羽柴の鬼姫
第九話 「羽柴の鬼姫」
長浜城、本丸門前。
広大な敷地を埋めるように並べられたかがり火の群れを従え、景子はそこに居る。
日はすでに落ちた。訪れた闇の中、朱の光に照らされた少女の姿は、妖しく、美しい。
――昔のことを、思い出していました。
景子は、薄く笑った。
それは苦笑の形に似ていたかもしれない。
在りし日の、壊れてしまった長浜の夢を、少女は思い出していたのだ。
本能寺の変。
明智光秀の謀反を、景子は知っていた。
知っていながら、ついにそれを信長には伝えなかった。
たしかに、言っても信じてもらえなかったかもしれない。それどころか、讒言と断じられる危険すらあった。
下手に口出しできない事情は、たしかにあった。
だが、それだけではない。景子は自らの意思で、破滅の未来を信長に伝えなかった。
なぜなら。
もし信長が本能寺を回避したなら。
秀吉が天下を取る。そんな未来は、けっして訪れなかっただろうから。
――夢を、見ていたかったんです。
景子は、己の罪を見据えるように、風に揺れるかがり火を凝視する。
「私も、みんなとともに……夢を、見続けたかった。それだけなんです」
少女はかがり火に向かい、懺悔した。
まるで炎の中に、謝るべき相手がいるとでも言うように。
景子は、ただ見たかっただけだ。
ねねや虎之助、家族のみんな。それに、旗下の武将たちとともに。
秀吉が、天下に稀なる出世を遂げる夢を。豊臣秀吉という名の、奇跡のような出世劇を、景子は見続けたかったのだ。
「そのためにも、私は戦わなくてはなりません。夢を、夢で終わらせないために」
炎から目を離し、少女は彼方の闇を見据えた。
明智光秀。本能寺の変で信長を討ったかの武将を、景子は侮っていた。
三日天下。世に言うこの言葉を、彼女は文字通りにしか捉えていなかったのだ。
鎮圧まで三日程度の反乱なら、その威勢が及ぶのはせいぜい京一帯。まさか北近江までが戦火に晒されるはずがない。そう思い込んでいた。
だが、事態は景子の楽観を咎めるかのごとく苛烈だった。
光秀謀反の第一報より、届いてくる情報は、混乱を極めた。
信長の討死と生存が同時に伝えられ、その亡命先も人の数だけ挙げられた。
さらには謀反の協力者とされる人間のなかに、秀吉の名まで挙がる始末である。流言が飛び交い、城内の動揺と混乱は頂点に達した。
歴史から、事態の大枠を知っている景子ですら、周りの混乱に引き込まれて、内心では右往左往していた。
そんな中、ただひとり冷静な人間がいた。
ねねである。秀吉に代わって長浜を治めるこの女主は、さすがにいくさ人の女房だった。
「とにかく、逃げることだよ」
まるで雑談でもするような口調で、彼女は言った。
下手をすれば、混乱を極めた家人たちが暴動を起こしそうな台詞だが、ねねの声音には、不思議とそれを許さない明るさがある。
「――あるいは隠れるか、だね」
言ってから、彼女は状況を説明した。
まず、光秀謀反は間違いない。
これに秀吉が加わっていないのも、確実だ。
もしそんな事があれば、秀吉はなんらかの形でねねに伝えている。それがない以上、考慮する必要のない可能性だ。
その上で、最悪とは何か。
「私たちが人質に取られること。これだよ」
ねねはそう言った。
「それに比べたら、城を奪われることなんてなんでもないさ。
いまの状況じゃあ、あの人にとって長浜はそれほど重要じゃないしね」
彼女は秀吉の立場に立って考えている。
秀吉にとって長浜城が必要か、と問えば、答えは是だろう。
だが、現在秀吉は毛利攻めの最中だ。敵に背を向けとって返すとしても、まず京の光秀とぶつかることとなる。
背後を討つため、兵を込めようにも、肝心の兵がいない。
もし諸方から謀反人光秀討伐の旗があがり、その際城を提供すれば、相手の後背を突く絶好の拠点となるが、だからこそ光秀はこの城を放っては置かない。そもそも現在の員数で城を守るなど不可能だ。
結局、長浜は取られてしまう城だ。
それにこだわって、ねねたち家族が人質に取られてしまうほうが、秀吉にとってはよっぽど拙い。
「だから私たちがすべきは、とにかく敵の目を逃れ、隠れることさ」
それもいますぐ、だ。
光秀の目に見えぬ手は、すでに近江一帯に伸びはじめていると思った方がいい。
一日の遅れが致命的になりかねない。いまねねたちが置かれているのは、そんな状況なのだ。
景子はねねの話をじっと聞いていた。
聞きながら、自分の視線が、重力に逆らえなくなっていくのを感じる。
――母上は、正しい。
そう思う。
長浜城に拘っていては、結局父秀吉の足手まといになってしまう。
それはわかっていた。
わかりすぎるほど、わかっている。ねねの正しさは、多くの人間を救うだろう。
でも、景子は怖かった。
歴史がすでに変わっていて、光秀が天下を取ってしまう。そんな流れの中に居るのではないか。
もしそうなら、逃げたねねたちは、光秀の手の者に捕まってしまうのではないか。自分の行いのために。そう思うと、怖くてたまらなかった。
それは、妄想。
景子がもう少しだけ歴史に詳しければ、現在の状況が未来の記録と差異ない事に気づいただろう。
だが、景子にそこまでの知識はない。縋るべき未来の知識は、すでに彼女にとって信頼の置けないものに代わっていた。
だから。
だから景子は、自分ができることを探した。
家族を安全に逃がす。そのために羽柴景子が取れるあらゆる手段を熟考した。
――私はどうなってもいい。母上が、豪が、みんなが生き延びられる方法を!
