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鬼門

 

 

 第七話 「鬼門」

 

 

 織田軍のうち丹羽長秀、滝川一益、武藤舜秀むとうきよひでなどの部隊はすでに渡河を終えている。

 柴田勝家率いる北陸方面軍本隊も、渡河を控えて手取川の際まで陣を移していた。

 そこを、狙い撃たれた。戦力の半ばを殺がれたうえ、背水の陣を強いられたのだ。


 夜戦である。

 おりしも曇り空。月明かりさえない闇の中、敵味方双方の動きも見えぬまま、織田方の将兵は、否応なしに血泥の渦に引きずり込まれていく。


 鬨の声と断末魔の合唱が鳴り響く。

 そんな中、柴田勝家の「掛れ」の号令は、ひときわ強く天を震えさせた。



「鬼姫は運がいい」



 十文字の槍をひょいと担ぎながら、森勝蔵が景子に声をかけた。

 景子たちの居る本陣跡は、勝家率いる一隊と敵部隊がぶつかる、やや後方に位置している。

 目印のためか、かがり火を消していないので、周りの様子はよくわかった。



「――こちらに着いていきなり、鬼柴田の“鬼門”を見られる」


「“鬼門”?」



 景子が低くつぶやいた、まさにその時だった。

 織田勢の先陣を切る柴田勝家の体が、ちかと光った。



「鬼とは、黄泉帰りよ」



 にやりと、鬼の笑いを浮かべながら、勝蔵が言う。



「地獄に落ちた者が、その業を抱えたままに、この世に戻って来る。

 ゆえに鬼は、引きずってきた地獄を現世にぶち撒く力を持つ。それが“鬼門”よ――見よや、あれが鬼柴田の“鬼門”」



 闇に灼熱の花が咲いた。

 炎が天を突く。勝家の体のいたる所から、炎が噴き出し始めた。

 きな臭いにおいが鼻をつく。熱波は景子のところまで届いている。

 まともに炎を浴びた上杉方の先陣は、一瞬にして火達磨となった。



「――大焦熱地獄だいしょうねつじごくだ」



 八熱地獄はちねつじごくが一つ、凄惨を極める極炎の地獄。

 その猛熱に巻かれながら。炎を纏いながら。敵をより以上の地獄に落としてゆく。その姿はまさに一個の鬼だった。

 敵に向かい、放射状に延びていく炎の合間を縫うように、柴田勢が乱れた敵陣に向かって、迷いなくぶつかっていく。



 ――これが、本物の鬼。



 景子は呆然と、見た。

 景子の理解する鬼門とは、そして景子自身ともまったく異質。

 本物の鬼。織田信長がそう言ったわけを、景子は否応なしに悟った。


 天を焦がす炎は、昼をも欺く光であたりを照らす。

 そこに浮かび上がる二雁金ふたかりがねの旗印をみて、混乱していた将兵たちも秩序立って動き始めた。

 勝家は自らの武者働きで、壊乱しつつある鵜合の衆を軍に纏め直した。


 下流では、前田利家が手勢を率い、誰よりも早く敵に当たっており、佐々成政さっさなりまさ不破光治ふわみつはるらがこれに続く。

 上流では、文字通り火の塊となって猛戦する佐久間盛政さくまもりまさを中心とした軍勢が善く支えている。

 戦は、このまま進むかに見えた。


 だが、一瞬。

 敵兵を炎熱地獄に堕としていた勝家の足が、止まった。

 敵陣に吹き荒れていた、目映いまでの炎の嵐が、一瞬にして消えたのだ。


 炎を消したのは、たった一騎の将だった。

 眠るような表情をした将は、勝家とは対極的に、身ぶりのみで将兵を動かしている。

 勝家の大焦熱地獄により乱れた陣形が、一瞬で縒り戻される。

 かかげられた旗印は、毘の一字。



「我は、毘沙門天」



 つぶやくような声が、戦場全体を覆うように響いた。

 まるで仏の掌に居る孫悟空のような心地だ。景子は身震いした。

 彼女は知っている。男の名を。戦国最強の軍神。毘沙門天びしゃもんてんの化身。



「――上杉不識庵うえすぎふしきあんである」


「上杉……謙信」

 

