鬼と悪霊
第三話 「鬼と悪霊」
ひたり、と。水に濡れたような足音を、景子は聞いた。
茫漠たる闇の中、風に寄せられ、さざ波を立てる琵琶湖の水音を聞きながら。
はるか遠くで発したはずの足音は、ほかのどんな音よりも間近に、景子の耳朶をくすぐった。
ひたひたと。ひたひたと。
迷わず、まっすぐ、はっきりそれとわかる速さで、足音が近づいてくる。
景子にはなぜかそれが、自分を求めているのだとわかる。それが、とても善くないものだということも、彼女にはわかる。
わかりながら、景子にはどうしようもない。
ただ確実に近づいてくる足音を、成す術もなく聞いているしかない。
そして――
「――夢、ですか」
蒲団の上で、景子は目を覚ました。
冬だというのにぐっしょりと汗をかいており、肌着が重く湿っている。
ただの夢ではない。
昨日、岩を割った時に聞いた、あの声に関係しているだろうことは、景子にも察しがついた。
悪霊。怨霊。魑魅魍魎。
そういった類の存在を、現代人としての景子は否定している。
だが、そもそもの発端である昨日の異常は、景子の知識ではとても説明できないのだ。
放っておいていい問題ではない。
理性ではなく景子の勘が、全力で警鐘を鳴らしていた。
「私事で、父上の手を煩わせたくはありませんが……」
悩んだ末、景子はやはり秀吉に相談することに決めた。
城に居る時も秀吉は多忙である。捕まえることができたのは日も暮れようかというころだった。
景子が「話がある」というので、最初相好を崩していた秀吉も、話が進むにつれ、しだいに難しい顔になっていった。
槍を持ち、岩を割ろうとしたこと。
不思議な空間を見たこと。声を聞いたこと。
そして気づけば岩を割ってしまっていたこと。今朝見た夢のこと。
事の起こりである、虎之助が槍を駄目にした事だけ伏せて、あとは全部話した。
「――悪霊、かのう」
最後まで話を聞いてから、口をへの字に結んで、秀吉がつぶやいた。
「彼岸と此岸の狭間に居る亡者よ。おまえはそれに魅入られたらしい」
以前の景子なら、笑って否定したかもしれない。
だが、じっさい不思議を体験してしまった以上、笑い飛ばせるものではない。
景子が落ちつかない様子でいると、ふいに秀吉が彼女の頭に手を置いた。
大きくて温かい、父親の手だ。景子は不安が急速にしぼんでいくのを感じた。
「ととさまに任せい。古来、悪霊退治は武士の仕事と相場が決まっておる。我が騎下一の勇将をつけてやるから、おまえは安心しとりゃあええ」
頼もしい言葉に、景子は目を細めてうなずいた。
それから景子はあらためて秀吉に呼ばれ、ひとりの男を紹介された。
大柄で寡黙な、少壮の武者だった。顎のあたりにまだ新しい刀傷がくっきりと残っており、それが景子に戦の風を間近に感じさせた。
「それがし宮田喜八郎。羽柴の殿より姫君の護衛の命を仰せつかった」
威のある野太い声だった。
宮田喜八郎光次。
いわゆる羽柴四天王の一角として武名高い武将である。
むろん景子が彼の名など知っているはずもないが、喜八郎の居住まいは、彼女が知っているどんな人間よりも芯が据わっている。
「よろしくお願いいたします、宮田さま。頼もしく思っております」
応、と、合戦のような声で返されて、景子は苦笑交じりに頭を下げた。
◆
その晩は、早々に部屋に閉じ込められた。
城のどこかにあったのか、はたまた心得のある者がいたのか。
部屋中にべたべたと札が張り付けられて、景子自身もねね愛用の数珠と経を持たされている。
これを手渡しながら、ねねは宮田喜八郎にしつこいほど景子のことを頼んでいた。ありがたいが気恥かしくもある。
その喜八郎はというと、邪魔にならぬよう気遣ってか、部屋の隅で静かに座っている。
だが鎧兜を身に纏い、弓を杖にして微動だにしないさまは、異常なまでに暑苦しい。しかも喜八郎、部屋に入ってからほとんど口を開いていない。
気が詰まりそうになる。
景子は気散じを兼ねて火鉢に金網を置き、手ずから餅を焼いて彼にふるまった。
「かたじけない」
喜八郎はまったく姿勢を崩さず、むしゃむしゃと餅を食らう。
――ああっ、せっかく上手に焼けましたのに。
景子は餅好きである。
凝りに凝って焼いた餅が哀れにも胃袋に投げ込まれていくさまに、こっそり涙した。
皿の中の餅がすべて喜八郎の胃袋に収まったころ、ふいに廊下がきしむ音がした。
――悪霊。
景子はすぐに連想した。
足音は確実に景子の耳に響いている。
