後編
『静かにしててよ。お母さんにばれると困るからね。』
ゆきちゃんが小さく言うけれど、ボクにはなんのことかさっぱり分からない。ただ、ボクの耳元で言うから、くすぐったくて、キューキュー鳴いた。
『だめだったら。静かにしてなきゃ。』
シーっと言いながら、ボクはゆきちゃんにきつく抱きしめられた。息苦しくてもがくけれど、ゆきちゃんは離してくれなかった。
『あら、ゆきこ、帰ってきたの?』
『あ、うん。ただいま!』
ゆきちゃんのトクントクンが大きく跳ね上がった。
『帰ってきたのなら、ちゃんとただいま位言いなさい。』
『うん。ただいま!』
大きな声でゆきちゃんは言って、大きな足音をさせて走っていった。上に下に、右に左に、ボクはゆきちゃんのトクントクンがよく聞こえるところで揺れた。
『ふう!』
ようやくゆきちゃんは止まり、大きなため息をついて、ボクを降ろしてくれた。足元には、なんだかふわふわしたものがあって、くすぐったくて、ボクは確かめるように踏んだり、ニオイをかいだりした。
『名前、何がいいかな?』
ボクをなでながら、ゆきちゃんは言う。
『チビ、かな?真っ黒だから、クロかな?それとも、大きくなるようにダイかな?』
なんだかゆきちゃんは楽しそうだった。ボクは足元をフンフン嗅ぎながら歩くのに忙しかった。ここは、ゆきちゃん以外のニオイがたくさんするんだ。
『お前はなんて呼ばれたいの?』
急に持ち上げられて、ボクの鼻にゆきちゃんの鼻を押し付けられた。ぬれてないよ、ゆきちゃん。病気なの?
『なんて呼ぼうか?チビ?』
「シロー!」
って言ったけれど、
『そっか。チビか。じゃあ、今日からお前の名前はチビね。』
と、ゆきちゃんはボクの鼻に鼻を押し付けて、ふふっと言った。それがくすぐったくて、前足をジタバタさせると、ゆきちゃんの顔に当たった。
『肉球もかわいいね、チビ。』
ゆきちゃんに肉球をぷにぷに押され、くすぐったくて、キューキュー鳴いてしまった。そうしたら、急にバンっと大きな音がした。
『あ、ねえちゃん!』
『こういち!』
突然、ゆきちゃんにぎゅっと抱きしめられた。苦しくてもがくけれど、ゆきちゃんは離してくれない。
『ねえちゃん、それ、なに?』
『何でもない!』
『何でもなくないじゃん!それ、犬だよね?どうしたの?』
『何でもないってば!』
『拾ってきたの?』
『う・・・・・・。』
『お母さんは知っているの?』
『あ・・・・・・。』
『お母さんに言わなきゃ!』
バタバタと音がして、「こういち」の声は小さくなっていった。
『待って!こういち!』
ゆきちゃんはぎゅっとボクを抱きしめて、走っていく。トクントクンが大きくなっていた。タンタンタンと音がして、ボクは上へ下へ揺れていた。
『お母さん!ねえちゃんが!』
『こういち!待ってって!』
『なあに。騒々しいわね!』
『お母さん、ねえちゃんがね。』
『こういち!』
ゆきちゃんの声が大きくなる。それと同じように、トクントクンも大きくなった。
『チビ、いい?いい子にして待っててね。』
ゆきちゃんがボクにささやくけれど、耳に息がかかって、くすぐったくて、思わずキューっと声が出ちゃった。
ゆきちゃんは、ゆきちゃんのニオイがいっぱいするふわふわとした場所にボクを下ろした。そしてゆきちゃんは足音をバタバタさせて遠ざかっていった。
『ゆきこ!どういうことなの?』
『ねえちゃん、犬、連れて帰ってるんだぜ!』
『こういち、あんたには聞いてない。ゆきこ、自分で説明しなさい。』
『それは・・・・・・。』
ゆきちゃんの声が止まった。
ボクにはニンゲンの話が聞こえなくなってきた。
「おなか、すいた・・・・・・。」
キューっとおなかが鳴った。
起きてからママのおっぱいを飲んで、それからママと離れて、それからおっぱいを飲んでいない。
また、キューっとおなかが鳴った。
「ママ・・・・・・。どこにいるの?」
ボクは、ゆきちゃんのニオイがいっぱいするところをフンフンかいで、座り込んだ。
「ママ・・・・・・。ママ・・・・・・。マ・・・・・・。」
ガタン!バタン!
