あ、有難う御座います! 日高山ですね、明日にでも行ってみます!」

その犬が花子かどうかは分からなくても、何の手掛かりも掴めていない状況での、この情報はありがたい。

『行かれるのは構いませんが……十分気を付けて下さい。かなりの数の野犬が生息していますので。それでは、また情報があれば御連絡致します』

改めてお礼を伝え電話を切り、思考を巡らせる。

その犬が花子である可能性が有る以上、俺達は日高山に行くしかない。

しかし、そんな野犬達の巣窟に足を運ぶのは確かに危険だ。

明日、事務所でネコに相談して、一度考えて見るべきだな。 


次の日、事務所の扉を開けると、俺の表情で感じ取ったのか、ネコは俺を見るなり口を開いた。

「もしかして、保健所から連絡があったの?」

 その問いに頷き、俺は自分の席に着くと、昨日の内容をネコに伝えた。

「日高山なら隣町だし可能性はあるわね……」

「ただ、相手が野犬だからな。クロがいても危険は伴うと思うんだ」

「じゃあさ、奥様にこの事を話せば、子分達使って花子を連れ出せるんじゃない?」

ネコが、そう言って俺に視線を送る。

ネコを危険な目に合わせる訳にはいかないし、それが一番良い方法だと思う。

しかし、出来る事なら自分達の力で解決したい。

なかなか答えが出ずに、視線を宙にさまよわせていた。

「あんたさぁ、なんか最近変わったね。始めたばかりの頃だったら、私に言われる前に奥様に電話してたんじゃない? でも今のあんたは、なんとか自分達の力で解決したい、そう思ってるんでしょ?」

ネコは椅子から立ち上がり、俺の机の前で立ち止まった。

俺は、ネコの視線を受け止め、力強く頷く。

「よし、私達で解決しよ! 出来る限り危険な事は避けてさ。それで、どうしても手詰まりしちゃったら、奥様に頼んで協力してもらおうよ」

ネコの横にクロが並んで、「やろう、たっちゃん!」と言った。

棚の上のタマも、「乗りかかった船だし仕方ねぇな」と言ってくれた。

なんだか、胸の奥から熱い物が込み上げてくるような、そんな始めて味わう感覚だった。

「よし、俺達で解決しよう! ネコの言う通り、危険な事は極力避けて行動しよう。じゃあ、今から日高山に出発だ!」

 すぐに地図を確認して、俺達は車に乗り込みナビを設定した。予定到着時刻は、十一時半と表示された。

出勤ラッシュは終わっているようで、それほど交通量は多くはない。このまま行けば、予定時刻通りに到着出来そうだ。

 一応奥様には、昨日の電話の後に連絡を入れて、その犬がもしも花子であった場合、告白の結果がどっちに転んでも、花子が望めば自宅で飼ってあげて欲しい、と頼み了承は得ている。

 何故かと言うと、飼い犬だった花子にとって、野犬として生きていくのは過酷な事だと思えたし、捕獲されれば薬殺されてしまう。

 まだ会った事もない犬ではあるのだが、小太郎が告白すれば後はどうでも良い、と思えるほど、この依頼は簡単ではなかったし、その分思い入れが大きくなっているからだ。

もう一つは、花子が人間に対して不信感を持っていた場合、小太郎に告白させる事も出来ない可能性が有る。その時は、それを伝える事で不信感を払拭出来るのではないか、とも思ったからだ。

しばらく走っていると、交通量が少なくなり、景色に田畑が多くなってきた。民家と民家の間隔も広い。ナビの到着予定時刻と現時刻の差が五分を切っていた。

「あの山みたいね」

ネコが指差した山は、一匹の犬を探し出すのはとても不可能なのではないか、と思えるほど大きく、心の中の不安を増長させた。

「まずは、この辺りの民家を訪ねて話しを聞いてみようよ。犬やネコがいればそっちからの話も聞けるしさ」

近くの公民館に車を停めて、俺達は何件かの民家を訪ね、住人とそこで飼われている犬や猫から、日高山の現状に対する情報を得る事が出来た。

この辺りは、特に野犬の被害が酷いらしく、飼育しているニワトリや豚を襲われた家や、追い払おうとして噛み付かれ怪我を負わされた人も、数人いるとの事だった。

犬や猫達は直接的な被害は受けていないが、人間に飼われている動物に対して攻撃的な姿勢でいるとの事だ。

俺達は車に戻り、この情報を元に作戦を立てることにした。

「話しを聞く限り、日高山に入って行くのはかなり危険なようね。どうする?」

「そうだね、野犬の縄張りに入って行くのは、やめた方がいいかもしれないね。でも、どうやって花子を探すかだよ。花子が山から出てくるのを待つにしても、これだけ大きな山だと、どこから出て来るか分からないからね……」

