死出の途
第八話 「死出の途」
さらさらと、川の流れる音。
気がつくと景子は河原に立っていた。
霧深く、景色は定かではないが、漂う空気には、深くなじみがある。
鬼門を開いた時と同じ空気。すなわちここは。
答えを出す前に、足音が耳に入った。
景子は振り返り、見た。深い霧の奥に、黒いしみのように人影がある。
足音は、しだいに近づいてくる。それにしたがい人影も大きくなっていく。
やがて、影に色がつきはじめた。
その近さになると、どうやら男だとわかる。
大きい。子供ほどの身長しかない景子なら、思い切り手を伸ばしても、頭頂に触れる事は出来そうにない。
「誰です」
「……む。その声、姫君か?」
誰何に応えた野太い声は、聞き覚えがあるものだった。
つづいて現れた声の主の姿を見て、景子は目を見開いた。
宮田喜八郎光次。景子が悪霊に纏われたおり、彼女の護衛についてくれた武将が、そこにいた。
「宮田さま」
「姫君。一別以来」
眉ひとつ動かさずにつぶやく姿は、景子にとって懐かしいものだった。
「宮田さま。どうしてこんなところへ?」
景子は首を傾け、尋ねた。
喜八郎は不動のまましばし黙考し、やがて口を開いた。
「死んだが故」
「……え?」
不意打ちに、景子はおもわず口を開いた。
景子の呆けた顔を見て、喜八郎の口元に、わずかに苦笑が浮かんだ。
「播磨三木城での戦にて、不覚をとり申した。そのまま幽世に行くはずであったが……姫君がおわすならば、また違う場所に迷い来たのであろう」
景子はようやく察して、そっと目を伏せた。
人の死には慣れている。それに、所詮戦は人が死ぬものだ。
だが、だからと言って。知人の死が、哀しくないはずがない。
景子は喜八郎にかける言葉を探した。
だが死にゆく人間ではなく、死んでしまった人間に、あらためてかける言葉を、景子はとっさに思いつけない。
しばし、ふたりは川の流れを見ていた。
「……ここは、三途の川ですか」
「およそその類に違いない。いずれにせよ、わしの居るべきところではないが」
景子の問いに、喜八郎が生真面目に返した。
三途の川は、地獄の入口。彼岸と此岸とを分ける冥川。
あくまで入口であって、長くとどまるところではない。死んだ人間はその先に行く。極楽か、あるいは地獄へ。
「――姫君も、気をつけなされ。鬼とて長く幽世に心を浸せば、いずれ帰れぬようになろう。貴女が死ねば、殿が悲しむ」
喜八郎が言った。
まさしく遺言であろう。景子は喜八郎の言葉に、深くうなずいた。
「宮田さま」
「では、殿によろしくお伝えくだされ。
それから鬼門はなるべく使わぬがよい。おなじ幽世の存在となったわしにはわかる。あれはただ便利な力ではない。鬼門は、現世に迷い出た黄泉帰りを、幽世に引きもどす――地獄の腕に、ほかならぬ」
最後にぞっとする言葉を残して。
喜八郎は霧の中に消えていった。
景子が目を覚ましたのはこの直後である。
寝ぼけ眼をこすりながら、景子は妙に現実感のある夢だと思った。
ほどなくして宮田喜八郎討死の知らせが届いた。
天正六年、六月のことだった。
◆
手取川以降、景子はときおり長浜の町を歩くようになった。
あの戦いでの活躍は、すでに尾ひれのついた噂になって広まっている。
“羽柴の鬼姫”が純白の打掛を羽織ってぶらつくだけで、街中での無用な争いを減らす効果があるのだ。
「これも、鬼の使い方なんですかね」
身に纏う打掛を見て、景子は苦笑する。
柴田勝家。織田信長が言うところの“真の鬼”。
この純白の打掛は、手取川で命を救われた礼として、彼から贈られたものだ。
白地に、やはり白糸で雅やかな刺繍がされており、ひと目で分かるほどの高級品である。
それに、白は死に装束の色だ。
黄泉帰りの鬼である勝家が、おなじ鬼である景子に贈るには、相応しいものに違いない。
この打掛を見るたびに、景子は勝家の姿を思い出す。戦場に地獄を現出させた、あの無骨な戦鬼の姿を。
「私も、私なりに、父上の役に立ってみせます……羽柴の、鬼姫として」
思いを胸に、景子は今日も長浜の町を歩く。
鬼といえども女である。
その上秀吉の娘だ。当然身辺には護衛がつく。
ちょうど使いで帰城していた福島正則が、今日は護衛についていた。
福島正則とは、あの市松少年である。
彼もすでに初陣も済ませている。播磨三木城の攻撃といえば、宮田喜八郎が討ち死にした戦であり、そこに身近な人の死と初陣が重なるのだから皮肉なものだ。
とはいえ、そのような事例、乱世には枚挙にいとまがない。
「しかし、長浜は平和なものですな」
町を見回しながら、市松がしみじみと言った。
景子と同い年の少年は、だから十七歳になるはずだ。