大きな音がだんだん近づいて、ボクは目が覚めた。ママを思いながら寝ちゃったみたいだ。
『全く、あんたって子は!』
『待って、お母さん!』
先に近づいてきたのは「お母さん」みたい。ゆきちゃんの部屋でもニオイはしていたけれど、ゆきちゃんと「こういち」のニオイの方がたくさんで。でも、ここに来たときからあちこちでニオイがしていた。
ちょっとだけ、ママのところにいた「お母さん」のニオイに似ていた。
だから、ボクはちょっと怖かった。
でも、
『まだ目が開いてないのね。』
そう言って、優しくボクを抱き上げてくれた。ゆきちゃんがなでてくれるよりも優しく、ゆっくりとボクの背中をなでてくれた。
その手はボクの知ってる「お母さん」とは違って、とても優しくてあったかくて、思わずキューキュー鳴いてしまった。ゆきちゃんに「静かにしてて」って言われたのに。
『ゆきこ、来なさい。それから、こういちも。』
「お母さん」に言われて、ゆきちゃんが小さくごくっと喉をならして、近づいてきた。「こういち」も「お母さん」の近くに来た。
「お母さん」のトクントクンが聞こえた。ゆきちゃんのより、すこしゆっくりな音。なんだか、ちょっと安心できた。
フンフンと「お母さん」のニオイをかいだ。
このニンゲンはきっと大丈夫。ゆきちゃんも、きっと。
『いい?生き物を飼うっていうのは、ただ、「かわいい」じゃだめなのよ。生き物を飼うっていうことは、その命を守るってことなの。ゆきこ、できるの?』
ゆっくりと「お母さん」はゆきちゃんに話しかけていた。その間、「お母さん」はゆっくりボクをなでてくれた。気持ちよくって、ボクは「お母さん」の手をペロペロ舐めた。
『お散歩に連れてったり、エサあげたり、お世話、ちゃんとするもん。』
『お世話だけじゃだめなのよ。命を守るってことは。』
『ちゃんと大事にするもん。』
ゆきちゃんの声が少し小さくなった。
『大事にするのは当たり前なの。例えば、ゆきこが風邪をひいて、熱が出ても、エサをあげないわけにはいかないのよ。お散歩だって連れて行かなきゃ、トイレに行けないのと同じ。かわいそうでしょ。』
ゆきちゃんは黙ってしまった。
「お母さん」は小さく息を吐いた。少しだけトクントクンが早くなった。
『・・・・・・もちろん、家族なんだから、ゆきこが病気の時には私やお父さんやこういちも手伝うけれど。』
『うん。できるよ、私。チビを守る!』
ゆきちゃんの声が急に大きく、元気になった。
『それとね、もう一つ。命を守るってことは、死ぬまで面倒を見るってことなの。チビって名前をつけたのね。そのチビが死ぬまで、ちゃんとお世話ができる?大きくなったからって、飽きたからって、捨てたらだめなのよ?』
『大丈夫!大事にする!私が、チビのママになるんだもん!』
さっきよりもゆきちゃんの声が大きくなった。そして、ボクはゆきちゃんの胸の中に、ちょっとだけ乱暴に抱き抱えられた。「お母さん」より、少しだけ温かいゆきちゃんの胸に。
やっぱり気持ちよくなって、キューって鳴いちゃった。
『チビ。私がチビのママだからね。』
そう言って、ゆきちゃんはボクの鼻にゆきちゃんの乾いた鼻を押し付けた。足が宙に浮いてて不安定で、ちょっとだけ怖くて、またキューって鳴いてしまった。
そうしたら、「お母さん」が小さく
『全く・・・・・・。誰に似たのかな、この頑固さんは。』
そう言って、少しだけ笑った。ゆきちゃんは聞こえてなかったみたいだけど、ボクにはちゃんと聞こえたよ。「お母さん」の声が優しかったのも分かった。
『ゆきこの気持ちは分かったから、あとはお父さんを説得しなくちゃね。それから、明日か明後日には動物病院に連れて行かなくっちゃね。何か病気を持っているかもしれないし。』