 



 

 



 上杉不識庵謙信。

 この時四十九である。武の神毘沙門天を信奉し、幾多の戦を経て通力を得、ついに自らが毘沙門天の化身だと確信するに至る。


 この通力こそ、実は“鬼門”。

 鬼柴田の鬼門、大焦熱地獄をすら消しさる、極寒の嵐。



大紅蓮地獄だいぐれんじごく



 勝蔵が獣のように笑いながら、言った。



「――八寒地獄はっかんじごくの第八、深淵に位置する極寒の地獄だ。寒さのあまり体が折れ裂け流血し、その様紅色の蓮の花に似る――ってな」



 まさに勝蔵の言葉通りの光景が、柴田勢に起こりつつある。

 氷雪は無く、吹くは一陣の風。風が招くは極寒。目を舌を体を凍てつかせる。

 阿鼻叫喚あびきょうかん、とは別の地獄の名であるが、悲鳴絶叫断末魔の大合唱はそれに劣らぬ。



「ぬ」



 勝家が声を放つ。纏う炎がより強く燃え上がった。

 炎熱の光が、無形の寒風を押し返す。両者の力は、五分。

 極熱と極寒がぶつかり合い、その狭間は目に見えるほどに歪んでいる。


 いつしか兵たちが退いている。

 勝家と謙信、ふたりの鬼の競り合いになった。

 その間にも、両軍は統制をとりつつ勝負の行方をうかがう姿勢を見せている。



「これが、鬼同士の戦い」



 景子は息をのんだ。

 おなじ鬼である景子にはわかる。ふたりが開いた地獄が、どれほどの絶望を秘めているか。

 ややもすれば術者すら巻き込みかねない地獄の開放が、それ以外の人間に与える、恐ろしい影響を。



「――わたしの中にも、あんな力があるのでしょうか」



 魅入られたように、ふたりの鬼の争いを眺めながら、景子は勝蔵に声をかけた。

 返事は無い。振り返って、そこで景子はようやく気づいた。

 勝蔵が居ない。



「え?」



 と、悲鳴が上がった。

 両軍とも、勝家と謙信の戦いを見守っている。

 静寂の中だ。悲鳴のもとははっきりとわかった。

 その原因もはっきりとわかった。敵左翼に突入し、暴れている味方があるのだ。言うまでもなく勝蔵である。


 この小旋風に巻き込まれるように、勝蔵を囲もうとする敵の部隊。勝蔵の加勢に向かう味方部隊。そして左翼の動きに釣られるように右翼の部隊までが、ふたたびぶつかり始めた。



