第一章
第一章 クロとタマとネコ
僕は学校から帰ると、ラブラドールのクロを連れて散歩に出掛ける。クロを飼い出したのは小学一年生の頃で、それからずっと散歩に連れて行くのは僕の役目。五歳になったクロは、人間で言う所の二十歳位だと聞いた。
「たまには、違う場所に行こうよ」
と、声が聞こえた。僕は周りを見渡したが、誰もいない。
クロが立ち止まって僕を見上げている。
「もしかして、クロが言ったの?」
「うん。たっちゃん、僕の声が聞こえるの?」
と、クロは首を傾げた。僕は目を輝かせた。これまでもずっと思っていたから。
クロと喋れたら楽しいだろうなって。
「クロ、すごいね。喋れるんだ!」
「たっちゃん、逆だよ。僕の声が聞こえる事が凄いんだよ」
「そうなの? みんなは聞こえないのかな?」
「たぶんね。でも、この事は誰にも言わない方が良いよ。たっちゃんの頭が変になったと思われるよ」
「じゃあ、これはクロと僕の秘密だね」
右手で、口の端から端をチャックで閉める仕草をして微笑んだ。
「残念だけど、二人だけの秘密はすでに漏れてしまったね」
そう言って、クロが草村に向かって吠えると、ゆらゆらと一部が揺れた。
草むらの中から、家で飼っている猫のタマがシッポを立てて、ひょいと現れた。真っ白のタマはクロと同じ五歳で、河原に捨てられていたのを、僕が拾って帰って飼い出した。
「流石はクロの旦那、鼻が利くねぇ。しかし驚いたな。たっちゃん俺たちと話せるんだな。前から聞こえていたのかい?」
「あ、タマ。ちがうよ、前からじゃないんだ。さっき偶然クロの声が聞こえたんだ」
「へぇ、そんな事もあるんだねぇ。二人は今から散歩だろ? あっしは先に帰ってひと眠
りするよ」
タマはそう言うと、あまり興味がなさそうな表情を浮かべ、家に向かって帰って行った。
あ……タマの声も聞こえてたんだ。
しばらく僕は、タマの後姿を眺めていた。
なんで急に声が聞こえるようになったんだろ?
そんな僕を下から眺めていたクロは痺れを切らしたのか、
「たっちゃん、早く散歩に行こうよ!」と舌を出す。
「あ、ごめん。じゃあ、今日は違うコースにしよう。どっちに行く?」
「よし、たっちゃん、あっちにいこうよ!」
クロは嬉しそうに、川沿いの土手めがけて、ぐいぐい僕を引っ張って行った。
一時間ほどの散歩を終えた僕は、急いで台所に向かう。
夕飯の準備をしていた、お母さんの後姿に声をかけた。その内容に驚ろき、慌てて振り向く事を想像して。
「お母さん、お母さん。凄いんだよ。クロとタマの声が聞こえたんだよ」
「そうなの。良かったねぇ」
「本当なんだよ。クロもタマも、僕に凄いねって言ったんだよ」
「あら、そうなの。お母さんの帰りを待っている間、寂しくなくなるから良かったねぇ」やっと振り向いたお母さんの表情は、いつもと同じ優しい笑顔。
嘘じゃないのに、と思った時に声がした。
「だから、さっきクロの旦那が言ってただろ。他人に話しても信じては貰えないって」
その声に視線を移すと、箪笥の上で大きなあくびをしている、タマがいた。
どうやったら、信じてくれるのかな。
しばらくの間、大して広くもない台所をうろうろと歩きまわりながら、その方法を考えていた。
「そう言えば達也、クロに御飯あげたの?」
「あ、忘れてた!」
僕は急いで、台所の棚の上に置いてあるドッグフードを手に取り、小さな庭の片隅にあるクロの家に向かった。僕の足音に気付いたのか、クロは舌を出してブンブン尻尾を振っている。