早口で言う「お母さん」の言葉に、ゆきちゃんは「うんうん。」って言ってる。でも、あんまり聞いていないのかな。ボクの鼻を触ったり、肉球をプニプニ押したりして、ボクはくすぐったくてたまらない。
『だから、今日はダンボールの箱にチビを入れて。一緒に寝るのはダメだからね。』
『分かった。約束する。』
『え?この犬、うちの子になるの?』
『そうよ、こういち。だから、この犬のダンボール箱を作るの、手伝って。』
『お母さん、チビ、おなか空いているよね?何かエサ、ある?』
『犬用のエサなんて、うちにはないよ。まだ目があいてないから、固形物は食べられないし。』
『じゃあ、牛乳は?牛乳をあっためて、チビに飲ませたら?』
『こういち、ナイス!じゃあ、牛乳持ってきて!』
ゆきちゃんがそう言うと、「こういち」が走って出て行った。
「お母さん」は一つ小さく息を吐いて、
『今日のところはそれしかできないね。明日、この子のエサも買ってこなくちゃね。』
そう言って、足音が遠くなっていった。
『良かったね、チビ。うちにいても良いんだって。あとはお父さんを説得するだけだけど、きっと大丈夫だよ。』
ゆきちゃんたちの言っていることはよく分からなかったけれど、ゆきちゃんたちの声の優しさから、やっとボクは安心できてきた。
おなかは空いているし、ママは恋しいけれど。
『お母さん、チビ、牛乳飲まないよ。』
鼻先にママのおっぱいとは違うものを押し付けられたけれど、上手に飲めない。鼻と口の周りにはいっぱいついたけれど、口には入らない。ちょこっとだけなめられた。おいしいけれど、あんまりなめられない。
「おなか、すいたよ~。」
ずっとおなかが鳴っている。目の前にはおそらくごはんがあるのに、飲めない。
『スポイト使って飲ませてあげたら?』
奥の方から「お母さん」の声がする。
周りも、ボクの目の前も、いいニオイがたくさんしていて、ボクは余計におなかが減ってくる。
おなかが減った。そして寒い。
ゆきちゃんはあったかいのに、すごく寒い。
『お母さ~ん!チビ、すっごく震えてるよ。寒いみたい。』
『じゃあ、使わなくなったタオル、使っていいから。』
『それ、どこにあるの?』
『洗面所の一番下の棚。』
『こういち、取ってきて!』
『なんでオレばっかり!ねえちゃんが行けばいいじゃんか!』
『私はチビに牛乳飲ませなきゃいけないから、手が離せないの!』
『す~ぐオレにばっか言ってさ。ズリィよなあ。』
『いいから、早く持ってきてってば!チビがかわいそうでしょ!』
「こういち」は「ズリィ、ズリィ」って鳴きながら、遠くに行った。
ボクはママが恋しくて恋しくて、寒くて、おなかが減っていて、ただ震えが止まらなかった。
『ただいま。』
ゆきちゃんとも「こういち」とも「お母さん」とも違う、低い新しい声がした。
『おかえりなさい。』
その声がした時、「お母さん」が近寄ってきた。そして、小さい声で
『ゆきこ、自分でお父さんに言いなさい。チビのこと。』
そう言って、「お母さん」の声が少し遠くなった。
「イタタタ!」
ゆきちゃんがボクをぎゅうっと抱きしめた。力が強くて、悲鳴が出てしまった。
『チビ。頑張るからね。』
ゆきちゃんのトクントクンが大きくなった。
ボクを置いて、ゆきちゃんの足音が遠くなっていく。「こういち」が近寄ってきて、ボクにふわふわしたものを巻きつけた。
『チビっていうより、もっとかっこいい名前にすればいいのにな。ねえちゃん、センスねえんだ。』
そう言ってボクを持ち上げた。ゆきちゃんより優しく。
寒くて震えているボクと同じように、温かい「こういち」も震えていた。「こういち」も寒いのか?
