二、出会い
「――待てぇーー! この野郎っ!」
霜月を前にした江戸の町に酒やけした声が響く。その声を背中に、裾をからげて小路を走り抜けながら信二郎は数刻前の自分を強く呪った。
「はぁ、はぁ、何で、こんなことに」
わかっていた。そんなにうまくいくわけないと。
皆、考えることは同じ。
閑期を迎えた江戸は信二郎と同じように、出稼ぎにやってきた地方出身者であふれていた。その中で、たいした芸もない、コネもない、金もない、体格もよくない十六の小僧が仕事にありつくのは非常に難しかった。
故郷から出てくるのに父母が工面してくれた路銀は道中と数日分の宿代に消え、財布の中には穴あき銭がわずかに残るばかり。今夜は屋根のある寝床を諦めるしかないと考えたそのとき、右手に見えた賭場の目印。
手の中の小銭とそれを見比べて、そこへ足を踏み入れた過去の自分をこんなに後悔したことはない。
すれ違う人は皆、驚いたような顔をして呆然と、もしくは物珍しそうに見送るばかり。とても助けが求められるような状況ではない。
見知らぬ土地の小路を駆け抜けて、曲がった先の光景を見て絶望する。行き先のない袋小路。追ってくる声は近く戻ることもできない。もはやこれまでかと覚悟を決めかけたそのとき、ぬっと伸びてきた手に手首をつかまれて物陰へ引き込まれた。
「うわっ」
「っし、黙って」
思わず出かけた叫び声を飲み込んで、そっと様子を伺ってみる。自分を引き込むと入れ替わりに、小路へ踊り出たのは橙色の着物の少女。小路を曲がって姿を見せた追っ手は大の男が三人。周囲を見回して、胡散臭そうに少女を見る。
「お嬢ちゃん、さっきこっちに小僧が一人こなかったか」
「さて、見てないけど」
少女はあさっての方向を見ながらつまらなそうに応じる。その様子に男たちは顔を見合わせた。
「この小路は一本道で、ここが行き止まりだ。嘘言っちゃいけねぇ。お天道様が罰をくだすぜ」
「嘘ったって、来てないものは来てないとしか言えやしないでしょ。」
「そんなはずはねぇ」
「痛い目を見たくなかったら、正直に教えたほうがいいぞ」
そう言って凄んだ男に呆れたような目を向けて、少女は深く息をついた。
「言うに事欠いて女子供を殴るようじゃ、明日には江戸中の人間に知れるところになるでしょうよ」
「なんだと……!」
「私を痛い目に合わせると、あんたたちは親分からお叱りどころじゃすまなくなるけど。さぁ、回れ右して別の場所を探したほうが得策だとは思わない?」
「ちっ、いくぞ、お前ら!」
目方が自分の二倍はあるような男たちに凄まれても動じないその様子に、男たちはこれ以上問い詰めても無駄だと悟ったのか、それともこの少女が本当に名のある人物の縁者だと信じたのか、肩をすくめて元来た道をかけていった。
その背が遠くの小路に消えるのを見送って、少女は腰に手を当てふん、と鼻を鳴らす。
「小物なんだから。口ほどにもない」
そして物陰で息を潜めていた信二郎を手招きして、一言。
「じゃあ、訳を話してもらいましょうか」
「――あはは。賭場でイカサマ博打のカモにされかけて、気づいたから逆にカモに仕返したら目をつけられたって?」
大通りに面した四文屋で、信二郎の話を聞いて少女はくつくつと笑った。
「おっかしい。そういうのはもっとうまくやらなきゃ」
「いや、あの。そのとおりです」
女子に助けられえたうえに、なおかつ茶と団子を御馳走になっているこの状況。恥ずかしいことこの上ないが、無下に断るわけにもいかない。
「最近はああいう、田舎から出てきて身を持ち崩したような輩が多いのよ」
それに片足を突っ込みかけていた自分が情けなく、空の財布を抱えてどうしたものかと頭が痛い。手元に残ったのは母が縫ってくれた空の背負い袋のみ。
「……で、仕事を探してるんだっけ」
「はぁ。そうなんですけど、はは。こんなことになっちゃって、笑うしかないですよ」
「まぁ、ないわけでもない」
ずず、と茶をすすって少女はいたずらっぽく笑って信二郎を見つめてきた。
「うちは割りと大きな商いをしてる。万年人手が足りなくて困っているのだけど」
「わっぷ」
少女は懐から手ぬぐいを取り出して、些か乱暴にぐしぐしと信二郎の顔を拭った。そして顔を覗き込んで、及第点ね、と満足そうに笑う。
「客商売だけど、半分は力仕事になる。給金は月一両弱。住むところと衣服はこちら持ち。それでもいいなら、うちで働くといいわ。どう?」
「やりますっ!」
願ってもない申し出。条件も給金もこの上ない。たとえ、どんな仕事だとしても一年中の野良仕事よりはましに違いない。
少女はにっこりとうなずいて右手を差し出してきた。
「うん、いいお返事。私は千鶴よ」
「あ、僕は信二郎です。よろしくお願いします」
差し出された右手を握り、深く頭を下げる。その手は温かかった。
突然の出会いと、小さなきっかけが作る分かれ道。
信二郎の歩む道の門が開こうとしていた。