リラバウルの海へ
ドック全体に響いていた注水音が静かになっていく。
「平賀所長、ドック内満水、缶圧上昇、機関正常、全兵装準備完了です」
うむ、と頷く平賀所長。その顔は完全に『海の男』といった感じだ。
「船体保持機構、ロック解除」
「ロック解除します」
ガコンという音がして、一瞬フワリと浮き上がる。
「船体の浮揚を確認、船台収容完了」
駆逐艦・雪風、出港準備完了です」
二人は向かい合いピシッと敬礼する。
「よろしい、ドック開扉」
目の前で固く閉じていたドックの扉が左右に分かれていく。
そして僕の目の前にはリラバウルの港が広がった。
「開扉完了、進路よし」
「微速前進、舵中央」
「びそーく前進、舵中央」
足元からの振動とドック全体に響く機械音が一層大きくなる、特に船の後ろからの振動と音が大きい、これが五万二千馬力のパワーなのかな?
ゆっくりと動き出す雪風、舳先がドックから顔を出す、ドックの大屋根から出た甲板がリアスの陽光照らされる。
ゆっくりと、歩くくらいの速度で進む雪風。
艦橋の前に鎮座している大砲に光があたりキラリと光る。
そして僕らのいる艦橋もドックの外に出た、窓から差し込むリアスの陽光が燦々と降り注ぐ。
「う〜ん、良いお天気です。絶好の公試日和ですね」
確かに、雲ひとつない青空に穏やかな水面。
その海面を滑るように雪風は進んで行く。
あれ?そう言えば、ハルゼー審査官が言っていたっけ?
平賀所長、今日は公試に出るとかなんとか・・・
この航海が“公試”と言うものなら、平賀所長は最初から僕を海に連れ出すつもりだったのかな?
「あの〜、平賀所長?」
恐る恐る声をかける。
「なんだ?」
ぶっきらぼうな返事、平賀所長は前方を見据えたままだ。
「公試ってなんですか?」
「なんじゃ突然に・・・雪風、操艦を任せる。港外まで5ノットを維持しろ」
「了解です、港外まで5ノット維持します」
平賀所長と同じように前方を見つめたまま応える雪風ちゃん。
「公試ってのはな・・・まぁ分かりやすく言えば試運転だな。雪風も二週間以上動いてなかったし、その間にオーバーホールもしたからな」
オーバーホール?大規模整備のことだっけ?
「ハイ、船底の掃除に全体の再塗装、外観だけじゃありませんよ。タービンの整備にボイラーの掃除、煙突や煙路の掃除までして貰っちゃいました。だから雪風は中も外もピカピカなのです」
周囲を警戒して船を進めながら上機嫌の雪風ちゃん。
建造したての様に綺麗なのは、そのおかげだったんだ。
「ちょ、ちょうど手が空いていたからなっ」
「とかなんとか言ってますけど、『御剣のひ孫に無様なモノは出せん、儂の手で最高の状態で引き渡す!』とか言ってたんですよ?」
胸に下げていた双眼鏡を覗きながら、雪風ちゃんの暴露独演会はなおも続く。
「兵装も全部自分で調整してくれたんですよ、機銃も一門ずつ全部です。今なら水測と連動させて魚雷だって迎撃出来そうです」
「い、いらん事は言わんで良い!それに機銃で魚雷が迎撃出来るわけないだろうがっ」
平賀所長、顔が真っ赤です。
「と、とにかくだ。これは必要な公試だ、決して貴様の為に用意した訳ではない」
嘘だ、平賀所長は僕の為に雪風を整備して、公試の準備をして待ってくれていたんだ。
一度もあった事の無い、僕の為に・・・
それなのに僕は・・・
思わず下を向いて考えてしまう、自分がどれだけ我儘で最低な事をしてしまったのかを。
「おい、さっき言った事忘れてないか?」
え?なに?なんのこと?
「明日っからはこの指揮、全部貴様がやるんだぜ?」
あ〜・・・そんなこと言ってたような。
「儂は明日っから忙しいからな、ついて行ってやるのは最初で最後だ」
え?なにそのスパルタ?冗談でしょ?
「平賀所長は有言実行の人なのですよ?譲らずの弓弦さんですから」
いやいや雪風ちゃん、君自身にも関わる事だよ⁉︎
「大丈夫ですよ、ナノネットワークコーティングもバッチリなので多少事なら傷一つつきませんから」
またなんか知らない単語が出てきた。
「それに・・・乙女の柔肌にキズなんかつけたら」
なんか雪風ちゃんの背後にゴゴゴって見えないなにかの擬音語が見えた。
そしてクルリと振り返ると笑顔でこう言った。
「爆雷軌条から爆雷と一緒に海に放り込みますから」
だからなんでそうなる。
「座学は帰った後でガッツリ詰め込んでやる、それより今は実学の時間だ。しっかり学べよ、御剣候補生」
いつのまにか候補生になってる。
でも、これって平賀所長の期待の表れなのかな?
僕みたいなのに期待してくれてるのかな?
「港外に出ますよ〜」
その言葉に顔を前を見ると、そこには海と空の境界線が分からないくらい綺麗な海と空が広がっていた。
平賀所長のいう『候補生』が何の候補生なのかなは分からないけど、とにかく僕は一週間頑張ろうと心に誓った。
「よーし、雪風!全力発揮ヨーイ」
「了解ですっ、機関出力最大準備します」
港を出たばかりだと言うのに二人のテンションと雪風の速度はドンドン上がってゆく。
さっきまでとは比べ物にならない振動と音が、船全体から鳴り響く。
「ちょ、ちょっと⁉︎平賀所長、大丈夫なんですか?」
「な〜に、まだまだこんなモンじゃねぇよな?雪風」
「ハイ、現在機関出力55パーセント速度26ノットです」
「1ノットって時速何キロなんですか?」
足元から響いてくる振動が結構キツくなってきた。
文字通り加速度的にスピードが上がってる。
「1ノットは1,852キロだ!」
え〜っと、26かける1,852は・・・時速48キロ⁉︎
全長110メートルのこの船が時速48キロ?
「機関出力70パーセント、速度30ノット」
時速55キロを超えた、地球では絶対あり得ない状況だ。
「雪風、調子はどうだ?」
「絶好調です、ボイラーもタービンも最高です!」
平賀所長も雪風ちゃんもノリノリだ、これは僕にどうこう出来る状況じゃない。
「機関出力最大っ、速度36ノット、本艦ただいま最大速力を突破」
多分、最大を突破したのは二人のテンションだと思います。
それからしばらくいろんな試験を行っていた、色々やっていたけど、僕にはほぼ分からなかった。
「公試はこんなモンだな、速度12ノット」
「了解、速度12ノット」
ふぅと息を吐き額の汗を拭う平賀所長
「雪風、異常はあったか?」
「異常ありません、平賀所長ありがとうございます」
艦橋ではそんな会話が続いていたみたいだけど・・・
僕はそれどころではなかった。
その時僕は艦橋を降りて右舷側の柵に捕まり身を乗り出し、遥か向こうに見える水平線を睨みながら、己と戦っていたのだ。
「うえぇぇぇ・・・ウップ」
僕は酔っていた、盛大に酔っていた。
この大海原に・・・
「こ、これが船酔い・・・」
生まれて初めて経験した大海原は、同時に船酔いという魔物の潜む場所だった。