『カブトとか、コテツとか、もっとさ。』
「こういち」の震えは少しずつ収まってきた。
『って、お前、オスだよな?』
急に宙に体を持ち上げられて、ボクのおなかを見ている。「こういち」の息がおなかにかかってくすぐったいし、足が何も触れないから怖い。キューっと鳴き声が出てしまった。
『良かった!お前、オスじゃん。じゃあ、オレはカブトって呼ぶからな!』
なんだか「こういち」の声は嬉しそうだった。そこへ、
『犬を飼うって、何にもないのに、どうするんだ?』
低い声が入ってきた。
『それは、明日、お母さんと一緒に買ってくるもん。』
ゆきちゃんの声も入ってきた。
『買うって、どうやって?』
『私のおこづかいとか、お年玉を使って・・・・・・。』
ゆきちゃんの声が元気なくなった。
『おこづかいって、ゆきこ、この前マンガ買ってただろ?そんなに残ってないだろ。』
『でも・・・・・・。』
『どうするんだ?』
『でも・・・・・・!』
急にボクの体がグワンと動いた。
『あ、ねえちゃん!』
トクントクンの音がゆきちゃんの音になった。
ぎゅうっと抱きしめられて、息苦しくって、ボクは足をバタバタさせた。
『でも、この子のママになるって決めたの!私がこの子を守るの!だから、お父さん、お願い!チビをうちに置いて!』
ゆきちゃんの大きな声が耳元で響いて、耳がどうにかなりそうだった。トクントクンも大きくなった。
「お父さん」は大きく息を吐いて、
『・・・・・・分かった。ゆきこの勝手にしなさい。でも、お父さんは面倒見れないからな。』
そう言って、ゆきちゃんの近くに来た。なんか煙たいニオイが近寄ってきて、思わずクンクンしてしまう。
ボクを包んでいるフワフワが少しめくられて、
『なんだ、まだ目があいてないじゃないか。これじゃ、長生きできないぞ。』
『アナタ!』
「お父さん」が言ったあと、「お母さん」の声がした。
お父さんの声を聞いたゆきちゃんのトクンが大きく跳ね上がった。
『あ、悪い・・・・・・。』
そう言って、煙たいニオイが少し遠くになった。
『だ、大丈夫だもん。わ・・・たしが守るもん。』
グスグスと鼻をすする音がして、ゆきちゃんがボクをぎゅっと抱きしめた。顔に何か水が落ちてきた。ペロッとなめると、しょっぱかった。
『ゆきこ。お父さんが言ったことだけどね。』
『大丈夫だもん!チビは私が守るんだもん!』
しょっぱい水がボタボタ落ちてきた。そして、ゆきちゃんはボクをぎゅっと抱きしめたまま走った。左右に、上下に揺れる。
ボクはその揺れの中で、少し眠たくなってきた。
目が覚めたとき、カサカサと音が出るものの中にいた。ふわふわがボクの体を包んでいたけれど、ママとは違って暖かくない。
おなかがすいたけれど、ママのおっぱいはない。
ちょびっとなめた「ぎゅうにゅう」は、おいしかったけれど、ままのおっぱいとは違って、なんだかおなかの奥がチクチクする。
近くで「スースー」と空気の動く音がした。
クンクンとニオイをかぐと、ゆきちゃんのニオイがした。
足を踏ん張って起きようとしたけれど、足に力が入らない。
「あれ?」
前足を踏ん張ったけれど、ペタンとすべった 足元のふわふわがじゃまで動けない。
カサカサの近くに「ぎゅうにゅう」のニオイはするけれど、ボクには飲めない。
「ママ・・・・・・ママ・・・・・・。」
一生懸命呼んでみた。でも、ママの声は聞こえない。ママのニオイもない。
「ママ・・・・・・。おなか、すいたよぉ。」
「ママ、さむいよぉ。」
「ママ・・・・・・どこにいるの・・・・・・。ママ・・・・・・。マ・・・・・・・。」
子犬のチビがうちに来て、たった一日で冷たくなっていた。
朝起きたら、チビはもう冷たくなっていて、牛乳の入った小皿の近くで倒れていた。
体を揺すったけれど、チビは起きなかった。
もう、キューキュー鳴かない。
「ゆきこ、仕方ないのよ。動物は目が開く前にお母さんから離れると生きていけないのよ。ゆきこのせいじゃないよ。」
お母さんが私を撫でながらそう言った。
冷たくなって動かなくなったチビを触るのが怖かった。涙だけがボロボロこぼれて、声が出なかった。
「チビは幸せだね。ゆきこにそんなに泣いてもらって。短かったけれど、ゆきこに可愛がってもらえて、チビは幸せだったね。」
お母さんの声も涙声だった。
そこでようやく、私はチビを抱きしめることができた。
冷たくなったチビを。
そして、声の限り泣いた。
「チビーー!!」
空に向かって大きな声で呼んでみた。
「チビは幸せだった?うちに来て、たった一日だったのに?守るって言ったのに、守って上げられなかった。」
ギュウッと冷たくなったチビを抱きしめた。苦しそうに足をバタバタさせるのを期待したけれど、チビの体はピクリともしなかった。
「ごめん!ごめんね!チビ!」
空に向かって、もう一度大きな声で呼んだ。
「チビーーー!!」