一歩、一歩、確実に近づいてくるそれは、やがて部屋の前でぴたりと止まった。
――昔、こんな話を聞いたことがあります。
既視感を覚え、景子は以前聞いた怪談を思い出す。
悪霊に魅入られた男が、お札を張った部屋に籠もる話。
お札のために部屋に入れない悪霊が、知り合いの声を使ったり、昼間だと欺いたり。あらゆる手段を使って男を騙そうとする、そんな話だ。
「何者か」
喜八郎が誰何の声をあげた。
常と変らぬ落ち着いた声である。安心感を覚え、景子は初めて彼の存在に感謝した。
ふすまの向こうで、喜八郎の声に応えるように、身じろぎするような衣擦れの音があった。ややあって、幼い声が扉の向こうから聞こえてくる。
「……虎之助です。失礼いたします」
一瞬、いやな想像が景子の頭をよぎったが、それは裏切られた。
ふすまはあっさりと開いた。部屋に入ってきたのは、間違いなく虎之助だった。
「虎之助。驚かさないでください。肝を冷やしました」
「いや、ちっとも怖がっとるようには見えん――と、喜八郎さま」
虎之助は喜八郎を見てやおら居住まいを正し、頭を下げた。
「加藤虎之助。護衛の端に加えていただきたく、推参いたしました」
喜八郎は不動、無言である。
横で見ている景子のほうがはらはらしてしまう。
虎之助が重ねて頭を下げた。
「喜八郎さま。どうか許していただきたく」
「許す」
やはり微動だにせぬまま、この勇将は口元だけを動かした。
「話すのはどうも苦手でな。わしでは姫を落ち着かせられん」
これまでの沈黙の正体を知って、景子は苦笑いを浮かべた。
どっと疲れた気分だった。
◆
虎之助が加わったことで、すこし場が和んだ。
景子は火鉢の上に金網を置き、はたはたと餅を育てている。
香ばしい匂いが部屋にあふれ、育ち盛りの虎之助などは生唾を飲んでいる。
「どうぞ。虎之助」
ぷっくりと脹れ、きれいな焦げ目がついた餅を進めると、虎之助は即座に齧り付いた。
餅を伸ばしながら、うまそうに食べる姿を見せられて、ふるまった景子も満足である。そのあと少年は味噌をつけたのを三つも平らげてしまった。
「美味かった」
本当においしそうに言うものだから、景子も笑みがこぼれようというものだ。
しかし、それからさらに餅を取り出し、金網に並べようとする景子に、虎之助もさすがに辟易とした顔になった。
「もう満腹じゃぞ」
「これは私の分です」
景子は涼しげな顔で言った。
ずらりと並べられた餅は、喜八郎と虎之助が食べた量よりも多い。
「おまえ、餅が好きなのか」
「好き、では足りません。私は餅を愛しているのです――ずんだ以外」
景子は迷わず言った。
「この世にこんなにおいしい食べ物はないと思っております――ずんだ以外。神に愛された食べ物ではないかとも思います――ずんだ以外」
「ずんだとは何じゃ?」
「悪魔の食べ物です」
景子は断言した。
「いや、餅が天上の食物だという事実を鑑みれば、堕天使的な食べ物と言った方が正しいのかもしれません。初めて食べた時はその過剰な甘さにめまいがしました。断言します。あれを作った人は悪魔です。外道です。天魔です。私は第六天の魔王が居るとすれば、それはずんだの開発者だと確信しました。もし万一そいつとめぐり合うことがあれば、どんな手を使ってでも倒そうと心に決めたものです」
「そ、そうか」
景子があまりに熱く語るので、虎之助も引き気味である。
ちなみにずんだ餅を開発したのは奥州の独眼竜、伊達政宗と言われているが、もちろん景子はその事実を知らない。
ひとしきり吐き出して落ち着いたのか、景子はまた餅を丹念に育て出した。
虎之助が景子に微妙な視線を送っているのだが、本人はまったく気づいていない。
そして夜半過ぎ。景子は水音を聞いた。
◆
悪霊か。
即座に動いたのは喜八郎だった。
すっくと立ち上がると空弓を構え、びぃん、びぃんと弦を鳴らした。
邪気を払うまじないである。それを知らない景子の耳にも、鳴弦の音は頼もしく響いた。
だが、水音は止まない。
ひたり、ひたりと、近づいてくる。
灯明の火が揺れた。ほの暗い部屋の中で、三人の影が躍る。
喜八郎が矢をつがえ、きりきりと引き絞った。
水音は近づいてくる。がたりと、ふすまが音をたてた。
一瞬の間。直後、ふすまが暴れ出した。桟がきしみをあげる。
心臓を締め付けられるような思いで、景子は数珠を握りしめた。
喜八郎はすっと景子の前に立ち、不動。ふすまの奥に狙いを定めて瞬き一つしない。
虎之助のほうも槍を構え、景子のわきを守るようにしているが、こちらは膝が震えている。