二人で考え込んでいると、後部座席のタマが大きなあくびを合図に話し出した。

「あっしに、良い案があるんですがね。クロの旦那が山に入るのは、同じ犬同士だし匂いやなんかですぐにバレちまう。しかし、あっしなら身を隠すのはお手のもんだし、仮にみつかっても、奴らも猫には関心を持たねぇはずだ。何とか、あっしが花子を探し出して、引っかくなり何なりして追い駆けさせて、この場所まで誘導するって寸法だ。どうだい?」

タマにしては珍しく、自らを危険にさらす作戦だった。

その作戦をネコに話すと、パッと表情が明るくなり、後部座席のタマをだき抱え膝に乗せ、顔が左右にブレるほど喉を撫でながら歓喜の声を上げた。

その言葉を、タマに通訳してあげると。

「マ、マタタビ一年分ですかい! こりゃあ、失敗は許されねぇな。連れて来た後は、クロの旦那の仕事だから宜しく頼むぜ!」

「まかしてくれよ! 僕が、絶対説得してみせるよ!」

クロの頭の中には、既に説得に成功して、褒め称えられている映像が浮かんでいるのか、舌を出してニヤニヤしている。

「他に良い方法は思い付かないし、タマが考えた作戦に賭けるしかないみたいだな。じゃあ、俺達はこの公民館で待ってるから頼んだぞ。でも、あまり無理はするなよ」 

そう伝えると、開いている窓からひょいと飛び出して、日高山へと向かって行った。

しばらく、取り留めのない話しをしていたが、急にネコが俺をチラ見しながら含み笑いを始めた。

「あんたさ、確か小学三年生の時に、二人で近くの川で遊んでて蜂に太股を刺されたの覚えてる?」

「は? 覚えてねぇよ。それがどうしたんだよ」

「そんときの……あんた……ククク……大騒ぎして、おしっこかけたら治るんだ、って言って、私にかけてくれって頼んだでしょ?」

「は? だから覚えてねぇって」

「クックク……で、私が嫌だって言ったら、自分でかけるって言って、いきなりズボン脱いで……失敗してズボンとパンツぐしょぐしょになって……ク、グ、ククク」

笑いを我慢しきれなくなったネコは、足をバタバタさせながら下品に大笑いした。

……思い出した。

そう言えばその時に、ネコの目の前でアレをもろに出したんだ……。

 ネコは、完全にツボに嵌まったようで、涙を流しながらヒーヒー言って笑っていて、すぐに笑いを通り超えて呼吸困難に陥り、今度は苦しんでいた。

 そのまま、死ね!

時刻を見ると、車のデジタル時計が一五時を表示していた。

タマが山へ入って行って、二時間程が経過している。花子をおびき出して来るのに何時間掛かるのか、おおよその見当も付かないので、俺達は取り合えず待つ事しか出来ない。

しばらくすると、急にクロが立ち上がり山の方を見詰め鼻を動かした。

「タマが来た!」

すぐに俺達は車から降りた。すると、山の中から犬の鳴き声が聞こえてくる。それは大型犬特有のくぐもった声。

俺とネコは顔を見合わせ、力強く頷いた。

タマは花子を探し出し、見事に作戦通りおびき出したのだ。

どんどん鳴き声が近づいてくる。山の木々の隙間から一匹のネコが飛び出し、その後ろをセントバーナードが怒声を上げながら追い駆けている。タマは必死の形相で駆け寄って来て車の中に飛び込んだ。

怒りに我を忘れた花子は、目の前に来るまで俺たちの存在に気付かなかったようだ。

直前で立ち止まり、俺達に声を荒げている。すると、スッとクロが花子の前に進んだ。

「花子さん、初めまして。僕はクロと言います。こうでもしないと、あなたと話す事が出来なかったので、手荒なまねをしてしまって本当に申し訳ない。後で、タマにも謝らせますから、気を落ち着けて僕の話しを聞いて下さい」

クロはそう言って、深く頭を下げた。

どうやら花子は、クロの真摯な姿勢で落ち着きを取り戻したようだ。

「花子さん、あなたは以前、鈴木さんの御家庭で飼われていたよね。そして、良く隣町の公園に来ていた。その時に、あなたに一目惚れした犬がいるんだ。僕達は彼の依頼であなたを探していた。運良く、あなたが飼われていた鈴木さんの自宅を発見出来たが、その時には既に引っ越した後だったんだ。僕達も一度は諦めかけたんだけれど、それでもあなたを諦められない、と彼に言われて、もう一度あなたを探す事になった。すぐに新しい住所が分かり、僕達は鈴木さん宅を訪ねた。しかし、どうする事も出来ない事情で、あなたを手放したと言っていた。鈴木さんは泣いていたよ」

