一、旅立ち
信二郎の知る世界とは、すり鉢の形をしていた。
周囲を小高い山に囲まれたすり鉢の底に村があって、それを中心として田畑が広がり村と田畑を分かつように小川が流れている。山は季節になれば若葉が茂り、花が咲き、実りをもたらす。北の山が天辺を白く化粧すれば、それはやがて来る冬の誘い。冬になれば雪が積もり閉ざされてしまう。
その貧しい世界が信二郎にとってこの世のすべてだ。多くの人が行きかう街道、美しい景色に、江戸の町の喧騒。閑期に出稼ぎに出かける父親たちや、旅歩きの坊主が話す外の世界のことなどまるで別世界の絵空事だった。
絵空事をこの目で見ることになるとは思いもしなかったのである。
「――体には気をつけるんだよ」
そう言って目頭を押さえた母親に、今生の別れじゃあるまいに、と思いながら行ってきます、と告げた。
見送りに出てきた二人の姉はなにか言いたげに口を開いては閉じてを繰り返し、幼い妹は母親につられて今にも泣きそうになるのをこらえ、口をへの字に曲げてこちらを見つめている。
そんな様子に苦笑して、弟と妹の頭を一撫でして、姉たちにも行ってきますを告げた。
今年は、あまり米の出来がよくなかった。
ただ、それだけの話だ。
幼い妹が大病をしたせいで、両親は農地を手放した。以来、小作として細々と生活をしてきたが、年貢と小作料を取られれば、後は生活にかつかつ。余裕は父親が閑期に出稼ぎに行った給金が作る。しかし、父親が足を悪くしたのでそれすら今年は不可能だ。そして、追い討ちをかけるようなこの不作。
生活が冬を越えられないほど逼迫しているのは信二郎の目にも明白で、ついに先日叔父が女賤をつれてきた。
それを追い返した母親が夜半に静かに涙を流していたのを見て、決意した。
越後のこの村から、三十次余りの道のりを越えて一路江戸へ。
家は兄が継ぐ。姉たちはいずれ嫁いでいく身で、危ないことはさせられない。ならば、次男でたとえどこかで野たれ死んだとしてもさほど支障のない信二郎が行くしかない。
天下の将軍様のおわす江戸でなら、野良仕事しかしたことのない信二郎でも何とは言わず仕事にありつけるのではないだろうかと考えた。
決意を告げると父母は顔を見合わせて、神妙な顔をした後、五日かけて路銀を工面してくれた。母が藤の模様を縫い取った背負い袋を用意してくれ、わずかばかりの荷物を詰めた。
辛ければいつでも帰ってきていいと、顔も見ずに言って父は刈り取りを終えた田へ作業に行き、兄はただ肩を叩いてそれに続いた。
そうして、女ばかりから見送りを受けているわけである。
「それでは、行ってまいります」
改めて言って、深く頭を下げた。
父は帰ってきていいと言ったが、やがて来る冬は深い雪を越後にもたらす。そうすればすべては閉ざされ、次の春まで帰る道など存在しない。
妹の大きな瞳がみるみるうちに潤み、雫が落ちるのをなんとも見ていられずに視線を、もう帰ってくることなどないかもしれない生家へ向け、庭先の桑の木とともに瞼に焼き付けた。
声にならない静かな嗚咽に背中を向けて、信二郎は歩き出す。
山を越え、はるかな旅路を越えて、まだ見ぬ江戸へと。
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「――ふぅん。本当にいくんだ」
村と外との境界には大きな楠木があり、その根元には小さな道祖神がある。その横に鮮やかな藤色を見とめて、信二郎は足を止めた。
「ゆう、お前」
「勘違いしないでよね。別に、見送りにきたわけじゃないんだから」
そう言って足元の小石を蹴り飛ばした彼女は、斜向かいの家のおゆう。同じ年でいうなれば幼馴染の関係に当たるのだろう。その上に親戚であり、母方でいうなら従妹、父方でいうなら又従妹だ。もっとも、三十人といない小さな村で、親戚でない者を探すほうが難しいというものだ。
「臆病者の信ちゃんなら、村を出る前に怖気づいちゃうんじゃないかと思って励ましにきたの」
「さすがにそれはないだろ」
「おやぁ、川の橋を渡るのが怖くって、泣いてたのは誰だったかなぁ?」
おゆうは意地悪く笑って、藤色の着物の袖を振った。それが、おゆうの余所行きの着物の中で一等お気に入りのものであると、信二郎は知っている。
「いつの話だよ。五つを数えるより前の話じゃないか」
「山から降りてきた瓜坊に腰抜かしてたし、木登りして降りれなくなってわんわん泣いてたじゃない。心配でしかないつぅの」
そのいい様に、信二郎は首を振って反論をあきらめた。幼い頃から臆病だったのも本当、この幼馴染に口で勝つなど不可能に近いのもまた、真実だ。
じれったいほどゆっくり、おゆうは近づいてきて袖が触れるまであと一歩。先ほどまで笑っていたのがどこへやら、今度は伏せ目がちに口を開いた。
「……帰ってくるよね?」
「なんだよ。わかるわけないだろ。どこで何があるともわからないのに」
「……ちょっと、そこは嘘でも帰ってくるって言いなさいよ」
頬を膨らませて、おゆうは信二郎の肩を強く叩いた。
「はい、やり直し! 帰ってくるでしょ?」
「……はぁ。必ず帰ってくると約束するよ」
「うん。待ってる。信ちゃんがいないと、少しだけ寂しくなるし。ちょっとだけ。」
いつもそのくらい素直なら嫁入り先も見つかるだろうに、と口に出したなら拳の一、二発くらいそうなことを考えて、信二郎は足を踏み出す。山から吹き降ろす木枯らしが、収穫を終えた田畑を吹き抜け楠木を揺らした。
はるかな道を歩き出したその背が見えなくなるまで、見えなくなっても、日が沈むまでおゆうはそこで静かに旅の安全を願っていた。
このような場で投稿することは初めてでドキドキしています。
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