「虎之助」
「む、武者ぶるいじゃ!」
と、突っ張って見せたが、虎之助はやはり緊張していたのだろう。
だから。
「虎之助、虎之助かい? ここを開けておくれ」
こんな、あまりにも不自然な声に、引っ掛かってしまった。
「お、おねねさま!」
外の者が声をかけ、中の者が答える。
これが“招く”行為に当たることを景子は知らない。
だが、これにより引き起こされた事は、彼女の眼にも明らかだった。
すっと、音もなく、ふすまが開く。
その向こうにあった代物を目の当たりにして、景子は凍りついた。
女だった。
ねねとは似ても似つかない。死色も明らかな、やせぎすの、一糸纏わぬ姿の女だ。
全身ずぶ濡れに濡れており、肩口から胸まで袈裟がけに斬り下ろされた刀傷が、赤黒い傷口をこちらに向けている。
眼窩は虚ろであり、その奥におき火のような光があった。
「ミツケタ」
女は、にたりと、赤い赤い唇を弓なりにしならせた。
――怖い。
景子は数珠をぎゅっと握りしめた。
死体を見るのは初めてだった。それが動くのもむろん、初めてだ。
景子には、目の前の存在が何ひとつ理解できない。それでも女は動く。その虚ろな視線はまっすぐに景子を射ぬいている。
死霊。悪霊。
その存在を、景子は初めて理解した。
「亡者めが!」
裂ぱくの気合とともに喜八郎が弓を射た。
それを額に受け、どす黒い脳漿のごときものを撒き散らしながら、亡者は狂笑を浮かべて景子に向かって突進してくる。
「させぬ!」
「景子!」
喜八郎と虎之助が体をぶつけるようにして割って入り――そのまますり抜けてつんのめった。
亡者の身は陽炎のごとくすり抜け、景子に向かう。
とっさに反応できないでいる景子の肩に、ひやりと冷えた手が触れた。
瞬間。
「景子さま」
女が、声をあげた。
「やっとお見つけいたしました」
その声が、あまりにもやさしげで。
景子は女に斬りかかろうとするふたりを手で制した。
「あなたは……私を知っているのですか」
激しい動悸に息切れしながら、景子はかろうじて声を出す。
景子さま、と、女は言った。本人すら由来が定かでない名を、この亡者は知っている。
「ええ。もちろんですとも。我々が、われわれがお仕えする御方ですもの」
女の声がぶれる。
男のような声であり、女のような声であり、年かさもあればごく若い声も混じっている。体はひとつでも、中身はそうではないのだ。
「ずっとお待ちしておりました。冷たい、冷たい地面の下で。景子さまをお待ちしておりました。ですのに、景子さまはちっともちっともいらっしゃらない。こんなにもお待ち申し上げているのに。こんなにもお待ち申し上げているのに。だからだからわたしはそれがしは……」
「――そう。私のために、あなたたちは死後も囚われてしまったのですね」
景子は理解した。
ねねに拾われる以前。記憶を失う前の景子に、この女たちは仕えていたのだ。
哀れだった。ひとえに景子への忠心のために、彼女は、彼女たちはこの世を彷徨っていたのだ。
景子はいたわるように、女に声をかける。
「今の私は羽柴の娘として、不足ない暮らしをしています。あなたたちはもう、休んでいいんです」
ぴたりと、女が動きを止めた。
「もう、わたしは要らないと?」
その言葉には、危険な響きがある。
だが景子はそれに気づかない。気づかないまま、静かに、
首を左右させた。
「不要なのではありません。あなたはもう、あなたのために、目をつむってもいいんです」
「なれば――」
静かに。女の手が、景子の細い首にかかった。
瞬間、ばちん、と景子の持つ数珠がはじけ飛ぶ。
「あなたを地下にお送りして、死後も永遠に仕え続ける事こそ、我らの望み」
「ま、って」
声が出ない。
巻きついた手が、万力の強さで景子の首を締め始める。
粘性を帯びた空恐ろしい声で、亡者が景子にささやきかけた。
「――我ら景子さまのお命が、欲しゅうございます」
「させぬ!」
裂ぱくの気合声とともに、剣閃が稲光った。喜八郎だ。
女の体から両の腕が切り離された。
だが。腕だけになっても首を絞める力はまるで衰えない。
なおも斬らんと追う喜八郎から逃れるように、女が景子の後ろに回り込んだ。
濡れた体を景子に圧しつけながら、亡者は愛おしげにささやきかけてくる。
「さあ、景子さま。ともに、ともにあの冷たい地の底へ参りましょう。そこでずっと、ずっとお仕えいたします」
――ごめんなさい……できない……それは……絶対に!