だというのに、ふたりが並べば、まるで大人と子供である。
「……市松。大きくなりましたね」
「そうですか? 虎之助はもっと大きくなっとりますよ」
恨みがましくつぶやいた景子にたいし、市松は朗らかに笑ったものだ。
「……虎之助は、どうしているんでしょうか」
歩きながら、景子はそらぞらしく尋ねた。
景子のことを「おまえ」と呼んでいたあの少年も、いまではかしこまって「姫様」と呼ぶ。
初めてそう呼ばれた時、景子は虎之助と口論になった。
弟のように思っていた虎之助から、突然突き放された気になって、かなり必死に呼び名を戻すよう言ったのだが、虎之助は頑として譲らなかった。
それがしこりとなって、景子と虎之助の間は、いまでもすこしぎくしゃくしている。
「必死に勤めとりますよ。なにやら分不相応な大望があるようで」
「大望? なんです? 私が力になれることですか?」
「はは。姫さんが力になってくれるなら、すぐに叶うことでしょうが……やめときましょう。言えば虎の奴に恨まれそうだ」
はぐらかした市松に、景子はむー、と口を尖らせる。
「はは。ま、藤吉郎さまの例に倣いたいと思っている、とだけ言っておきましょう」
市松の言葉を聞いて、景子はなるほど、と手を打った。
「いずれは大名に、というわけですね」
「……まあ、とりあえず、そういうことにしときましょう。あながち間違ってはいませんし」
市松の言葉は意趣ありげだった。
それを察したわけではないが、景子は納得気にうなずいた。
虎之助はいずれ大名になる。彼が元服し、加藤清正を名乗ったときから、景子はそれを知っている。
「父上といえば、最近知ったのですけど」
感傷的な気分になるのを避けるように、ふいに景子は話題を変えた。
「父上と母上、恋愛の上の結婚だったというのは本当ですか?」
「ええ。当時はおねねさまのほうが身分が上でした。それゆえ、おねねさまの母君は最後まで反対されたようで。結局おねねさまは浅野さまの養女になって嫁入されたとか……こう言う話を持ってくるのに、なぜこの御方は己に置き換えて見れんのか」
後半の言葉は小声で、景子には聞こえない。
両親の恋愛話に、景子はうきうきとしてきた。
「恋愛結婚……ちょっと素敵ですよね」
「こちらには芽すらありませんがね」
「余計なお世話です。どうせ私はこの歳になって縁談ひとつありませんよ」
市松の言葉を斜めに受けとって、景子は拗ねた。
この歳になっても、景子にはさっぱり縁談がない。
なにしろ織田信長に目通り適い、勝家から服を送られた女である。
その理由について様々な憶測がされ、その結果、誰もが縁談を持ちこむことを、ためらうようになってしまったのだ。
「そのことじゃないんですが……ま、いいんですがね」
あきらめたようなため息をついて、市松は街並みのほうに目を移してしまった。
通りには種々の店が立ち、おいしそうな匂いが漂っている。
「小さい姫さんに、土産でも買って帰りますか?」
「そうですね。餅を――」
「なにか別の甘いものにしましょう」
「ではあんこ餅とか、豆餅とか」
「餅から離れてください。小さい姫さん、あんまり餅ばかり食わされるもんだから、最近姫さんから逃げとるらしいじゃないですか」
指摘されて、景子は言葉に詰まった。
事実なのだ。
「……餅に罪はありません。すべての責任は私にあります」
「いや、まったくその通りだと思いますが、なんでそこまで餅を庇うんですか……」
そんな風に話していると、通りの向こうから馬が駆けてきた。
一団の先頭に居る、少壮の武者を目にして、景子は眉を顰めた。
阿閑貞大。あまり顔を会わせたくは無い人物だ。だが、期待に反して貞大は景子の前に馬を止めた。
「おお、これは羽柴の鬼姫。相変わらず愛らしゅうござるな」
声に嘲弄の響きがある。
――嫌な奴。
そう思いながら、景子は丁寧に挨拶を返した。
阿閑貞大は近江山本山城の主、阿閉貞征の嫡男だ。元々秀吉が北近江を任された時、与力につけられていた。
しかし領地がらみの争いで秀吉とは険悪の仲になり、中国攻めにも参加せず、現在は信長の旗本になっている。
「聞けば父御は、播州で尊大にふるまい、ために別所氏の反乱を招いたとか。さもありなん。なにせ羽柴殿は下賤の出であらせられるからな。名族の遇し方も知らなんだのであろう!」
「――市松」
黙って前に出ようとした市松を、景子は鋭く制した。
普段は気の利く少年だが、実は激しやすい性質である。主に対する侮辱を我慢できなかったのだろう。
だが、相手は信長の旗本である。市松とは身分が違う。問題を起こせば市松が一方的に不利益を被る恐れがある。止めたのはそれゆえで、むしろ怒りは景子のほうが強い。