考え抜いたあげく、ひとつの思案が浮かぶ。
景子はこれを、逃げ支度を整えつつあるねねに伝えた。
「私が時を稼ぎましょう」
最初、彼女は娘の言葉に目を丸くしただけだった。
だが、景子の本気を感じ取ったのだろう。急に真剣な顔になると、首を横に振った。
「駄目だよ。今回はみんな揃って避難するんだ」
「それではみんな捕まる恐れもあります。誰かが長浜城に篭もって、敵の目を集めている間に逃げるんです――私なら、それができます」
景子はしっかとねねの瞳を見た。
鬼である景子なら、その鬼門で敵兵を抑えることは可能である。
しかし、それは自殺行為だ。籠城するには、長時間にわたって“鬼門”を行使せねばならない。
“鬼門は、現世に迷い出た黄泉帰りを、幽世に引きもどす――地獄の腕に、ほかならぬ”
景子は喜八郎に、そう教えられた。
そんなことは承知している。だが、“鬼門”への恐れ以上に。
かつて織田信長にかけられた言葉が、景子の心を強く震わせる。
“娘御は鬼――力持つ者よ。その力が遠き先に己を滅ぼすとしても、知って、選ばせるべきなのだ。他ならぬ娘の手で。そのためにこそ、娘は知るべきである。己が何者であるかを”
――そう、私は知りました。鬼がどんな存在で、“鬼門”がどんな力なのか。
だから、私は選ばなくちゃならない。他ならぬ私自身の手で……私が、どう生きるかを!
「母上。私は……羽柴の、鬼姫です」
それがすべてだと言うように、景子は口を閉じた。
ねねの瞳が、じっと景子に据えられる。そして、母はやおら娘に抱きついた。少女の細腕に、袖の上からねねの爪が食い込んだ。
「許さないよ」
「母上」
「おまえは私の娘だ! だから絶対に許さない! そんな、そんなおまえひとりが犠牲になるようなこと!」
ねねの体は震えている。
泣いているのだ、と気づいて。景子は目元を潤ませた。
「私は死んだりしません。いざとなれば、敵の囲いを抜いて逃げられる。それくらい、簡単なんですから」
「だったら――いっしょに来て私たちを守ってくれれば、いいじゃないか!」
「無理ですよ、母上。私は、他の人を守りながら移動するなんて器用なまね、できません」
「駄目だよ。駄目なんだよ……」
言葉は、次第に弱弱しくなっていく。
ねねも理解しているのだ。娘を止める術などないと。
こうしているうちに刻まれる時の一片が、黄金よりも貴重なものだと。
「わかってたんだ」
しばらくして。ねねは、ぽつりとつぶやいた。
「形は子供のままでも――おまえはもう、立派な、羽柴の女なんだって」
感情を振り払うように言った、母の言葉。
それは景子が、なによりも欲していたものだった。
「……ねえさま。ねえさまは行かないの?」
去り際。妹の豪があどけない瞳で尋ねてきた。
豪は十歳になる。ちっとも成長しない景子と、だいぶんに身長が近くなっている。
あどけなさの残る顔立ちは、ときおり、はっとするほど整っており、秀吉のかわいがりようも一方ではない。
「すこし待っていてくださいね。豪がおとなしくいい子にしていたら、ねえさまはすぐに会いに行きますから」
景子はやさしく、豪の頭をなでてやる。
豪は気持ち良さそうに目を細めると、あい、とうなずいた。
そんなふたりを見て、秀吉の妹、朝日がこらえきれない様子ですすり泣きはじめた。
「おみゃあは鬼っ子だで」
秀吉の母、なかが、微笑を浮かべながら景子の頭を撫でた。
「――相手が憎らしゅう思うほどに、強かにあらにゃならんぞ」
母が、妹が、祖母が、叔母が。
この長浜でおなじ時を過ごした家族たちが、姿を消していく。
籠城支度のため、残っていた最後の小者を城から逃がした時、景子は長浜での夢のごとき時間が、すでに過去のものになってしまったのだと感じた。
幾百のかがり火に照らされ、朱に染まる長浜の城。
その本丸門の前で、ただひとりの守り手は、在りし日の夢を思い浮かべながら、静かに待つ。
ほどなくして軍気が望えた。
明智方の軍勢だ。京極、阿閑の手勢合わせてであるが、そのようなこと景子が知るはずもない。彼女の眼に移るのは、二千を超える兵たちが城下に群がるさまである。
雲霞のごとく敵兵は城を囲い始める。
かがり火に照らされ、きらめく穂先が秒秒とかがやく。
景子は怯まない。たったひとりで敵軍に当たることになっても。
何故なら、景子は知っている。
自分が何者か。
自分が何をすべきか。
そして、自分がどう生きるべきか。
だから景子は名乗る。己のすべてを表す、その呼び名を。
「羽柴の鬼姫」
そして、敵に断じるがごとく告げる。
「――主不在の長浜を侵す狼藉者に、懲罰仕る!」
その瞳には、まぎれもない。鬼の光が宿っていた。