「クロ、遅くなってごめん」
そう言って、遅れたお詫びに、いつもよりも多めにドッグフードを入れてあげた。
「たっちゃん遅いよ。お腹と背中がくっつきそうだったよ」
クロは、いつもよりも多めに盛られた御飯をすごい早さで平らげ、満足そうに舌舐めずりをしている。
「やっぱり、お母さんには信じてもらえなかった……」
「だから言っただろう。誰も信じてはくれないって。話した相手が、お母さんだから良かったものの、他人ならバカにされるのが落ちだよ」
クロは小屋の中に入り、寝そべった手の上に顎を乗せて上目遣いで僕を見つめている。
「でもさぁ、僕が聞こえたって事はだよ、もしかしたらクラスに一人位は聞こえる人がいるかもしれないよ」
「でも、散歩の途中で会う仲間からは、そんな話し聞いた事ないけどね」
クロはお腹が一杯になったせいで目が半開きだ。
「寝むそうだね。おやすみ、また明日ねクロ」
そう言い終わった時には、クロはもう目を閉じていた。
次の日学校へ行くと、休み時間を利用して仲良しの友達数人にそれとなく聞いて見たが、期待する答えが返って来る事はなかった。学校が終り家に帰った僕は、すぐにクロの犬小屋に行きその事を報告する。
「やっぱりそうだろ。もう友達に言うのは止めたほうがいいよ。それよりたっちゃん、早く散歩に行こうよ!」
「そうだね。もう友達に言うのは止めておくよ。行こう、クロ!」
いつもの散歩コースをクロと歩いていると、庭で放し飼いにされている犬がこっちを向いて吠えている。その犬にクロが近づき鉄柵越しに話しかけた。
「なぁ、俺たちの言葉が聞こえる人間の話し聞いた事あるかい?」
その犬はクロに向かって何事かを言っているみたいだが、僕には鳴き声にしか聞こえない。
「たっちゃん、こいつの言っている事も聞こえるのかい?」
「ううん。クロの声しか聞こえない」
「こいつも、そんな話し聞いた事ないってさ。たまに通じたのかなって思う事もあるらしいけれど、それは散歩やご飯をねだった時に限られているから、声が聞こえているのとは違うだろうしね。実際、僕達犬も人間の言葉はなんとなくしか聞こえないんだ。その時の表情や仕草や声のトーンで大よその判断をしているに過ぎないんだ。だから、昨日たっちゃんの声がはっきり聞こえた時は不思議な感じがしたんだけれど、散歩のコースの事で頭が一杯だったから気にしなかったんだ。まぁ、他の動物はどうなのかはわからないけれどね。もしかしたら、たっちゃんは僕とタマの声しか聞こえないのじゃないかな?」
クロの声に、柵の中にいる犬は驚いたような顔を浮かべて、僕をじっと眺めていた。
月曜日に学校へ行くと、僕が席に着くなり幼馴染の杉浦米子が近寄って来て、急に腕を掴んで引っ張り、誰もいない体育館の裏に連れて行かれた。
幼稚園の時は、ヨネコちゃんと呼んでいたのだけれど、小学生になった時に、「おばあちゃんみたいだから嫌だ」と言われ、ヨネコは却下、ヨネも却下、それでネコと呼ぶようになった。
「な、なんだよネコ。いきなりこんな所に連れて来て」
僕はもしかして、愛の告白をされるのではないかとドキドキしていた。こう言う場面をなんかのテレビドラマで見た事があったからだ。
今までネコの事をそう言う目で見た事はなかったが、良く一緒に遊んでいたし、こうして良く見ると意外に可愛いのじゃないかと思えてきた。
でも、もしも愛の告白をされたら、僕はなんて答えればいいんだ?