 クロとは昨日の夜に、保健所にやむなくペットを引き渡す飼い主の気持ちや、奥様とのやり取りを話して、花子を説得する為のトークをある程度考えていた。

 それにしても……こいつトークが上手い。

花子が全身を大きく左右に振って、悲しい声で鳴いた。

「そうだよね、あなたの気持ちも分かるよ。だから僕は、鈴木さんの家へ連れ戻す気はない。あなたを好きだと言っている彼の飼い主さんは、すごく優しくて犬の気持ちを理解してくれる人なんだ。もしも仮に、あなたが彼を気に入らなかったとしても、あなたの面倒は責任を持って見てくれると約束してくれている。こんな山の中で暮らすよりも、その方があなたのためにも良い筈だ。あなたの美しい毛並みが、汚れているじゃないか。だから、僕達と一緒に帰ろう」

 と、クロが言い終えると、花子が何事かを言っているように見えた。

「え、彼の名前? 小太郎だけど……。え、彼の犬種かい? チ、チワワだけど……。え、そんなチワワなんか知らない? ま、まぁ、それは別にいいじゃないか。彼とは、一度も話した事がない訳だし、話してみればどれだけあなたを愛しているのか分かると思うしさ。その愛情で心が動かされる事も充分に考えられるよ。仮に彼を気に入らなくても、無理やり結婚させられる訳ではないしね」

……やはり小太郎の勘違いか。

「そうか、この山のボスに助けられたんだね。だから、勝手について行く訳にはいかないし、それは恩人であるボスを裏切る事になるって事か……じゃあさ、ほんの少しだけでも良いから、小太郎とその飼い主に会ってみてくれないかい? それで、少し話してみてから、ボスと相談してみてはどうかな?」

クロ、それは名案だ。

そこで小太郎は花子に告白して、フラれる。これで一応は依頼を解決した事になるだろ。後は花子がどうするのか決めれば良いことだからな。

奥様の元で暮らすも良し、この山で仲間と暮らすも良し。仮に、保健所に捕獲されたとしても、奥様に連絡が行くようにしておけば、ちゃんと面倒見てくれるだろ。一緒に暮らす事で小太郎との仲も進展する可能性だってある訳だしな。