「阿閑どの。そのお言葉、羽柴家に対する侮辱と受け止めてよろしいか」
景子は市松の前に出て、貞大を据えた目で睨みつけた。
まさしく鬼の目だった。供廻りの者の顔色が蒼白になった。
貞大はさすがに胆が座っている。怯んだ様子もなく、堂々と返す。
「これはしたり。わしは忠告しておるのだ。寒門の浅ましさゆえにあえて名族を冷遇するならば、いずれ待っておるのは滅びのみだとな!」
がはは、と、下品に笑って。貞大は去っていった。
「けっ」
呑みこんだ汚いものを追いだすように、市松が唾を吐いた。
余憤が燻っているようで、目じりのあたりがひくついている。
「姫さん。なんで好きに言わせたんじゃ――ですか」
「天下の往来で、主君の旗本相手に喧嘩するわけにもいかないでしょう」
「しかし姫さん。あそこで言い返さにゃ、御家が侮られ――」
市松の言葉をさえぎるように、遠くで野太い悲鳴が上がった。
「なにがあったんでしょう」
「さて」
この時には、景子の顔色はすでに戻っている。
首をかしげる市松に、景子は柔らかく笑いかける。
「――乗っていた馬が、すでに死んでいたことを思い出したんでしょう」
声に、すこしだけ、鬼の残滓があった。
少女の足元には、日和つづきだというのに、水たまりができていた。
◆
景子が、乱世にあって平和とも言える時を過ごす間にも、歴史は流れてゆく。
時代の主役は織田信長である。
越後の軍神、上杉謙信が逝き、丹波の波多野秀治、播磨の別所長治、摂津の荒木村重らの謀叛を討ち、さらには宿病のごとく悩まされていた石山本願寺をも降し、武田勝頼を天目山に追い討った。
もはや信長とまともに当たることができる勢力などない。
中国地方の超大国毛利や、関東の雄北条とて例外ではなかった。
群小の大名豪族たちはこぞって織田家によしみを通じ、信長は覇権を確かなものとしていた。
時代を生きる人々にとって、信長が近い将来日の本六十六ヶ国を従えるであろうことは、もはや外れようのない未来の事実だった。
羽柴景子すら、すでに歴史が変わったことを疑ったほどの、それは絶頂期。
しかし、天正十年、六月。
武田勝頼が天目山の露と消えてからわずか三ヶ月の後、事件は起こった。
明智|(惟任)日向守光秀の謀反。それによる信長の死。
いわゆる本能寺の変である。
◆
本能寺はただの寺院ではない。
周りに堀を穿ち土垣を積んだ、一種の城塞のごとき寺だ。
十分な数の兵を込めれば千や二千の兵を相手取っても、長期間支えることができるだろう。
だがこの時、信長の手勢はあまりにも寡なく、寄せ手の数はあまりに多かった。
「是非に及ばず」
とは、光秀謀反の事実を確認した信長の言葉である。
言葉の意図は、どこにあったのか。それは分からない。
その後の信長の働きは、凄絶と言っていい。
自ら弓を取り、槍をしごいて鬼のごとく戦いつづけた。
信長が止まったのは、矢を射尽くし、槍が折れたからだ。武器のほうが先に根を上げたと言っていい。
戦う術を失って、初めて信長は憑き物が落ちたように笑い、奥へ引いた。
深夜である。燈明の明かりは頼りなく、半ば開いたふすまの向こうは、黄昏の暗さだった。
その、深い闇の中に、彼らはいた。
亡者の群れだ。信長の眼にははっきりと見える。
侍がいた。坊主がいた。老人がいた。子供がいた。女がいた。
まるで天国から垂らされた蜘蛛の糸を求めるように、我先に詰め寄ろうとするおぞましき亡者の群れは、見えない壁に阻まれたかのように、部屋の中に入れないでいる。
「亡者どもめ」
信長の言葉には、親愛の響きがある。
いずれも信長の死期が近づいたことを察し集まってきた亡者だ。
見覚えのある顔もあるし、見覚えのない顔もある。共通して言えるのは、信長に強烈な恨みを抱いていることだ。
だが、亡者たちは信長に近寄れない。
信長が発している、強烈な香りが、亡者たちを恐れさせているのだ。
それは紛れもなく、地獄の香りだった。現世では、鬼以外纏い得ないものだ。
鬼の笑いを浮かべ、信長は問う。
「ともに地獄へ、参るか?」
「はい」
思わぬところから返事が返ってきた。
乱丸であった。凛々しい若武者に成長した少年は、まっすぐな瞳を信長に向け、続ける。
「――六道の果てまでも、殿に付き従いましょうぞ」
「デアルカ」
信長の言葉はそれだけだった。
それ以上の言葉は、必要なかった。
そして信長は、事も無げに。己が纏いし地獄の名を呼んだ。
「開け――“無間地獄”」
最も深く、最も苛烈な地獄の門が開く。
恐怖に悲鳴をあげる亡者たちを巻き込んで。乱丸ひとりを供として。信長の姿は地獄の業火の中に消えた。
あとに残った地獄の残滓が、炎となって本能寺を燃やしていった。
そして歴史が刻まれた。