「実は僕も好きでした」いや、好きだった訳じゃないしな……。
「今、好きになりました」これだと、なんか合わせているみたいだしな……。
とかなんとか考えていると。
「あんた、動物の声が聞こえるの?」
――なんだ、告白じゃないのか。緊張して損したな。
「誰に聞いたのか知らないけど、どうやら僕が聞こえるのはクロとタマの声だけみたいだ。信じられないのなら別に信じなくてもいいけどさ」
緊張が解けた僕は、つまらなさそうに足元の石を蹴った。
「ううん。あんたは昔から嘘はつかないから信じるよ」
いつものネコとは違い、その表情は真剣だ。その雰囲気に、僕は少し戸惑っていた。
「家のゴンスケがね、もう長くは生きられないみたいなの……最近は起き上がる事も出来なくなって、ずっと横になっているんだけど……」
ゴンスケの事は知っている。クロと同じラブラドールだ。確か一六歳って言っていたから、人間で言えばもうお爺ちゃんだ。お母さんが言っていた寿命と言う奴なのかも知れない。
「あんたに頼みがあるのよ。最近、私に対してのゴンスケの泣き声が今までと違うの。なんだか、私に何かを伝えようとしている気がするの。でも私にはゴンスケが伝えたい事が聞こえないから……」
「そっか、それで僕をここに呼んだんだ。わかったよ。じゃあ、今日学校が終わったらクロを連れてネコの家に行くよ」
ネコは、今まで僕に見せた事がない、悲しい顔で涙を流し俯いていた。
僕はまだ、飼っている動物の死に直面した事はないけれど、それが仮に寿命であったとしても、どれほど悲しい事なのかは想像できる。
「ありがとう、たっちゃん。じゃあ、家で待ってるね」
ネコはそう言って、涙で濡れた顔を右手で擦り、僕を置いて教室に戻って行った。
一時間目から最後の授業が終わるまで、体育館裏で見たネコの泣き顔が、何度も頭の中に浮かんできて、授業内容が全く頭に入らなかった。
「あれ? 今日は帰りが早いね。遊びに行かなかったのかい? ……どうやら、何かあっ
たみたいだね」
犬小屋の中で寝そべっているクロは、僕の表情で何かを感じたのか、のっそりと起き上
がり小屋の外に出て真っ直ぐに僕を見つめた。
「……うん。ゴンスケがね、病気でもう長くは生きられないんだって。それで、ゴンスケがネコに何を伝えたがっているのか聞いて欲しいって頼まれたんだ」
「……そうか。ゴンさんも長生きしているからね。なるほど、それで今から僕とたっちゃんでゴンさんの所に行く訳だね?」
そう言ってクロは、柱に掛けてあるリードを咥えて僕に差し出す。僕はそれを受け取り鎖とはめ変えて、クロと共にネコの自宅へと歩き出した。
ネコの家は歩いて五分ほどで着く。何度も遊びに行った事はあるし、ネコも家に何度も遊びに来ていた。でも今日はいつもと違う。何故だか分からないけれど、僕は背筋をピンと伸ばして歩いていた。
僕とクロは顔を見合わせて、ネコの家のチャイムを鳴らす。すぐに玄関が開きネコが顔を出して、僕とクロは、ゴンスケが休んでいる部屋に案内された。
「ゴンさん。体調の方はどうだい?」
そう言って、クロがゴンスケに近寄り顔を舐めた。
ゴンスケが何かをクロに言っているみたいだが、やはり僕には鳴き声にしか聞こえない。
「ねぇ、やっぱりゴンスケの言葉は聞こえないの?」
「うん。やっぱり、クロの通訳が必要みたいだね」
「たっちゃん、ゴンさんは自分がもう長くない事をわかっているみたいだね。それで、ネコさんに伝えたい事があるみたいだ」
ゴンスケの横に座り込んでいるクロは、そう言って僕に視線を向けた。
「じゃあ、ゴンスケがネコに伝えたい事を僕に教えてくれるかい?」
「クロちゃん、宜しくお願いします」
今にも泣き出しそうな表情のネコは、そう言ってクロの頭を撫でた。
僕は、クロから聞いたゴンスケの言葉を、ネコに話し出した。
「まず最初に、ゴンスケは自分がもう長くない事を分かっているから、今まで本当にありがとう、って言ってる」