かすみを帯び始めた意識の中で、景子は強く思う。
――だって、私はもう、あなたたちの景子じゃない。未来の記憶を持つ、羽柴の娘なんですから!
生への執着が巌となって感情の湖面を叩く。
その時、景子は――また水音を聞いた。
流れる川の音。力が、体の奥深くから流れてくる。ありったけの力で、景子はそれを亡者に投げつけた。
水音。そして断末魔。
鳥肌の立つような音をたて、擂り潰されるように、女の姿は掻き消えた。
女の居た畳は黒く濁った水が溜まっている。それもほどなくして透明になり、消えた。
喜八郎に切り離された両の腕が力なく地面に落ち、消えた。消える前に九字を切るようなしぐさをしたが、呼吸を求めて必死だった景子の眼には映らなかった。
「これは、鬼門か」
喜八郎がつぶやくように言った。
◆
そのあと、景子は布団に寝かされた。
水音はもうなかったが、喜八郎と虎之助は用心して警護を続けている。
「鬼門とは、何ですか」
寝床から、景子は喜八郎に尋ねた。
「聞いておられたか」
「ええ」
景子はうなずく。
この晩、景子の身にはいろいろなことが起こりすぎたが、最後に聞いたこの言葉は、はっきりと心に残っている。
しばらく言葉に迷う様子でいた喜八郎は、やがてぽつりとつぶやいた。
「鬼門とは、鬼の業」
「鬼の……鬼とは?」
「黄泉返り」
喜八郎の返しは短い。
だが、次々と質問して、景子はおおよそを理解した。
“鬼”とは、一度死んだ人間が蘇えったものだ。
例外なく異常の力を得る。鬼門と呼ばれる力だ。景子が最後に使った“水”。あれこそが鬼門の力ではないか。つまり景子は。
「おまえが、鬼? 柴田様や丹羽様とおなじ?」
信じられないというように、虎之助がつぶやいた。
柴田勝家と丹羽長秀。ともに織田家の家老であり、鬼柴田、鬼五郎左と称される猛将でもある。
秀吉の下、武をもって身を立てることを望む虎之助にとって、二将はあこがれの存在だった。
「私が、鬼」
景子はつぶやいた。
驚きはない。もとより女の体になったこと自体が異常なのだ。
そのうえ鬼だのなんだの言われても、実感がわかないというのが本当のところだ。
景子が気にしたのは、それによって秀吉たちが迷惑を被らないかという、そのことだけだった。
「私が鬼では、父上や母上に迷惑がかかりますか?」
「否」
喜八郎は首を横に振った、その時。
「――その通りじゃ」
と、ふすまが開く。
入ってきたのは秀吉だった。
景子は驚いたが、あれだけの大立ち回りがあったのだ。おなじ御殿にあって気をかけていれば、気づかぬはずがない。
静かになって様子を見に来たところで、会話を聞きつけたのだろう。秀吉に続いてねねまでもが入って来た。
ふたりは喜八郎と虎之助をねぎらってから、景子の枕元に腰を据える。ねねが景子のほほを、やさしくなでた。
「馬鹿だねえ。景子がそんなこと、気にすることないんだよ」
「その通り。景子が鬼であろうが無かろうが、わしらにとっては大切な娘じゃぞ」
秀吉が、あえてだろう、陽気に言った。
「おまえは羽柴の娘じゃ。いまはそれでええ。将来は、ははっ、わしがどっかええところを見つけちゃるさ。おまえが戦わんでもええ、平和なところをな」
「平和な、ところ」
「虎。おまえにゃやらんぞ」
「い、いらん! そんなつもりで言うたわけじゃないです!」
ぼそりとつぶやいた虎之助は秀吉に目を眇められ、景子の方を見ながら真っ赤になって否定した。
その様子に、笑顔になりながら。やはり疲れていたのだろう。景子は深い眠りについた。眠る間際に、また、川の音を聞いた。