うん、クロは俺に似て賢い。

一人で頷いて納得していると、横に立っているネコが袖を引っ張った。

「ちょっと、あんた一人でなに納得してんのよ。私はクロちゃんの声が聞こえないんだから、ちゃんと説明しなさいよ」

二匹のやり取りに見入ってしまい、完全にネコの存在を忘れていた。

 今までのクロと花子のやり取りを話して、それに対する自分の考えも伝えた。

「なるほどね。あんたにしてはちゃんと考えてるわね」

あんたにしては――は、余計だっての。

 どうやら、クロの意見に花子は悩んでいるみたいだ。二匹は沈黙の中にいた。

その沈黙を破ったのは、クロでもなく花子でもない。

山が震える程の雄叫びだった。その直後に大勢の犬の怒声が聞こえる。まるで、本当に山が震えているような感じがした。

「これは、まずいね……どうやら、仲間が来たみたいだ」

クロは、山の奥を見据えてそう言った。花子も振り向き大きく吠えた。

すぐに、俺達の目の前に野犬グループが現れた。少なく見積もっても、五十匹はいる。

その中央の犬達が左右によけると、そこに一筋の道が出来上がった。

そこを悠然と歩いてくる、黒光りした短毛を纏う一匹の犬。

犬種はドーベルマン。

鋭利な刃物のような牙を剥き、唸り声を上げている。どうやらボスのようだ。

「俺たちの縄張りで、なに好き勝手やってるんだ?」

あれ、ボスの声が聞こえたような……。

「すみません。どうしても、花子さんと話しがしたかったので、こう言う形を取る事になってしまいました。しかし、花子さんにとって良い話ですから……」

 うん、これはクロの声だ。

「そんな言い訳が通るとでも思ってんのか?」

これは、クロの声じゃない……と、言う事は。

非常に怖いが、どうやらボスとは会話が出来るみたいだ。

「あ、あの、ボスさん。少しだけで良いんで、話を聞いてもらえますか?」

その声に、睨み合っていたボスとクロはきょとんとして俺を見つめる。

「ち、ちょっと……あんた、ボスの声が聞こえるの?」と、ネコ。

「うん、どうやらそうみたいだ。話のわかる人……じゃなくて犬みたいだから、ボスさんと話し合って見るし、ネコは車の中にいてくれるか?」

ネコは俺の手を握り締めて、絶対に無理はしないで、と言って車に乗り込んだ。

「おまえ、俺の声が聞こえるのか?」

「あ、はい。実は今まで、家で飼っているクロとタマの声しか聞こえなかったんです。だから、ボスさんの声が聞こえた時は耳を疑いましたが、どうやら本当に聞こえるようで」

「そうか……実はな、俺と話せる人間に会ったのは、お前で二人目だ。俺の飼い主は科学者だった。飼われてから一年が過ぎようとした時、俺が言った事を飼い主が聞き返してきたんだ。そこで初めて、俺と飼い主は会話が出来る事を知った。しばらくすると、飼い主は俺の脳を調べ始めた。嫌だったが、飼い主のためになるのなら、と俺も我慢したさ。それから数日後のことだ。喉が渇いたから、水を飲みに行こうと飼い主の部屋の前を通りかかった時、部屋の中から声が聞こえた。どうやら、誰かと電話しているようだった。その内容に俺は愕然とした。俺の脳を取り出すと言っていたんだ。俺は怒りと悲しみに我を失い家から飛び出した。何度も追手に捕まりそうになったが、何とかそれを掻い潜りこの山に逃げ込んだ。すると、身勝手な人間に捨てられた仲間達が集まって来て、自然とこのグループが出来たって訳だ」

「そんな事があったんですか。確かに、ボスさんが人間を憎むのも分かります。しかし、人間も悪い奴らばかりじゃないはずなんです。少なくとも、花子の面倒を見てくれると言っている人はそんな人間ではないです」

真剣な眼差しでボスを見つめた。

その直後、いきなり群れの一匹が唸り声をあげて襲い掛かってきた。

俺は、とっさにクロを抱き締める。鈍い痛みが右腕から伝わってきて、同時に後ろからネコの悲鳴が聞こえた。

「やめろ! 勝手に動くんじゃねぇ!」

ボスが怒鳴ると、俺の右腕から牙を抜き取り、その犬は群れの中へ戻って行った。

その痛みで右腕の力が抜けてしまい、クロは何が起こったのかを知る事になる。

「たっちゃん! この野郎、許さないぞ!」

クロは牙を剥き出し、唸り声を上げた。今にも群れの中に突っ込んで行きそうなクロを左腕で押さえ、同時に痛みからくる自分の悲鳴もなんとか押さえた。

俺はクロに、大丈夫だから動かないでくれ、と伝え、ボスとの会話を再開する。

「ボスさん、ここにいる犬達はみんな同じ気持ちなんだろ。元はと言えば人間が悪いんだから仕方がないよ。でも本当に、花子の面倒を見てくれる人は悪い人間なんかじゃないなんだ。人間の言う事なんか信用出来ないかも知れないけど本当なんだ」

だらりと下げた右腕からは、鮮血が滴れていた。

「確かに、お前はその良い人間の中の一人なのかも知れねぇな。そのお前が言うのだから、花子の面倒を見てくれるって言う人間も信用出来るのかもしれねぇ。しかし、どうするかは花子が決める事だ。どうするんだ花子?」

どうやら、花子は迷っているようだ。

急に、群れの犬達が一斉に唸り声をあげた。その視線の先には、黒塗りの車が三台連なってこちらに向かってきている。

……最悪のタイミングだ。

その三台の車は、停めてあった俺の車の周りに次々に停まり、黒いスーツにサングラスをかけた男達がドアを開け出て来て、まだ開いていないドアに手をかけ開いた。

黒いドレスに身を包んだ奥様が小太郎を抱いて現れる。ネコは直ぐに車から飛び出し、事の次第を告げている。

「てめぇ、俺を騙しやがったな!」

「違う! ボス、あの女性がその人なんだ。彼らは彼女を守るために来ただけで、君達に攻撃なんかしない!」

「本当なんだな、もしも嘘なら貴様を噛み殺すからな」

俺は頷き、ボスとの交渉を続ける為にも奥様に話を振った。

「奥様、花子が群れを出ると言えば、ボスはあなたを信じて花子を任せても良いと言ってくれています。本当に花子の面倒を見てくれるのですね」

その問い掛けに、奥様は静かな笑みを浮かべゆっくりと頷いた。

すると、奥様に抱かれていた小太郎が、するりと体を反転し地面に着地すると同時に、小さな牙を剥き何事かをボスに向かって捲くし立てている。

クロに視線を移すと、大きなため息と共にガックリと肩を落とした。

その内容は、すぐにボスが教えてくれた。

「なんだ、あのチビ? 核弾頭の小太郎だってよ! 俺の花子さんを返しやがれって叫んでるぜ!」

ボスの言葉に、群れの犬達が一斉に笑いだした。

あの、バカ!