「もう。問題児すぎます。私はどうしたらいいんですか!」



 戦火の中、景子は一人取り残された。

 武器もない。鎧もない。こんな格好でどうすればいいというのか。


 景子の見るところ、味方は劣勢である。

 当たり前だ。味方の半分は川の向こうで、しかも夜襲による不意打ちで生じた陣形の傷は、いまだ癒えていない。

 炎ゆえ目に見える勝家の奮戦が、かろうじて軍の士気崩壊を防いでいた。



「私も、せめて武器なりとも、調達しないと」



 景子は、あわててあたりを探しまわった。

 身一つで戦場に在る不安からの行動だが、そんな者が都合よく落ちているはずもない。


 かわりに落ちてきたのは、水滴だ。

 景子は天を仰いだ。落ちてきた雨粒が、景子の顔を叩いた。



「これは……雨」



 落ちる雨粒は、景子の周りで燃えるかがり火の中に飛び込み、じゅうと音をたてて蒸発した。


 拙い、と、景子は気づいた。

 勝家と謙信、両者の鬼門は完全に拮抗している。

 どんなに高熱でも炎は炎。水には勢いを減じさせられる。

 それがたとえ薄紙一枚分ほどだとしても、拮抗する両者にとっては、決定打。


 雷が落ちた。

 そうとしか思えない轟音とともに、景子の目の前を、赤黒い何かが転がっていった。


 かがり火の下に転がったそれを見て、景子は悲鳴を押し殺した。

 勝家だ。凍てた肌が割れ、飛び出す血液すら凍りついている。全身に赤黒い花が咲いたような猛将は、低く唸った。生きている。

 ばかりではない。そんな様でありながら、勝家はよろよろと身を引きずり起こした。



「毘沙門天の力の前に、伏せ織田の悪鬼よ」



 重い声が響いた。

 景子は見た。駆け来る謙信と、その軍勢を。

 そして直感した。勝家の敗退が、織田軍にとって致命的となることを。



 ――父上なら。



 焦りの中で、景子は思考を走らせる。



 ――父上なら、どうする?



 景子は戦を知らない。だからこんな時、どうしていいのか分からない。

 しかし、いまの状況が、秀吉が居てどうにかなるのなら。



 ――私が。



 景子は駆けた。

 前に向かって全力で、駆けながら、見据える。


 軍神を。

 そして迫り来る敵勢を。



「私が、父上に代わって……戦う!」



 刹那、槍が来た。

 景子は避けられない。

 避けようとする意思が体を動かすよりも速く、鋭い槍先は服を裂き、景子の体は槍玉に挙げられる。


 ふたたび地面に落ちた時、景子の姿はずたぼろになっていた。

 地に落ち、泥にまみれた服はいたるところで破れ、奥にある白い肌を見せている。


 そんな姿で、景子は立ち上がった。

 死者が蘇えったような驚きを見せ、敵の武者たちが足を止めた。



「鬼か」



 つぶやく謙信の目の前に、景子は立ちはだかる。

 複数の槍を食らったはずの景子の体。破れた服の間からちら見える白い肌には、傷ひとつ、ついてはいない。

 己の異常に気づくことなく、景子は気を吐く。



 ――私が、守る。だから、私の中の力よ、この意思に、応えてください!



「開け、“鬼門”」



 音が、聞こえた。

 門の開く音。そこから、水音が溢れる。


 景子の周りに、水が溢れだした。



 

 

 

 



「みず、か」



 謙信は足を止め、言った。眠るような表情は変わらない。

 謙信の持つ地獄に比して、目の前の小娘の持つ鬼門は小さい。

 少女の力が鬼柴田より数段落ちることは、たやすく想像がついた。


 小娘を打ち倒し、その背後に転がる鬼柴田の首を挙げれば、この戦が上杉の勝利のうちに終わることは明確だ。

 だから謙信は少女に向かって馬を進めようとした。


 だが、謙信が予想もしないことが起こった。



「て、手取川が!!」



 上杉方の誰かが叫んだ。

 謙信は眠るような瞳を上げた。そして見た。

 鬼が啼くような低い音。それとともに敵軍背後の闇の奥から、水が流れ来る様を。


 手取川が氾濫したのだ。

 自然現象ではない。その証拠に溢れる水は少女と謙信の間を正確に分断した。鬼門に違いなかった。



「なれば、これは三途の川」



 謙信はつぶやいた。

 地獄の入口。彼岸と此岸とを分ける冥川だ。

 地獄としては、浅い。だが、その規模は異常だ。

 三途の川と化した手取川は、敵味方を完全に分断しているのだ。謙信や勝家の鬼門とは比較にならない巨大さだ。


 三途の川は、渡れない。

 渡ればその先はあの世だからだ。

 それを証明するように、川の流れに巻き込まれた兵たちは、つぎつぎと倒れ死んでいく。



「潮時よ」



 軍神は退き時を見誤らない。すでに所期の目的は達している。

 謙信は陣貝を吹かせて素早く退いていった。


 それを見極めたように、少女の体は木の葉のように揺らめき倒れた。

 

 



 

 