それを僕から聞いたネコは大粒の涙を流し、「私こそありがとう」と、ゴンスケに言った。
すると、急にゴンスケがよろけながら立ち上がり、ネコの膝元に顔を近づけて足の痣を舐めだした。
「ゴンスケが、初めてネコと二人切りで散歩に出掛けた時に、嬉しくて強く引っ張ってしまって、転ばせて痣を作らせた事を謝ってる」
ネコは、溢れだした涙を拭きとる事もせず、唇を噛み締め顔を左右に振り、ゴンスケを優しく抱き締めた。無理に立ったゴンスケの足はガクガクと震えている。
ネコは、ゆっくりとゴンスケを寝かせてあげた。無理をして立ち上がったからなのか、ゴンスケの呼吸は荒い。
「クロ、ゴンスケは大丈夫かい?」
「これ位の事は何でもないって。まだ、ネコさんに伝えたい事があるから宜しく頼むって」
クロはそう言って、ゴンスケの横に腰を降ろし、話を聞き始める。
「ゴンスケはお父さんもお母さんも大好きだけど、学校から帰って来たら必ず犬小屋まで来てくれて、ただいま、って笑顔で話しかけてくれるネコが一番好きだって」
泣かないで、とでも言う様に、ゴンスケはネコに顔を近づけて目の辺りを何度も舐めた。
「それと、自分がいなくなる前に次の犬を飼って欲しいって。そしたら、そいつに夜の見張りの仕方や、ネコと散歩に行く時の……注意……点を教えるから……って」
そう言い終えた時に、僕の太ももに何かが当たる感触があった。それは僕の目から降り始めた小さな雨だった。
「ゴンスケ……心配しなくても私は大丈夫だよ。パパやママがいるし、もう小学五年生なんだから何だって自分で出来るよ。だから……ゴンスケは何も心配しなくていいから……早く元気になって、また一緒に散歩に行こうよ」
そこには、いつも元気で気が強くて自信家で強引な、そんなネコの姿はなかった。
その姿が、より一層僕の心を締めつける。
「ネコの家で飼ってもらって本当に幸せだった。ネコが成長して行く姿を見れて、毎日が嬉しくて楽しかった。みんなとお別れするのは悲しいけど、これだけ長生き出来れば悔いはない。だから、僕を見て悲しい顔をしないで欲しいって言ってる」
僕は胸が一杯になり、我慢できなくなって大声で泣き出してしまった。ネコもゴンスケを抱き締めて大声で泣いていた。
ゴンスケの通訳を終えた僕とクロは、ネコに玄関まで見送ってもらい、自宅に向かって歩き出した。
いつもは何も感じないのに、視線の先に見える夕日が、とても悲しく切ない色に見えて、心が締めつけられるような、そんな気持ちになった。
それから三日たった日に、ネコからゴンスケが亡くなった事を聞いた。あの日からネコは、ゴンスケに悲しい顔を一度も見せずに、笑顔で接してあげたみたいだ。
ネコは悲しみを含んだ笑顔で、「本当にありがとう」と、僕に言った。
それからの僕は、特に代わり映えのない生活を送り、小学校と中学校を卒業して近所の公立高校に入学した。
ネコは凄く勉強が出来たので、全寮制の進学校である有名私立高校に進んだ。
俺は、高校でも無難で退屈な学園生活を送り、卒業してからこれまた無難に父親の運送会社に就職。
従業員十数名を抱える、犬山運送の社長である父は、小さな社長室の椅子に座り、
『俺が教える帝王学は一子相伝。見事その腕で掴んで見せよ!』
と、大層に言っていたが、子供が俺しかいないのだから、
『一子しかいねぇじゃねぇか!』
と、突っ込んでやろうかと思ったのだが、目が真剣だったので止めておいた。
月曜日から金曜日までの九時から一八時までは、従業員のみんなと同じように宅配便や運搬物を配送して、それから一時間ほど、事務所で経営の事について学んだ。
週に一度の休みの日には、昼過ぎまで眠りこけて、居間で飯を食いながらテレビを見て、飽きてきたらクロと散歩に出掛け、夜は暇な友達を探しだして近くの居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲んでいた。
その生活に対し、特に不満はなかったのだが、充実しているとも感じていなかった。