平和呆け
事はこの朗らかな陽光の中、もう日課になりつつある路地上のうたた寝に始まる。この油断癖が私のまだまだ若輩たる所以である、とは毎度日光浴がてらぼそぼそと思考していたつもりだったが、果たしてその自覚も何処へやったのやら。そこを軽々ちょいと突かれ、体勢を崩し、一旦地を二三転してからようやく命の危機を直感し、慌てて飛び起きる。痛覚がようやく働いて左胸からの出血を知らせるものの、そんなことを気にしている場合ではなかった。幸い身体は早急に羽ばたこうとしてくれるのであるが、しかし等身分ほど飛び上がったところで、面舵いっぱい!と転落してしまう始末であった。見るとやはり、右翼が数枚禿げてしまっていた。奴はこれを見逃さない。見逃すわけもない。同胞達は皆、電線に避難してしまったのだから、私はもう救われない。であればどうする。また飛び上がってみようか? しかし意識も朦朧とする中、片翼の力で何ができよう。無理をして動かせば痛みも増すわけだし、あまり気は進まない。ならば諦めて死を享受しようか? いやいや、それはもっと痛い。などと一羽すったもんだを披露する悠長な理知に、生存本能は付き合っていられぬようで、脚は勝手にドテドテと地を駆け出した。しかしやはりその必死の抵抗もむなしく、奴の双爪はまるで足踏みでもするように、難なく私を捉えてみせた。ああ、死は目と鼻の先に。やがて触れられ、そして中へと縫い入られるのだ。と、絶望に差し掛かったその時だ。
「こら、やめなさい!」
キン、と鋭い怒声と共に、私は闇から光へと投げられた。奴はニャアンと跳びはねてから間合いを取り、こちらへ向けてフー、フーとよだれを飛ばしている。反対側の、つまり声の主の正体はまだ幼い人間であった。はてはて人間の幼子も奴が怖いものなのだろうか、すぐ向かいの家屋から顔だけ覗かせている。なるほど私は救われたようだ、と状況の割に冷めすぎている自分に、むしろ腹が立ってくる。こんなことだからいつまで経ったって若輩なのだ。
「かわいそうに。こんなところじゃ轢かれちゃうわ。」
そう言って歩み寄ってきたのは、彼女の母親らしき者である。周りにはその親子の他に、ぶち模様と、キジトラと、三毛としかおらんかったようで、本当に危ないところだった。人間の幼子は哀れみの目で私を嬲ってから、私を持ち帰る。通常情けをかけられることなど御免被るのだが、安堵と疲れからか凍ってしまって、その羽一本も身動きはできなかった。
それから幼子はどうしただろう? 彼女とその親は、これはまたひどい勘違いをした。もうじき雨模様と見て、忙しない体を表した彼女らがまず始めたことは、庭に穴を掘ることだった。これがちょうど私がすっぽり収まるほどの空洞で、ついつい嵌ってみたいという好奇が疼く。それを察してか否か(否に決まっている)私をそこにポイと投げ落として、人間共は手を合わせる。合掌。度々見られる人間の仕草だが、その意味を私は知らなかった。ここですぐさま危機を感じ、余力を尽くしてあがいておれば間に合ったのかもしれんが、とうとう私は満たされた好奇にうつつをぬかし果てた。さて、と立ち上がった幼子は次に、その小さな手一杯を使い、掘り起こした土を私にドサリとのし掛ける。と同時にザッと降り出した天の涙に、彼女らは屋内へと踵を返した。ふざけた空だ。泣きたいのはこちらである。我々のような種族は空に見放された途端に死が決まるのだ。
「空よ、同胞よ。さらば。さらば。」
潔い台詞は絶え間なく頭に浮かぶものの、身体は本能に抗えない。死力の限りドタバタともがいてしまう。普段あれほどぼおっとしているくせに、諦めの悪い種族である。所詮はそこからどうなるわけでもなかろうが、そのあがきの結果が、意外にも無駄には終わらなかった。どうやらにわか雨だったようで、土の隙間からさらりと、馴染みの陽光が差し込んだ。私は嬉しかった。最期に空が私を許してくれたような心地がしたからである。再び集い始めた同胞たちが、私の元へと降り立った。同情はよして欲しい、私の一番嫌いな事なのだ。それを伝える術もないので、歩み寄って来る彼らの目を一つ一つ、私は見つめ返した。
瞬間、彼らは土くれに向かい一斉にくちばしを突き立てた。絶えかけた意識が覚醒し動揺する。何事だ? まさか救ってくれるのだろうか。その割に勢いに容赦がない。あちこち刺さるわ刺さるわ、きっと今に四肢散開だ。されるがままに転がされて言葉もない。無様に横たわりながら最期を迎えようという間際、その消えゆく視界に映ったのは米つぶだった。ああそうか。ただでさえ哀れな死骸に余計な種を撒いてくれたものだ。
人間畜生。