 景子がつぎに目を覚ましたのは、なんと長浜城の自室だった。

 きわめて見慣れた天井である。わけがわからず、きょとんとしていると、ふいに声をかけられた。



「景子」



 父の声である。

 寝返りを打って振り返ると、秀吉が枕元に座っていた。



「父上」


「景子。すまん!」



 どんと音がした。

 秀吉が畳に頭を打ち付けたのだ。



「ち、父上。頭を上げてください。それと事情がまったく分からないんですけど、私はどうしてここに居るんですか」



 混乱しながら、景子は事情を尋ねる。

 秀吉は、勝蔵殿から伺った話じゃが、と前置きして話した。


 謙信を退けた後、景子は泥のように眠り続けたのだという。

 目を覚まさないまま勝蔵に連れられて長浜まで戻り、そこからさらに一日近く寝ていたらしい。



「柴田さまたちは」


「分けたとはいえ、味方のほうが傷は大きい。手取川では織田の負け戦だ、というのが世評じゃ。

 とはいえ、さすがは柴田さまじゃ。南加賀でふんばっとる」



 勝家の無事を知り、景子は、まずは安堵した。

 胸をなでおろす景子に、そういえば、と秀吉が口を継いだ。



「森殿が柴田さまからの言葉を伝えてくれた。景子宛にな」


「柴田さまから?」


「お主のせいで助かった。礼を言う――だと」



 あの古つわものが、そっぽを向きながら背中で感謝を示す様を想像して、景子は思わず微笑んだ。

 そんな景子に、秀吉が居ずまいを正して、また頭を下げた。



「わしからも礼を言わにゃならん。

 あそこで柴田さまが死んどったら、わしもただでは済まんかったろうさ」


「……父上はなぜ、柴田さまと仲たがいをされたのですか?」



 景子はすこし躊躇ってから、思い切って尋ねた。

 勝蔵の言葉が本当ならば、立場どころか命の危険さえ侵して、秀吉は帰陣した。

 しかし秀吉が口にする柴田勝家の名の呼びように、意趣のある響きはまったくない。



「……わしもな、個人的には柴田さまが好きじゃ」



 ややあって、秀吉は重い口を開いた。



「愚直なまでに潔い、気持のよい人よ。戦場でのあの方の“掛れ”の声に、どれほど勇気づけられたかわからん。

 だがのう。あの人の中では、今でもわしは小者しょうじゃの藤吉郎なんじゃ」



 仕方ない、という風に、秀吉は嘆息した。

 言われて、景子にも想像がついた。家老である勝家には及ばないが、多くの与力をつけられ、大領を持つようになった秀吉に、あの古つわものは小者に対するようにふるまうのだろう。


 そこに悪意はない。ただ頑固で、不器用なだけなのだ。

 景子にはなんとなくわかる。秀吉はそれ以上に理解しているだろう。



「わしはそれでええ。じゃが、わしを主と立ててくれとる連中、わしに夢を見てくれとる連中。

 こいつらの前で面目を失うわけにはいかんのじゃ。たとえ尊敬する方と袂を分かつことになってものう」



 景子にもそれは分かる。

 誰も、仕えている人間が貶められる姿なぞ見たくはないし、見せてはならない。

 特に、一族の極めてすくない秀吉軍団を支えているのは、秀吉個人のカリスマであると言っていい。

 彼の持つカリスマ性に傷を負わせることは、軍団崩壊の危険すら孕む大事なのだ。


 だからこそ、秀吉もあえて軍令違反を侵すような真似までして、勝家の元から離れたのだろう。


 だが、それは。寂しい話だった。



「とはいえ、景子」



 なにかを振り払うように、秀吉は笑顔になって、景子の頭に手を置いた。



「よう帰ってきてくれた。それが一番の手柄じゃ」


「はい」



 掌の心地よいぬくもりに、景子は笑って応えた。

 奥から、母親たちの騒がしい声が近づいてきた。





ちなみに、謙信が景子の鬼門を一瞬で見抜いたのは、すでに同種の鬼門を見ていたから、という設定

ちなみにその鬼門の使い手は、佐竹義重です。出て来ませんがw

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