その笑い声を合図に、小太郎が小さな牙を剥きボスに向かって走り出した。

ボスは余裕の表情で、態勢を変えることもなく、小太郎が辿り着くのを待っている。

小太郎が、ボスの直前まで辿り着いた瞬間。

ボスの前足で蹴り飛ばされた小太郎は、ボールのようにバウンドして、その場にうずくまる。

それを見た奥様が、悲鳴を上げて走り出そうとした時、震える足で立ち上がった小太郎が叫んだ。

その時、何故だか解らないが、小太郎の言った事が聞こえたような気がして、俺は反射的に声を上げていた。

「来るな!」

クロがびっくりして見上げている。どうやら、正解だったようだ。

「ほう、飼い犬にしては、良い根性してるじゃねぇか。しかし、その根性が命取りになる事もあるんだぜ」

ボスは牙を剥き出し、小太郎に唸り声を上げた。小太郎がボスに何かを言っている。その言葉を、クロが訳してくれた。

「確かに俺はチビだし、力だってあんたにゃかなわねぇ。だからって、自分の愛する女が不幸になるのを黙って見過ごす事は出来ねぇ。負けちまう事が分かっていても、俺は花子さんが幸せになるためなら、何度でもあんたに向かって行く!」

小太郎は、片足を引きずりながら、牙を剥きボスに向かって真っ直ぐ歩き出した。

「お前の心意気は認めてやる。しかし、ここにいる事が花子にとって不幸だと言うのは聞き捨てならねぇな」

ボスが牙を剥きだし、驚くべきスピードで小太郎に向かって行った。 

 奥様は、悲鳴を上げている。周りにいたサングラス達が、小太郎に向かって走り出そうとした時。

くぐもった声で、花子が空に向かって鳴き叫び、ボスの前に立ち塞がった。

「どう言うつもりだ花子。てめぇ、俺の邪魔するつもりか?」

ボスは今にも花子に牙を向けそうだった。花子は何かをボスに告げている。それを、クロが訳してくれた。

「ごめんなさい……あなたのお陰で、人間に捕まらずこの山で暮らす事ができた。本当に感謝しているわ。今でも、私の飼い主を許す気持ちにはなれない。でも、クロさんと飼い主さんの深い愛情や絆に触れて、もう一度人間を信じてみたくなったの。身勝手なのは分かってる。あなたに噛み殺されても文句は言えない。でも、私のために命を賭けてくれる小太郎さんを見殺しには出来ない」

「花子さん、そこをどいて下さい。俺のプライドの問題なんだ。これで、殺されても仕方ねぇ、それが俺の運命だったってだけですよ」

「ふん、お前らの恋愛ゴッコに付き合ってる暇はねぇんだよ。目障りだから、さっさと二人で消えちまえ! 早く消えねぇと、本当に噛み殺すぞ!」

そう言って、ボスは群れを引き連れ山の奥に消えて言った。

……終わったんだ。やっと終わったんだ、そう思い胸を撫で下ろしていると、背中に強い衝撃を感じた。

「うわっ!」

 視線を下げると、腕が胸元に絡み付いている。背後ですすり泣く声が聞こえてきた。

「ネコ、傷は大した事ないし、俺は大丈夫だから」

「……もう。あんまり……無茶しないでよ」

 足元には、クロとタマがいて心配そうに見上げていた。

 俺達の力で、依頼を解決する事が出来たんだ、そう胸中で呟きながら、痛みを忘れ喜びを噛み締めていると、背後から奥様の声が聞こえてきた。

「あなた方のお陰で、小太郎ちゃんは本物の男になる事が出来ました。さっきの小太郎ちゃんは、昔の主人を思い出させたわ。花子はわたくしが責任を持って預かります。今回の報酬は銀行の口座に振り込んでおくから、あなたは直ぐに病院に向かいなさい。あなた方に出会えて良かったわ。ありがとう」

そう言って、奥様は小太郎と花子を車に乗せ、走り去って行った。

 俺達は、そのまま病院に向かった。ネコも免許は持っているものの、一度も路上で車を走らせた事がないらしく、その運転は死をも予感させるほどの物で、犬に噛まれた腕の痛みを忘れさせてくれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